■日々つれづれ(2017-11-28)ー 日本語教師、一年後

日本語を外国人に外地で教え始めてほぼ一年経った。第二の人生の「仕事」として、日本語を教えながら自分もその教え方を勉強していくということで始めた活動だが、この一年間で教える場所も広がってきたし、教え方についても大分方針が固まってきたと思うので整理しておく。

以下は、具体的な経験に基づいた個人的感想であって、誰にでも共通な内容という訳ではないが、似たような環境で日本語を教えている方もいらっしゃるだろうし、ご自分で考えられる際の何かのヒントになれば有難い。なお、最後にルビの振られたテキストをどう作成するかという技術的なトピックを付記して共有させて頂くことにする。

当初は、言語一般や日本語の教え方の本を何冊か読んだ程度で、本格的な日本語の教授法を学んだ事がない自分に授業を行う資格があるのかということが主な悩み、迷いだった。いわゆる直接法でいくのか、間接方でいくのかということもはっきりした方針は持っていなかった。

一つ目の問題については、日本人である自分が欧州の諸言語を学んだ際の経験を逆に考えて活かしていくことが有効であることに気付いた時点で吹っ切れたように思う。自分の具体的な経験に即して言えば、ローマ字を通して学校英語を学んだこと、 大学以降でロシア語を皮切りにスラブ諸語を学んだことを逆に活かしていくという事になる。

二つ目の問題については、状況を一般化して考え過ぎる愚から脱却することで迷いは薄まった。生徒の言語が単一で、先生も外国語とは言えそこそこ理解して会話が出来るのであれば、その共通言語で授業を行うことに一般的な不都合はないであろう。また初級の授業ではむしろ望まれる選択肢であろうかと思う。

もちろん、個人レッスンと、年齢や日本語を学ぶ目的の異なる生徒が集まるプライベートな語学学校とでは教え方が異なるし、教える場所の環境も考慮して教え方を考えていかねばならない。こうしたことは失敗した経験と反省を重ねてからでないと気付かないのが普通なので、 不断の反省が要求される。因みに、最近気付いたのであるが、大きい教室で比較的大人数の低学年の生徒に教える場合、視聴覚機材に頼り過ぎてはいけないようだ。低学年の生徒達向けの授業では精神的に生徒達から離れないように努めることが肝要と思う。

さて、ルビ付きのテキスト作成について。授業をしていると、教科書のコピーではなく、自前のテキストを使う必要がしばしば出てくる。コピーでは先生自身が引用されたテキストの解釈が消化不十分ということがままあるが、自前のテキストだと作成の過程で色々気付くことが多い。自分の場合これまでは「字(じ)」というように表記してきたのであるが、パソコンで処理しやすいというメリットはあるものの、ルビを振れないというデメリットがあった。

たまたまウィキで「ルビ」の項(ここ)を見ていたらHTML で簡単に処理できることに気付いた。多少試行錯誤を重ねたが、以下の手順でいけるようなので、関心のある方は試してみてはいかがだろうか。もちろん、もっといい方法をご存じの方もいらっしゃると思うが、その場合は以下は無視して頂きたい。

1) まず、ルビ無しの漢字仮名混じりのテキストを作成する、この時点ではエディターはなんでもよい
2) 1)のテキストをLibreofficeなどのワープロ・ソフトでHTMLフォーマットで保存する
* LibreOffice 5.3.7.2.0+では保存するフォーマットを変更するだけで必要なコードを埋め込んでくれる
3) 2)で保存したファイルをgeanyなどのテキストエディターで開き、ルビを表示するためのコードをコピー・ペーストしていく

こんな感じになる。

複雑な編集をする場合にはHTMLの知識が必要になるが、簡単なテキストにルビを振るだけであれば、テキスト本文の部分をHTMLのコードを使って作業していくだけなのでさほど時間はかからないと思う。

(了)

■ 梅田芳穂さんとウッチ(その3ー最終回)

ウッチにおける梅田芳穂さんをテーマにしたシリーズの投稿も今回で3回目。手元にある資料の紹介は一段落するし、ひとまず今回で区切りを付けておくことにする。ただし、ブログのカテゴリー(大きなテーマの一つ)として残しておくので、機会があれば続編を投稿していこうと思っている。

梅田さんは筆者よりも4歳年上で、筆者がポーランドに移住する30年も前にポーランドに移り住まれている。この30年間のうち、特に1981年12月13日の戒厳令発令の後に国外追放措置(1982年?)を受け、その後に永住権を回復するまでの約10年間を、自分が経験していたことと照らし合わせながら最初に考えてみたい。

