■日々つれづれ(2017-04-11)

当ブログはWordpressのサービスを使って運営されているが、実は自分の日記もローカル・ベースのWPで管理している。WPとこれを支えるOSはいわばブログ運営の裏方で通常は陽の目を見ることはないのだが(笑)、一度くらいはそういうことがあってもいいだろうと思うし、このテーマで少し書いてみる。

OSは2010年からLinuxベースのものを使っている。元々若い頃からパソコンで暇つぶしをするのが好きでただのユーザーでは収まらないところがあったが、その(2010年)当時インターネット上でLinuxがGUIレベルでかなり使えるようになってきたという記事を目にすることが多くなり、思い切って手を染めることにした。随分長いこと使っているような気がするが、振り返ってみれば高々7年前の話しだ。もっとも、今時の7年はこの分野では相当のタイムスパンのようで、例えば7年前のパソコンはもう殆ど化石化してしまっている。もちろん、使って使えないことはないが、セキュリティー・リスクも相当高くなっているので、使える範囲はかなり限られる。特に、現在ではネットに繋がずに作業をすることは考えられないので、古いパソコンではこの点で相当の制限がついてしまう。

手を染め始めた当時は、その頃購入したネットブックを主に使ってLinuxの「勉強」をしていた。Debian系、Redhat系の様々なOSを次々とインストールしては消し他のOSをまたインストールするという作業の繰り返しだった。その過程で、CUIでも基本的なコマンドは使えるようになったが、本格的にCUIで作業をすることを覚えかつ使うようになったのはここ2年ほどのこと。その少し前に企業での仕事に区切りをつけて自宅を中心に生活するようになり、時間が取れる様になったことが主な理由である。もう一つの理由はWordpressに出会ったこと。今振り返ってみると、WPとの出会いは筆者のLinux歴の中でとても大きな転換点になったと思う。最初にしたことは、それまでテキスト・ファイルで書き溜めていた日記と自分の人生40年を振り返った半生記をローカル・ベースのWPに移し替える作業だった。この過程で、いわゆるLAMPとphpMyAdmin、そしてMySQLの初歩を身につけることができた。しばらくは、このローカル・サーバーでWPを使っていたが、そのうちWP専用のサーバーを別に立てることを思いつく。前述した32ビットのネットブックにインストールできるOSがゼロではないが大分少なくなってきたし、これをサーバー用途で使えば古いマシンの再利用もできると考えたわけである。ローカルサーバーを、専用とはいえリモートサーバーに移すということで、WP関連だけではなくLinux全般でも随分いろいろなことを勉強させてもらった。ここでも同じプロセスを廃しては元に戻すという作業を繰り返していて、その都度各モジュールのバージョンアップに伴う新たな状況に直面して更なる勉強を強いられはしたが、今のところなんとか使えている。

とはいえ、Linuxをベースに作業をしている上で問題点がないわけではない。WPを使うようになってからOSの頻繁な入れ替えはしないようになったが(WEBサーバー内にあるデータのバックアップとレストアの作業が結構面倒くさい)、それでもつい最近デスクトップマシンのOSを入れ替える事態になった。これまで大半はDebian系のOSを使ってきたのだが、それほど前のことではなく比較的最近のアップデート後にsambaが使えなくなってしまったことが主な理由である。筆者のLinuxの知識や情報量は、プロのそれと比較すれば間違いなく貧弱なレベルであることは明らかであるが、それでもDebianとアップデート後のsambaとの間に根本的な問題があることは察しがつく。ということで今は、サービス期間が短いのを承知でRH系のOSを使っている。Gnomeの標準インプットメソドにも問題点はあるが、これは次回機会があれば書いてみたい。

(了)