この10年間は、梅田さんにとっても筆者にとってもほぼ人生の30代に相当する。梅田さんにとっては家族との離別を強要された失意の時期であったと言えるであろうか。一方で筆者は、時期は少しずれるが、ポーランド人と知り合い結婚して家族を形成するとともに、本格的な職業人生を経験した時期であった。梅田さんと初めてお会いするのもこの頃である。

しかし、自分の回想はこの位にしておこう。梅田さんのウッチ時代に話しを戻す。梅田さんがウッチ時代に寄宿していたヤジジェフスキ家のキンガさんからお借りした本の中に、梅田さんについての本格的な伝記『Wolny agent Umeda i druga Japonia』(Anna Nasilowka著)がある。ただし、ポーランド語である。

梅田さんほどの著名な活動家であれば日本語による伝記の企画があっても不思議ではないが、ネットでチェックした限りでは、実際に出版された日本語による伝記はまだのようである。となるとやはり、上述の伝記を紐解くより手がないのかなと思う。ポーランド語の大部な本で、全文に目を通すとなるとかなりの作業になるのであるが、本ブログの主題であるウッチに係る部分だけでもと思い拾い読みを始めた。

まず目次を眺めてみる。全文を読み通している訳ではないので確定的なことは言えないが、叙述は編年体になっているようだ。さて順にたどっていくと、中ほどに「1963-1970:Yoshiho – ウッチとザコパネ」という章がある(第五章)。梅田さんのポーランド到着は1963年のことだから、この章が自分が読みたい部分ということになる。

章の初めに梅田さん自身が語られたご自身の家族のことについての記述がある。筆者は直接面識がないが、古くからポーランドに住んでおられる日本人としてしばしば耳にする鴨治晃次画伯のことなど、興味深い記述に溢れている。この記述によれば、画伯は梅田さんの従兄弟に当たり、梅田さんの父君梅田良忠博士をしばしば訪問し、欧州美術に大きな関心を示していたそうだ。そして、1958年(59年?)にポーランドに移住している。1935年生まれだそうだから、20代前半でポーランド移住をされたことになる。画伯についてはポーランド語版ながらウィキペディアにも個別の項がある(ここ)

梅田良忠博士が亡くなった1961年12月から半年ほど経って、芳穂さんは母上から、博士の遺言で遺された男子二人のうち一人がポーランドに行くことになっていると告げられる。活動的な性格の男の子であった芳穂さんは、自分が故父君の意志を次ぐことをほとんど迷うことなく決めたそうである。

成人してはるか経ってからの10代の頃の記憶は、その後の経験で無意識の内に誇張されていることがよくあるが、後年母君も芳穂さん自身が決めたことと受けあっているそうであるから、よほど意識的な決断であったのであろう。

芳穂さん自身、故父君の意志はひょっとしたら息子のうちのどちらかがポーランドに留学するということであったのかもしれないと回想している。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。とにかく、結果として父君の早すぎたかもしれない逝去はその後の芳穂さんによるドラマを生み出した。

次いで、ヤジジェフスキ家で芳穂さんを受け入れることになった経緯が回想されている。芳穂さんは、父君は最初から受け入れ先はヤジジェフスキ教授と決めていたようだと回想している。一方、ヤジジェフスキ家の子供達の一人で前掲書でしばしば引用されているエヴァさんは、間接的ながらも自分達一家が最終的に受け入れを決断させるような書き方で受け入れ先の探索を依頼されていたと回想している。

筆者は1993年末にポーランドに移住してきたが、移住に当たっては様々な書類の準備が必要であり、随分と走り回された。これに先立つこと30年前の1963年当時の状況がどのようであったかは容易に想像がつく。とにかく準備が整い、芳穂さんは1963年7月にナホトカに向けて横浜港を出発した。筆者も、1978年6月に観光旅行ながら同じ航路で横浜ーナホトカ間の船旅を経験しているが、当時日本からソ連に入るには航路でまずナホトカにというのが普通であった。

この後に、偶然同じ船に同行した日本人女性に関する逸話が記述されているがここでは省略する。とにかくポーランドになんとか到着した芳穂さんは、ポーランドでの最終目的地であるウッチのヤジジェフスキ家に向うが、その前にワルシャワに短期間滞在する。ワルシャワでは前述の鴨治晃次画伯とも会う機会があり、同画伯がウッチのヤジジェフスキ家の住まいまで芳穂さんを送り届けたようである。