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■ ピョートルコフスカ通り72番地/グランド・ホテル

過去の投稿を見ると「ピョートルコフスカ通り」というシリーズでの投稿は今年の一月七日付が最後になっている。すでに三ヶ月前。この切り口での投稿は、実際に通りを散歩している時にテーマが浮かんでくることが多いので、散歩に適さないシーズン中はどうしても投稿のテーマが生まれにくい。大雑把に言って、当地では一年の三分の一強が冬期で(十一月中旬から年明けの三月末くらいまで)、個人差、好き嫌いの差はあるだろうが、少なくとも自分にとっては散歩には適さない時期である。この冬は、このブログを始めてから最初に経験した冬期ということになるが、自然の流れとして、この期間中のこのシリーズでの投稿はほとんどないという結果になった。それでも四月に入り春の到来を思わせる暖かい日が多くなってきたし、例年よりは少し早めだが、集合住宅の建物の周りの木々や草花も大分色づいてきている。自分の健康のためにも冬場以外はできるだけ外に出て散歩する必要があるが、今年もまたそうした季節がやってきたわけで、何とはなしに浮き浮きした気分になる。

ピョートルコフスカ通りにまつわる、散歩ができるシーズンになってからの最初の投稿のテーマはグランド・ホテル。同じような名前のホテルが世界各地にあるというのはごく普通のことであるが、当地ウッチ市にもグランド・ホテルがある。それもメインストリートのピョートルコフスカ通りに面して。ウッチ市のグランド・ホテルは歴史のある古いホテルである。筆者がポーランド・ウッチに移住してきた90年代半ばは、ウッチの名所といえばピョートルコフスカ通り、ピョートルコフスカ通りのホテルといえばグランド・ホテルと相場が決まっていた。特に、グランド・ホテルに隣接した喫茶店は筆者の貴重な「休憩所」であった。日本から来た筆者にとって様々な意味で息抜きの場所である喫茶店は今でも生活に必須の施設であるが、当時のポーランドにはこれが不足していて随分物足りない思いをしたものである。しかし、それも既に過去の話しとなった。2004年にポーランドが欧州連合に加盟した頃から、複数の外資系の高級ホテルがあちこちに建設され、ウッチのホテル事情も大きく変わってしまったからである。件の喫茶店も今は若者向けの喫茶店に変わってしまい、筆者にとってはノスタルジーの対象になってしまった。ウッチにも、若い人向けの喫茶店の専門店が沢山出来たが、筆者がよく使うのはやはり、古めかしい趣のHortexかピョートルコフスカ通りとNawrot通りとのほぼ角にある128番地のCukierniaである。

さて、ウッチのグランド・ホテルであるが、このシリーズでは必ずお世話になるBorowskiさんのサイト(ここ)によると、1865年に所有者がEdward Hentschel (Haentschel)に代わってからその後の元になる建物が出来上がったらしい。新しい所有者はこの建物を工場だけでなく住まい兼製品倉庫としても使っていた。当時の建物はその後の1875年の火災で焼けるが、工場主は建て替えをせずに工場を別の場所に移してしまう。跡地の所有者は娘婿のLudwik Meyerの手に移った。Meyerは義理の兄であるJuliusz Kunitzerと共同で工場を新設する。その後Meyerは単独の経営者となって工場を別の場所に移し、ピョートルコフスカ72番地の建物を住居として使うようになる。1888年、Meyerはこの建物を増築して「グランドホテル」と名付けられたゲストハウスとして使いはじめた。どうもこれが今もあるグランド・ホテルの元になったようである。ゲストハウスの経営者にはオーストリア人のPiotr Schwartzがついた。当時の部屋数は45、部屋代は最低1ルーブル、最高3.5ルーブルだったそうだが、当時の貨幣価値を調べていないのでどの程度のレベルのゲストハウスであったのか詳らかではない。所有者であるMeyerはその後も増築を続けたようで、1897年には部屋数は70に増えている。また一階の一部を使って自分の製品を置いていたようである。Meyerは1904年までこの建物の所有者であった。

一方、もう一つの基礎文献であるAnna Rynkowska著『ピョートルコフスカ通り』(179−180頁)にはこんな記述がある。以下は引用・翻訳である。

「ウッチには、ポルスキ(Polski)、ヴィクトリア(Victoria)、グランド(Grand)という3つの大きなホテルがあり、いずれもピョートルコフスカ通りに面していた。番地はそれぞれ3番、67番、72番であった。そのうち最も有力なホテルはグランドで、ピョートルコフスカ通りとクルトゥカ通り(訳注:現在のトラウグッタ通り、この通りにサヴォイ・ホテルがある)の角にあった。金持ち、特に外国の富裕層の人達がこれらのホテルに投宿した。1888年3月2日付の日刊紙「Dziennik Lodzki」は次のようなリストを掲げている。ホテル・ポルスキには、チェンストホーヴァのOpenhajm、ワルシャワのSobolewski、トルンのFiszer、コンスタンチノポールのImergutが、ホテル・ヴィクトリアには、ベルリンのKupper、ワルシャワのFechner、ワスクのDabrowski、ワルシャワのSzoberが、ホテル・グランドには、ブダペストのZimerman、モスクワのMengubi、ヘムニッツ(Chemnitz)のHahn、リガのLipschnitzなどがそれぞれ宿泊している。」

再びBorowskiさんのサイトに戻る。前述のMeyerは1904年に、バンク・ハンドローヴィを筆頭株主に据えた株主合同「グランド・ホテル」にホテルを売却する。価格は47万5千ルーブルだったそうである。さらに1911年、ホテルは、有力な大工場主や大商人達のコンソーシアムに買われた。コンソーシアムの筆頭はJuliusz Heinzelの息子であるLudwik Heinzelであった。そして、本格的なホテルの改修が行われる。1913年に完工した後のホテルは、四階建てのファーストクラスのホテルに変わっていた。部屋数も150に増え、レストラン、ウィーン風の喫茶店、屋外コンサート用の施設などもあった。メディア・インフラも整備され、一階には当時の著名な店々が顔を見せていたという。


ホテルの広告(Borowskiさんのサイト所収)

1904年といえば、日露戦争の年。翌1905年にはロシアでは1917年の社会主義革命につながるいわゆる第一次革命が起こる。またこの間、1914年から1918年にかけて欧州を主戦場にした大戦(いわゆる第一次世界大戦)が起こっている。本稿のテーマであるグランド・ホテルは、正にこうした時期にその本格的な礎が築かれていったようである。以前投稿したサヴォイ・ホテルの時代背景もその末期とは言えこの時期にかぶっている。歴史に興味を持つ「ウッチ市民」としてはサヴォイ・ホテルとグランド・ホテルとはどう共存していたのかということに関心を抱くが、それよりなにより、今年はロシアの社会主義革命から百年目。twitterでは百年目新聞なるアカウントもあるようだし、百年前の歴史に思いを馳せることが今年は特に必要なのかもしれない。


Hotel Grand近影

(参考)
1.ホテル公式サイト(http://www.grand.hotel.com.pl/grand_pl/Home)
2.Anna Rynkowska, “Ulica Piotrkowska”, Łódź 1970
3.Waldemal Borowski さんによるピョートルコフスカ通りの歴史に関するサイト(http://piotrkowska-nr.pl/)

(了)

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■日々つれづれ(2017-03-27)

夫婦ともに車で移動する場合を除き、車を運転しない筆者にとり移動の「足」はなんと言ってもトラム。バスを使うことも時にあるが、東京に住んでいた時からトラムには言葉では表現できないほどの愛着があった。その後ポーランドに移住してから仕事で欧州の様々な都市を訪れる機会があったが、訪問した先では可能な限りトラムに乗った。

現在中欧と呼ばれている国々で日本人向けの観光地といえば、旧ハプスブルグ帝国領内の都市であるウィーンやプラハがまず思い浮かぶ。筆者もこの両都市には仕事で関わりを持ち、かの地のトラムにはよく乗った。特にチェコのプラハでは8年強と長期間実際に生活したこともあって、文字通り日々の足だった。