「ウッチに移動した小旅行のこともよく覚えている。列車で3時間ほどの旅程だった。ヤジジェフスキ教授の家はとても大きく、広さは100平方メートルはあった。まずヤジジェフスキ教授が出迎えてくれたが、その時の会話は英語でしたように思う。家にはおばあちゃん達の他には誰もおらず、教授の子供達は、ヤジジェフスキ教授が指導する発掘現場を兼ねた夏季休暇先に出払っていた。その日ウッチの家で寝たのかどうか、もうよく覚えていない。多分翌日だったと思うが、ストブニッツァというところにある発掘キャンプに連れて行かれた。ストブニッツァは、スレユフの南30キロほどのところのピリッツァ河畔にあった。砂の高い土手の上に鳥達が巣を作っていた。」(前掲書185頁に記載された梅田芳穂さん自身の回想から)

以上、『Wolny agent Umeda i druga Japonia』からごくごく一部分を拾い読みしてきた。ここまでの内容でちょうど最初の投稿(ここ)につながっていく。ポーランドに到着してから、ワルシャワに移って本格的な活動を始めるまでの、ウッチでの梅田さんの生活について日本語で紹介するというのがこの3回の投稿の目的であった。ここで一区切りとしておきたい。

(参考)
Anna Nasiłowska, “Wolny agent Umeda i druga Japonia.”, Wyd. Premium Robert Skrobisz, przy współpracy Algo Sp. z o.o., 2013, ​ISBN 978-8389683-72-4
本投稿では、原著の断片を翻訳しブログに記載することにつき著者から許可を得た上で紹介させて頂いている。​

(了)

■日々つれづれ(2017-09-23)ー在外日本人の帰属意識と自炊本のこと

自分が生まれ、そして母の言葉である日本語を身に着けた日本という国から、はるか遠い外地で長期間異邦人として生活していると、「日本人であること」についてよく考える。

国境で囲まれた領土内に居ることがその条件の一つになる国民国家における国民という観点で考えると、外交的なステータスは保証されているにしても、確かに在外「日本国民」という立場は微妙な位置にある。これだけ人的移動が簡単に行われるようになり、実際に外地に住む日本人が増大している時代でも、国民国家が規定する領土内に居なければその「国の民」ではないと極端なことを言う人がいても不思議ではないし、外交的、法的には日本国民かもしれないが、純粋な「日本人」ではないという人もいるかもしれない。しかし、筆者の帰属意識はやはり「日本」にあるし、筆者は「日本人」であると考えている。理由は、自分が生まれ、言葉を身に着けた場所は日本であり、このことはどうしても否定できない自分に固有のものであるからだ。

一方で、筆者は国民国家としてのポーランドの国民ではない。ポーランドではあくまでも異邦人、エトランジェである。それでも居住期間が四半世紀に及ぶ現在の筆者には「ポーランド」にも何某かの帰属意識はある。その主な理由は、日常的に家庭内でポーランド語を使っていることであろう。アンチも含めて欧州文明の根がキリスト教にあることは言を待たない事実であるが、その欧州の一国であるポーランドということで考えれば、宗教も筆者のポーランドに対する帰属意識に影響を及ぼしているかもしれない。

帰属意識を抱く国が二つもしくは複数の国にまたがる日本人は今でもやはり少数派である。その観点で言えば筆者は、少なくとも相対的に、純粋な日本人ではなくなっていると言えるかもしれない。まあ、純粋な日本人かそうでないかの基準は相対的で後天的に得られる「帰属意識」にあるようであるし、自分が生まれた国は日本であり、身に着けた母の国の言葉は日本語であったという事実を超えるものではないとすれば、純粋かどうかということはさほど気にする必要はないのかもしれないが。。。。

外地に住んでいるということで実生活で不便を感じることは多々あるが、日本語書籍の入手ということもその一つである、というより一つであった。遅ればせながら筆者もいわゆる「自炊本」のおかげで、日本語書籍の入手という点でハードルがぐっと下がったからである。筆者がポーランドに移住してきたのは1990年台の前半、旧東欧諸国の体制転換がなされて直ぐの頃であるが、当時はインターネットといってもeメールという商業通信革命の側面が主体で(それまで国際通信の手段といえば、さん孔テープを使ったテレックスが主流)、「ネット」イコールWEBではまだなかった。今でこそ日本食材や日本語の書籍はネット経由で購入することが当たり前になっているが、当時は日本にいる親しい知り合いに頼んで日本で買ってもらい、それをさらにポーランドまで送ってもらう必要があった。トラブルもあったし、そもそもこの作業を始めるまで長いこと逡巡したものである。今は当地ポーランドでも、食材や書籍の購入に限らずちょっとした作業もネットなしでは思うようにはかどらないというところまで来ている。

ネットで観察している限りで言うと、日本では「自炊」という言葉はカッコ付きで表記する必要がないくらい定着しているようである。しかし、自分が住んでいるポーランド・ウッチで見ている限り、紙の書籍を自分で解体してスキャンし、得られた電子本をキンドルなどで読んでいるという話しはほとんど聞かない。当地でもLinux系OSの愛用者などは目新しい事物に飛びつきがちなのであるが、紙の本を自分で電子化して読んでいるという話しはあまり聞かない。統計で確認しているわけではないので一個人の印象に過ぎないが、少なくともウィキペディアでも「自炊」という項目のポーランド語版は作成されていないようだし、当たらずとも遠からじというところであろう。そういう環境にいる筆者もようやく最近自炊本の恩恵に預かれるようになった。ほぼ30年ぶりにネット経由でコンタクトを復活させることができた古き良き青年時代の、心からの友人のおかげである。

これまでも、電子本というくくりで言えばちょっとした経験は既にあり、紙の書籍に拘泥していたわけではなかった。特に、いわゆる推理ものと云うかミステリーものは以前からテキスト・ベースの書籍をパソコンなどで読んでいたし、電子書籍の汎用リーダーを入手してからはもっぱら汎用リーダーで読んでいる。それでも、電子化されにくい専門書や、自分が関心を抱いている分野の学術書の大半は紙媒体でしか読めない。こうした書籍は概して高額で、本体に加えて日本からポーランドまでの送料を加えるとかなりの金額になるので、これまで気軽に購入するという気になかなかならなかった。それが、「送料がかからない」(日本でわざわざ自炊してくれる友人にかかるコストをあえて度外視すればであるが)という新事態が生まれた。この新事態は、少なくとも購入に踏み切るまでの心理的なハードルを低くしてくれる。すでに、筆者が以前から読みたいと思っていた数冊の書籍を購入し、前述の友人に「自炊」してもらっている。友人の好意に甘えることを前提にした話しなので、毎回使えるわけではないが、時々お願いできるようになっただけでも文字通り世界が変わったという気がしている。

懸案になっていた歴史関連の日本語書籍を集中的に読んだこの機会に、当ブログの固定ページに置いている「参考資料」(ここ)に「2.旧ソ連・東欧全般に亘る日本語の歴史関連書籍」という項を追記し、日本語の参考書籍を手元にあるものを中心に整理してみた。言うまでもなく、現在自分が関心を持っているテーマでこれまでどんな本を読んできたのかを整理する為に作成した、自分のための覚書的なリストである。文字通りの歴史書だけでなく、ドストエフスキー全集や東欧文学選集、叢書エトランジェの文学といった、筆者に影響を与えた文学書もあえて挙げてある。特に、20代の「文学青年」時代にエトランジェの文学という叢書を手に入れて読んでいたことは、その後の筆者の人生を考えると感慨深いものがある。もちろん当時は、自分も将来外地で「エトランジェ」になるとは想像もしていなかった。

(了)

■日々つれづれ(2017-08-24)ー Villa Japonicaのことなど

八月も半ば。筆者が住んでいるウッチ市でも雷を伴う集中豪雨で被害が出るなど、天候は相変わらず不順だが、概して周りはサマー・バケーションの真っ只中。筆者も数年ぶりに遠出をして山歩きを満喫してきた。ウッチ市は地理的には現在のポーランドのほぼ中心にある。よって、東西南北どちらに向かうにしてもいわゆる「遠出」になるのであるが、今回出向いたのはチェコとの国境に近いヴィスワ市で、車で片道5時間ほどの小旅行となった。

筆者が住んでいるブロックの隣人から、かつてウッチ大学で勉強した同窓生で、その後日本と関わりを持つようになったご夫婦が同市でペンション(ここ)を経営しているということを聞き込み、訪問することにしたものである。場所はウッチ市からはるか離れたヴィスワ市だが、経営者がウッチゆかりのご夫婦ということで、当ブログの夏季休暇編もしくはつれづれ番外編ということで少しつづってみたい。


ペンションの現在の姿は上の写真の通りだが、オリジナルの建物は1936年に建てられたそうである。当時は、かつて中欧の雄であったポーランドが、一世紀半に及ぶ分割・主権喪失時代を脱し、第二次世界大戦に伴う再分割までの、短い春を経験した第二共和国の末期に当たっていた。第二次世界大戦勃発後、建物は侵入してきたドイツ軍の手に落ちる。その後ソ連による支配を経て社会主義ポーランドの管理下に置かれ、体制転換後はビール会社の別荘であったそうだ。所有が当該ご夫婦の手に移るのは今から17年前のことだそうである。

ここまではポーランド全体にほぼ共通する話しであるが、実はこの地域には特殊な歴史的事情がある。

ヴィスワ市は現在の行政区分でいうとシロンスク県チェシン郡(powiat)に属す下位自治体の都市(miasto)で、チェコ共和国(フリーデク=ミーステク郡)と国境を接している。また、市の名称からも想像がつくように、ポーランド最大の河川であるヴィスワ川は同市の後背地であるベスキディ山脈にその源流がある。