ハプスブルグと言えば、筆者が住んでいるポーランドも18世紀末から20世紀始めまで続く、国の独立を喪失していたいわゆるポーランド三国分割の時代に、ガリチアと呼ばれた地域がハプスブルグ領内にあった。しかし、その後も続くめまぐるしい歴史の転変とこれに伴い戦火を経験したことが災いしてか、筆者の経験からすると、日本ではウィーンやプラハに比較しポーランドの都市の観光地としての認知度は相対的に低い。特に、首都であるワルシャワと旧首都クラクフを除くと、他の都市はあまり知られていないようだ。筆者が住んでいるウッチはその代表格と言ってよいだろう。

さてトラムに話しを戻すと、ウィーンとプラハは日本人向け観光地の「定番」ということで様々な紹介記事があるが、ポーランド、特に筆者のホームグランドであるウッチのトラムについては紹介記事は殆どないように思う。ちょうどこの4月初め(投稿時点から約1週間後)から路線網の大改正(と若干の値上げ)が予定されていて、改正後の路線図などは役に立つこともあろうかと思うので以下紹介しておく。オペレーターのMPK-Lodz(ここ)ではこの大改正を「革命」と称していて実際に大幅な変更が予定されている。当然、筆者を含めて利便を得る人も失う人もいるわけで賛否両論喧しいが、総体としては良い方向での改正のように思う。

ポーランドは20世紀初めに独立を回復したものの、第二次世界大戦の勃発で再び独立を喪失した。そして、第二次世界大戦後の国境線引き(ヤルタ会談)の結果、一旦ポーランド領に戻った先のガリチアも西ガリチアのみ現在のポーランド領となり、東ガリチアは旧ソ連そして現在のウクライナの領土となるなど、めまぐるしい歴史の転変を経験してきた。戦後も旧ソ連の支配下にあった旧東欧圏に組込まれて長い間停滞の時代を経験するが、いわば自力でそこから抜け出し、欧州連合加盟を果たした頃から生活水準も急激に改善されてきている。ウッチもやや遅れは見られるものの、道路網の拡充や公共交通機関網は目に見えて改善されてきている。

(了)

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■新米日本語教師奮闘記(2017-03-27)

個人教授で日本語を教えている生徒さんが、ご夫婦で日本に観光旅行に出かけることになった。こういう機会にブログへの投稿に注力しないといつまでたっても投稿のペースが上がらないことは明白で、これまでにためていたテーマを少しづつ形にしていこうと思う。

にわか日本語教師を始めてまだ四ヶ月。授業が終わるとすぐほとんど自動的に、その日の授業の反省が頭のなかで始まるのだが、「こうしなければ良かった」という自己嫌悪的な反省がまず頭に浮んでくる。少し時間が経てば、この反省は次の授業ではこうしようというアイデアに変わっていくのであるが、大した失敗もなくよくできた授業だったと思えたことは殆どない。

こうした反省点で一番のものは、文法の素人講義をやってしまうことだ。もともと語学が好きで文法にも興味を持っていることが逆に災いしている。母国語を考察の対象に据えてからまだ半年も経っておらず、しかも本格的な教授法の学習をしたこともない自分が、学者もどきで講義をしてしまうのは、生徒さんたちには申し訳ない限りだが、一方でこれが自分に日本語教師をやらせている原動力になっていることも間違いないところだ。

中学、高校で勉強した英語を別にして、自分が本格的に学んだ最初の外国語はロシア語であったが、その際に何よりも引きつけられたのは「完了体・不完了体」という概念がロシア語にあることであった。その後ポーランド語に手を染めることになったわけだが、スラブ語に特有な共通部分を持つということばかりでなく、ロシア語で体の概念に触れていたことがポーランド語習得の上で大いに役に立ったと思っている。

話題を日本語の文法に戻す。ポーランド人に限らず、外国人に日本語文法を教える際に学校文法が使えないことは言うまでもないであろうが、外国人向け日本語教授用文法を使うにしても日本語特有の文法事項はやはり残る。その最たるものとしてまず敬語があげられるだろう。次に来るのは時制であろうか。日本語の時制では現在と未来とが渾然としていて、ポーランド人学習者にとって日本語の文法はわかりにくいと思わせる文法事項の一つではないかと思う。わずか四ヶ月の経験に過ぎないが、その難しさは筆者もすでに体験している。確かに違いは大きい。とは言え、違いばかりを強調するのはどうもスッキリしないことも確かだ。