第一次世界大戦終結とロシア社会主義革命の勃発という二つの大きな歴史的事件の結果として、ポーランドは主権国家として再出発を果たし、神聖ローマ帝国時代に民族的覚醒はあったもののその後もハプスブルグのオーストリア帝国、後のオーストリア=ハンガリー帝国の中で少数民族の地位に甘んじてきたチェコは、ハンガリーの影響下にあったスロバキアと合同したチェコスロバキアとなって新しい民族国家として出発する。

ほとんど当然のように、国境を接した二つの民族国家は、それまでチェシン公国(*1)として存在していた地域の帰属をめぐって国境紛争を起こす(*2)。チェシン公国は元々ポーランドのピャスト朝系の公国であったが、14世紀にプラハのカレル橋で有名なボヘミア王カール1世(神聖ローマ帝国カール4世)の父の時代にルクセンブルグ朝に帰属している。当時のチェコスロバキア側の主張の根拠はこのあたりにあったのかもしれない。ただし、旧チェシン公国ではポーランド語話者が過半数を占めていたという資料もあるので、ポーランド側にも自国領を主張する根拠はあったようである。

(*1)ウィキペディアに記述されている「チェシン公国」
日本語Wiki:(ここ)
ポーランド語Wiki:(ここ)
チェコ語Wiki:(ここ)

(*2)ウィキペディアに記述されている「ポーランド・チェコスロバキア戦争/七日間戦争」
ポーランド語Wiki:(ここ)
チェコ語Wiki:(ここ)


チェコ語版Wiki「七日間戦争」で外部資料として引用されている民族分布図

ただし、上述は後追いの知識であって、実際に今回山歩きをしていた時にはポーランドとチェコとの間の現在の国境線上を歩いているという単純な意識だけであった。Glebce、Labajow、Os.Mrozkowといったエリアを中心に歩き、歩き上った地点は、Stozek Wielki(978m)とKiczory(989m)の2地点。この2点間の道程にはところどころ石柱があって、石柱の左右にP(ポーランド?)とC(チェコ?)の文字が記されていたのが強く印象に残っている。



今回の山歩きでのもう一つの収穫は、ペンションのオーナーであるバプスキ夫妻といろいろな話題で歓談できたことだ。当然ご夫妻の体験談が主な話題になったが、ある時にVilla Akiko(ここ)の三和さんのことが話題に上った。バプスキ夫妻曰く、「自分達のペンションは、日本に愛着を抱くポーランド人を主な対象にしているが、三和さんは逆にポーランドに愛着を抱く日本人を主な対象にペンションを経営している」という。実際に三和さんがどう考えていらっしゃるかはもちろん分からないが、そうかもしれないと思った。次いで、日本ファンのポーランド人とポーランド・ファンの日本人とどちらの方が多いかというテーマになったが、バプスキ夫妻は前者の方が多いと考えているようであった。

その連想で、では自分がやっていることはなんなんだろうかと考えている。三和さんやバプスキ夫妻はポーランドとか日本とかといったスケールで活動されている。自分は、日本ではあまり知られていないポーランドの、更にまた知られていない地方都市のウッチを日本人に紹介するというテーマでブログを展開している。ささやかな営みには違いない。ただ、歴史という切り口で少しだけ踏み込んで紹介している点は強調してもいいのかもしれない。現首都ワルシャワや古都クラクフのように華やかなエピソードに彩られた都市の歴史とは異なり、地味な故に地方都市の歴史からポーランド全体の歴史へと展望を開きやすいというメリットがあるからだ。

(了)

■ピョートルコフスカ通り138/140番地 − OFF Piotrkowska

語学学校での日本語夏季集中講座がようやく終了して、ちょっと一息。この一ヶ月間、ムッとするような真夏日も時にあった。そんな陽気のせいもあって、ピョートルコフスカ通りの散策というか、時間潰しも何度かしている。ピョートルコフスカ通りをめぐるこのシリーズでの新しい投稿(ここ)も七月十五日にアップロードしている。

改めて言及するのもおかしな話しなのであるが、本来このブログに投稿されるつれづれの記は私的なもので、ある特定された対象の「宣伝」ではない。とはいえ、内容の中心はその建物にまつわる歴史になるにしても、現在ある建物について触れないわけにはいかず、いきおい何らかの宣伝になってしまうことは避けられないことだ。先の投稿でも、この辺のバランス感覚についてはさらっと触れている。

さて、今日の投稿はピョートルコフスカ通り138/140番地にある「OFF Piotrkowska」と呼ばれるショッピング・エリアがテーマ。以前から記事にしたいと考えていたショッピング・エリアである。エリア全体の地図がホームページ(ここ)にあるので関心があればそちらを参照してもらいたい。ただし、後に言及するラーメン屋さんの「アート・ラーメン」が記載されていないなど、内容が更新されていないようなので最新版ではないことをお断りしておく(本投稿のアップ時点)。

正面入り口を右側から入ったところ
エリア右側を奥に見通した様子
エリアの左側の様子

前述のように、本投稿の趣旨は建物というか、エリア全体の歴史的解題をすることなのであるが、その前に現在あるエリアについて触れておこう。規模の比較は別にして、パッと見の概観で言うと、ウッチの新商業センターであるマヌファクトゥーラとは違い、建物の外壁などはあまりリノベートされていないことがまず目に付く。基本的には好みの問題で、いずれかに優劣をつける必要はないのであるが、歴史マニアの中にはこちらの方が良いという人もいるかもしれない。

「OFF Piotrkowska」の公式サイト(ここ)にこのエリアの歴史解題が載っている。他の例にもれずここにも紡績工場があった。工場主は、F. Ramisch。

公式サイトにある工場の絵

同サイトによれば、他の場所(おそらく144番地)で1879年から従業員8名で手織りのハンカチ製造業を営んでいたF. Ramischは、1889年にこの地に移ってくる。すでに従業員数は70名になっており、蒸気機関のもの1台を含む65台の織機を保有していた。工場のオリジナルの設計者はH. Majewski。その後1893年にF. Miksの設計で増築が行われ、さらにその後F. Chelminskiの設計でアール・ヌーヴォー風の装飾が施されている。工場の敷地は、ピョートルコフスカ通りと当時のミコワイ通り(現在のSienkiewicz通り)とに跨る三区画分に亘っていた。工場はその後も拡張を続け、1897年には従業員数227人、1905年には452人にまで達した。

第一次世界大戦で織機の多くが損傷して使えなくなるが、1924年に「„Franciszek Ramisch” 紡織工場株式会社」として復活し、1935年には従業員数も500人を数えた。また、1929年にはポーランド紡織業生産者組合の事務所がこの敷地内に設置され、G. Geyer、S. Osser、A. Kindermann、P. Biedermann、A. Piwkowski、L. Albrechtといった当時の著名な生産者が同組合に名を連ねていたという。

第二次世界大戦後から1999年までの社会主義政権時代は国有企業として存続を続ける。体制転換後同エリアは複数の所有者の手に移り、現在の姿にリノベートするプロジェクトが立ち上がったのはようやく2011年末のことであった。入り口から入って右奥は今もリノベート中で、これからまた変貌する可能性を秘めたショッピング・エリアということなのだろう。

次の二つの写真を比較すると分るのであるが、最初の写真では138番地と140番地に木造の家屋が建っているのに対し、次の写真には2軒の木造家屋の代わりに塀が建っている。Borowskiさんのサイト(ここ)によると、木造家屋は第一次世界大戦後に取り壊されて、その跡地に塀が建てられたそうだ。


第一次世界大戦以前の様子、Anna Rynkowska “Ulica Piotrkowska” 所収のイラスト集から


Borowskiさんのサイトで紹介されているウッチ県立図書館資料集所収の写真から、撮影された時期は株式会社設立後と思われる

今回のように、ピョートルコフスカ通りシリーズで建物の歴史的解題をしていくと、19世紀後半から20世紀前半にかけての立憲王国時代のウッチ、東欧又はポーランドのマンチェスターと呼ばれたウッチの歴史にいやでも行き当る。そもそも当ブログの主な柱はその歴史を日本語で紹介することに置いていて、その線上でイラスト百科の本格的な翻訳も行っているのであるが、残念ながら前々史の段階である第三巻すら完結できていない。その歩みは文字通り「亀の歩み」であるが、その一方で、このシリーズを間に入れることでウッチの「東欧又はポーランドのマンチェスター」時代を垣間見ることができるので楽しい。

さて最後に、比較的最近本題のショッピング・エリア内にオープンした話題のラーメン屋さん「アート・ラーメン」について触れておこう。

以前当ブログで、日本人による本格的な日本食レストラン「くろねこ」の紹介をしているが、実はポーランド人によるレストランや軽食バーは当地ウッチでも相当数できている。この「アート・ラーメン」はラーメン専門店といった感じの軽食バー。注文できるビールも某日本メーカーの銘柄に特化し、店員も同銘柄を強調したTシャツをまとっている。但し、店員にさらっと聞いた限りでは資本関係などはないらしい。毎週月曜日を定休にして麺や具材の仕込みをする日に充てているようである。細長い店のつくりで、奥にあるカウンターと入口側の窓に面したカウンターの他に、10名ほど座れるテーブルがある。店のイメージは日本などのラーメン屋さんにかなり近い。