ロシア語の体や日本語の「完結相・非完結相」という概念はアスペクトと呼ばれるようであるが、日本語のアスペクトとロシア語やポーランド語のそれとはかなり近いものがあるのではないかという気が最近してきている。これを文型でいうと、
1.完結相では、過去時制「~ました」、非過去時制「~ます」
2.非完結相では、過去時制「~していました」、非過去時制「~しています」
と一応整理してよいのではないだろうか。もちろん、整理しきれない例外はたくさん出てくると思うし、そこがまさに日本語らしいということになるのであろうが、日本語を教えることは学術研究ではないし、原則を示してあげることは重要だろうと思っている。

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-1)

第四章 ダイナミックな発展の端緒

ウッチ市はナポレオン時代末期にすでに経済発展の端緒を示し、その後ロシア領ポーランド王国(ポーランド立憲王国)政府の産業プログラムによって本格的に鼓舞されていくことになる。


(写真20) 1815年のウィーン会議の討議風景

1815年のウィーン会議の結果として生まれたポーランド立憲王国の存立の初年々、現ウッチの領域にあった集落群は非常に過密化していた。整理すれば以下のようになる。

(1) 村落: Baluty(バウーティ)、 Brus(ブルス)、 Chocianowice(ホチャノヴィッツェ)、 Chojny(ホイヌィ)、 Kaly(カーウィ)、 Lagiewniki(ワゲェヴニキ)、 Modrzew(モドゥジェフ)、 Moskule(モスクーレ)、 Radogoszcz(ラドゴシチ)、 Retkinia(レトキーニャ)、 Rogi(ローギ)、 Rokicie(ロキーチェ)、 Sikawa(シカーヴァ)、 Stoki(ストーキ)、 Widzew(ヴィーゼフ)、 Wolka(ブルカ)、 Zarzew(ザジェフ)、 Zlotno(ズウォトノ)

(2) 分農場: Jagodnica(ヤゴドニッツァ)、 Ruda(ルーダ)、 Stara Wies(スターラ・ビェシ)、 Wojtostwo Lodzkie(ヴォイトストヴォ・ウッツキェ)

(3) 製粉所部落: Chachuła(ハフーワ)、 Charzew(ハージェフ)、 Kalski(カールスキ)、 Ksiezy(クシェンジィ)、 Lamus(ラームス)、 Miejski-Mania(ミェイスキ・マーニャ)、 Pabianka(パビアンカ)、 Rokicki(ロキーツキ)、 Urban(ウルバン)、 Wiskicki(ヴィスキツキ)、 Wojtowski(ヴォイトフスキ)のKulam-Pila(クラム・ピーワ)

(4) 1782-1795年に入植された有料の「オランダ人」入植地: Antoniew(アントニェフ)、 Dabrowa(ドンブローヴァ)、 Grabieniec(グラビェーネッツ)、 Henrykow(ヘンリクフ)、 Janow(ヤーヌフ)及びZabieniec(ジャビェーニェッツ)

(5) プロイセン時代の通常の入植地: Augustow(アウグストゥフ)及びOlechow(オレフフ)、並びに後に有料入植地となるLagiewniki Male(ワゲヴニキ・マーウェ)、Moskule Male(モスクーレ・マーウェ)

(6) その他の部落:
森林部落後の農業部落: Karkoszka(カルコーシカ)、Zarzewek(ザジェーヴェク);
森林管理部落:Koziny(コジーヌィ);
いわゆる手工業者部落:Budy Sikawskie(ブーディ・シカフスキェ);
ガラス工場部落:Huta Chojenska(フタ・ホイェンスカ)、Huta Rogowska(フタ・ロゴフスカ);
農・手工業部落:Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)など。