味について言うと、一言で言えばポーランド人向けの味というに尽きるだろう。かなり濃い目の味になっている。特に塩ラーメンは日本のイメージとはかなり違う。ただ、「アート」という店の名前から想像されるように、店員は別にして少なくともオーナーはこの点を明確に意識して店作りをしているように思える。以下は筆者が試食した味噌ラーメンと塩ラーメンの写真。


醤油ラーメン、「とりネギラーメン」といった趣のラーメン


塩ラーメン、海鮮ラーメンといった趣のラーメン

上の2銘柄を試食してみて思ったことは、寿司と同じように一度日本を出たら「伝統的なもの」が変容していくことは避けられないということ。寿司とSushiは同じではない。伝統的な寿司や日本蕎麦が食べたければ日本に行けば良いのだし、海外であれば日本人客だけで店の運営が成り立つようなエリアに出向いて行けばよい。どうしても食べたいと思えば自分で作るという手ももちろんある。但し、筆者はそこまでの思い入れはないので、日本に一時帰国した際の楽しみとして取って置く方を選んでいる。

伝統に拘ることと、他に自分の伝統を押しつけることとは同義の行為ではないだろう。同じように、歴史に思いを馳せるということと、現在を否定して過去に回帰するということとは同義の行為ではない。自戒を込めて言えば、歴史好きは特にこのことを常に念頭に置いておく必要があるように思う。

(了)

■ピョートルコフスカ通り128番地 ー 喫茶店

ピョートルコフスカ通り128番地に筆者がよく行く喫茶店がある。当ブログでも何度か書いているように、筆者がウッチに移住してきた90年代後半とは大きく様変わりし、ピョートルコフスカ通りには様々な喫茶店ができ、賑わっている。

128番地の喫茶店はその中でもかつての雰囲気を残した筆者お気に入りの当地風喫茶店。売物の「主」は自家製のケーキなどで、コーヒーや紅茶はむしろ、その場でそうしたお菓子を食する人の為に供されるものと言った方がより実態にあっている。ケーキを買って自宅に持ち帰る人も多い。写真で見ても分かるように、店内は照明が薄暗く保たれていて、中から通りを横切る人々を何となく眺めるという「つれづれ族」に相応しくできている。

建物の由来などについて解題すべくいつものようにボロフスキさんのサイトを覗いてみるが、これといった記述はない。建物は、欧州ではよく見かけるスタイルで、日本式の二階より上は住宅になっている。念のため喫茶店のウエイトレスに尋ねてみたが、ここも矢張り住宅になっているという。ピョートルコフスカ通りにあるこうした建物は、個人に転売された住宅もあるが市が管理している住宅もまだ多いそうだ。当然住んでいる人は様々。通りを歩いていると、文字通り何となくぶらぶらしているとしか思えない人達をよく見かけるが、こうした人達も「地元の住人」と思えば納得出来る。ただ、中には素性の宜しくない人達もいるそうなので、観光でウッチを訪れてピョートルコフスカ通りを散歩する人は気をつけた方が良さそうだ。特に、一見して観光客と思われる様子で歩いている人は狙われやすい。

ボロフスキさんのサイトから

筆者が日本語を教えている語学学校も夏休みに入ってしまったが、今月はまだ夏季集中講座があるので、授業のあとにこの喫茶店に立ち寄って、通りを更に自由広場の方に向かって散歩したり、疲れたら散歩を早めに切り上げて帰宅するという「習慣」がしばらく続きそうだ。もっとも、学校から喫茶店までは徒歩で10分くらいで、途中にオフ•ピョートルコフスカがあるので、今のシーズンは先にビールを一杯楽しんでからコーヒーという流れもあるかも知れない。

最後に、蛇足ながら関連情報を一つ。

筆者自身は昔風のカフェと言うか喫茶店が好みなのであるが、ピョートルコフスカ通りにはマックはもちろんダンキンドーナツもある。集中講座の授業の前に時間つぶしをする機会があったので、89番地のダンキンドーナツに入ってみた。メインテーマの128番地の喫茶店とは異なり、店内は明るく照明がなされており、若者のカップルが歓談を楽しんでいる。因みにお値段は、アメリカンコーヒー(小)が8.5ズロチ、ドーナツが一つ約5ズロチ。

このチェーン店、首都ワルシャワではだいぶ前から展開しているが、ウッチでは比較的最近展開し始めたように思う。筆者がコーヒーとドーナツを味わっている間に、老齢のカップルも入ってきて、若者だけのスポットということでもないようだ。写真のように、子供のためにということでお絵かき用具なども置いている。余り長くなるとお店の宣伝になってしまうのでこの辺で。