1820年代初頭の現在のウッチの領域全体で小都市を除く56の様々な形態の部落があり、戸数は783戸、人口は6700人であった。ウッチだけでは、戸数97戸、人口939人であった。ポーランド立憲王国が成立したあと区分変更があり、ズギェシ郡がマゾフシェ県ウェンチッツァ州に組み込まれた。

カリシ県の領域にあった全ての集落は、政府直轄区Pabianice(パビアニッツェ)に属すことになった。現在のウッチの領域にある他の部分では、直轄区Laznow(ワズヌフ)の領有になっていたウッチ周縁部の諸部落だけが政府直轄となった。ウッチ市の中心部を除いて直轄区から外れたのは、Wolka(ブウカ)、Widzew(ヴィーゼフ)及びZarzew(ザージェフ)、Augustow(アウグストゥフ)、Stara Wies(スターラ・ビェシ)及びWojtostwo(ヴィトストヴォ)、Mania(マーニャ)、Lamus(ラムス)、Kulam-Pila(クーラム・ピーワ)、Ksiezy Mlyn(クシェンジィ・ムウィン)及びWojtowski Mlyn(ヴィトストヴォ・ムウィン)、Koziny(コジヌィ)、Podlodz(ポッドウッチ)及びLodka(ウートゥカ)、Karkoszka(カルコーシカ)及びZarzewek(ザジェーヴェク)であった。.

ウッチ周縁部は、直接ウッチに接する地域で、都市・産業計画事業が行われる領域に割当てられた。現在のウッチに相当する領域の諸部落は複数の異なる教会教区に属し、これが地域活動の重要な中心となった。最大の教会教区はウッチ教区で、東部地区はMileszki(ミレーシキ)教区に、北部の諸部落はZgierz及びDobra(ドブラ)教区に、Zlotno(ズウォトノ)とJagodnica(ヤゴドニッツァ)はKazimierz(カジミェシ)教区に、そして西南部の諸部落はPabianice(パビアニッツェ)教区に属した。



(写真21と22) 1577年から使われてきた印章を1817年のSzczawinski(シチャヴィンスキ)市長の文書に見ることができる、以降はロシアの双頭の鷲の紋章が使われるようになり、20世紀になるまでウッチの紋章は姿を消していた


(写真23) ウッチがロシア領となったあとの境界地図

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(003-2)

第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ(承前)

4.国民衛兵組織をめぐる争い

ワルシャワ公国時代、軍隊の補完組織である国民衛兵組織をめぐり、一部のウッチ市民と行政府との間で激しい争いが生じた。国民衛兵は戦時に市および周辺地域の秩序維持に当たることになっていた。この国民衛兵組織に、18歳から50歳までの男性が徴集され、自費もしくは市の費用で軍服と武器を整えることとされた。

1809年にオーストリアとの戦争が勃発すると、行政府は市長に対し、国民衛兵の然るべき支部をウッチ市に組織するよう指示を出した。装備は徴集された者達の拠出金によって購入された。市会評議員のPelzowskiとKuzielowiczを頭に仰いだウッチ市民の一団がこの義務に異を唱えたが、反抗は不発に終わり、首謀者達には制裁金が課された。その後かなりの時間が経過しかつ行政府側からの重ねての警告を経た後にようやく36名のウッチ市民から成る国民衛兵が組織された。1811年にはその数は53名に増え、その一部は1812年に域外にも送られた。ナポレオン軍が敗北した後ウッチの国民衛兵組織は消滅した。ウッチ市長は行政府に対し1815年に「そのような衛兵組織は存在しない」と報告している。


(写真17) ナポレオンによって興されたワルシャワ公国は希望を伴ったものであったが短命に終わった


(写真18) 現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに19世紀初頭Lodka(ウートゥカ)と呼ばれたささやかな部落が生まれた、後に際立った産業集落となるウッチはおそらくこの名から取られたものと考えられている