(了)

■日々つれづれ(2017-06-14) ー 起承転結ということ

小生のような六十代半ばの日本人にとっては、「起承転結」という言葉は恐らく馴染み深いもの、それも肯定的な意味で馴染み深いものではないかと思う。そのつもりで、ウィキペディアの記事をチェックしてみてアレっと思った。当該記事にこんな記述がある(2017-06-08現在)。「起承転結による文章は論理的ではないと指摘されている。文章やストーリーの構成としての起承転結は、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な文章ではパラグラフ・ライティング (主張 → 根拠 → 主張)、。。。中略。。。が主に用いられている 。」

確かに小生も、企業に勤めていた当時は、報告は口頭か文章かにかかわらず、先ず結論を述べ、次いでその根拠を敷衍し、最後に最初の結論に戻るというスタイルを取るように努めていた。逆に、当時のあるローカルスタッフがどうしてもこのスタイルに馴染むことが出来ず、最初に事実関係や背景を延々と述べ立てて結論をなかなか言わず、ひどくイライラした経験もある。しかしこれは、実務における文章の話し。筆者について言えば、当時でも私的な文章は推敲を重ねていく過程で自然に起承転結のスタイルになっていたし、今もそうではないかと思う。文章に対する好みの問題、あるいは人とその生に対するアプローチの問題ということで考えれば、文章が論理的であるか否かは大した問題ではないとも言えるし、前述の記事では出典を明示しているので記事の書き方そのものにも問題はないと思う。ただあくまでも可能性の話しではあるが、記事の全体からみて前述記事の投稿者が日本語そのものが論理的でないと考えている可能性はある。ひとまずそう仮定して、自分はこの点についてどう思うかということを考えてみよう。当該ウィキペディアの記事がそのきっかけの一つを与えてくれたことに感謝しながら。

筆者は、十代の終わり頃から広い意味の「欧州の思想」にかぶれてこれを選択し、四十歳で欧州、それもかつて東欧と呼ばれた国に移住して今も住んでいる。そして、年金生活者の年齢に達した今、改めて母の国の言葉である日本語を見直している。それは日本語の構造を意識的に見直すということにつながり、さらに、日本語の「論理」ということに思いを馳せることにつながっていく。具体的には、「外国人」に日本語を教えるという活動を通じてこの作業を行っている。自分一人だけの頭の中であれこれひねっているだけでは考え方や内容にどうしても広がりが乏しくなるので、貴重な楽しい作業になっている。さて日本語の論理もしくは日本語文章作法ということでいうと、起承転結という表現の他に序破急という言葉もよく使われるようだ。学生時代に教養科目で能学の授業を履修したこともあり、個人的には「序破急」とか「秘すれば花」といった表現にはとても親しみがある。これらの表現は日本語の「論理」とか考え方を示した典型的なものとして一応考えることができるであろう。一方で、欧州の「論理」としての典型は何であろうか。筆者は、それは「弁証法」ではないかと考えている。欧州文明の水面下にあるものはキリスト教と哲学の二つであろうが、弁証法はそのうちの哲学における基本的な考え方ではないかと思う。「テーゼ」、「アンチテーゼ」、「ジンテーゼ」。なにか、起承転結の起承・転・結や序・破・急に通ずるものを感じないだろうか。

さて再び本題。グーグルで検索すると、起承転結だけでなくこれと序破急とを並べてテーマにしたサイトが結構ヒットする。中には、起承転結はくだくだするのでブログには向かないと述べた文章もある。実際、当ブログの投稿を読んでその感想をくれたある親しい友人から、もっと短くしなければダメと言われたこともある。ただそうだとすると、起承転結で書くことを基本にしている当ブログは「ブログ」というカテゴリーには入らず、看板をかけ直す必要があるということになってしまう。例えば、ブログではなく雑文サイトといった感じで。。。。もっとも、「ブログ」という言葉の定義にも様々な見解や幅があるだろうから、こだわらなくてもいいのかもしれない。目に止まること、読まれることを主な目的として書かれているものだけがブログということでもないだろう。今自分がやっていることは基本は自分のため。その上で読んでいただける読者がつくのであればよりうれしいというスタンスでやっている。将来ウッチ郷土史の翻訳がある程度まとまったら別のアプローチをトライすることも考えてはいるが、いずれにしても目に止まることだけを目的にした文章を投稿していくつもりはない。地元の人達に日本語を教えながら自分も日本語の見直しをする、日本の人たちには地元ウッチの歴史を日本語で紹介していく。そのツールであるこのサイトの意味がなくなることは当分ない。

(了)