5.新たな部落の誕生

1815年以前もしくはワルシャワ公国が存在していた初期の時期、現在のウッチに当たる領域に新たな部落が生まれ、これらの部落にはポーランド人が入植した。 Grabieniec(グラビェーネッツ)、Henrykow(ヘンリクフ)、Gorki(グールキ)、Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)などで、Lodka(ウートゥカ)やKoziny(コジヌィ)もこれらの部落に含まれるであろう。

GrabieniecはZlotno(ズウォトゥノ)村とKaly(カーウィ)村に挟まれ、現在のSzczecinska(シチェチンスカ)通りとRabienska(ロンビェンスカ)通りに沿って広がる領域に散発的に家屋が存在していた。大きな村で、その住民の大半は周辺のガラス工場で働く人々であった。

HenrykowはJanow(ヤーヌフ)村、Widzew(ヴィーゼフ)村、Stoki(ストーキ)村に囲まれた小さな部落だった。わずか数戸を数えるのみでほぼ現在のHenrykowska(ヘンリコフスカ)通りに沿った領域にあった。Gorkiも同じく数戸を数えるのみの部落で、ほぼ現在のGorki Stare(グールキ・スターレ)に当たる領域にあった。

Kowalszczyznaは当初は単独の、後には2つの家屋からなる部落で、Dabrowa(ドンブローヴァ)の南に作られた。ほぼ現在のSlaska(シロンスカ)通りとZygmunt(ジグムント)通りが交差する辺りに位置していた。Lodka(ウートゥカ)と呼ばれた部落には当初わずかニ戸しか存在しなかった。部落は現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに位置していた。後の1827年にLesniewskiが作成した図があるが、おそらくはそこに示されているStrzelcとMarcychの林間コロニーがその場所であろうと考えられている。

一方、Kozinyは森番小屋一戸があったきりで場所を特定するのは容易ではないが、現在同じ名称をもつ集落にその場所を想定することが出来そうである。


(写真19) かつての市長兼警察長官ユゼフ・アウフシラグ

市の公式文書によると、1794年のウッチ市長はDrewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)であった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により市長Drewnowiczが罷免され市会評議会が解散させられた後Sempftと呼ばれる人が警察長官に任命されたが、まもなくプロイセン軍の将校であったAufschlag(アウフシラグ)がその後を襲った。彼はウッチ市民に対して、無慈悲でかつずる賢く貪欲であったようで、名誉ある記憶を残していない。プロイセン支配のウッチでかなりの財産を積み上げた。前線の戦況が変わりナポレオン軍との戦闘でプロイセン軍が敗北した後、Aufschlagはウッチ市の新たな指導者であるJezewicz(イェゼーヴィチ)に権力を引き渡した。彼の名はまた、国民衛兵組織ウッチ支部の創設をめぐって市内に生じた争いにも結びつけられている。彼は辱めを受けたかつての警察長官として争いの先頭に立ち、このような指揮官のもとで活動の情熱は冷え込み、事実上国民衛兵組織は崩壊した。かつての警察長官であった彼自身は、新市長Szczwinski(シチヴィンスキ)の支持も得られず、ウッチからいづこともなく離れ去った。

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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■ ウッチ大学と八雲琴クラブとの共催で行われる「第11回ジャパンデー」について

今年も、恒例の「ジャパンデー」がウッチ大学の経済・社会学部にて行われる。日程は例年通り土曜、日曜の週末二日間。今年は4月22日と23日が当日となっている。プログラムの詳細は追って八雲琴クラブのホームページ(ここ)で紹介される予定。筆者(ブログ管理人)も二日目の最後でワークショップを担当する。例年、イベントの最後まで残って下さる方々は、日本の伝統文化に殊の外強い関心を持っていらっしゃる方が多い。恥ずかしながら日本の伝統文化にはあまり詳しくない筆者が適任だろうかとの懸念もあったが、実用的な内容であればということで文字通りの「末席を汚す」ことにした。

「演物」はひらがなの速習。筆者はウッチ在住は長いものの、地域活動に手を染めることができるようになったのはようやく5年前から。八雲琴クラブのお手伝いを中心に少しづつ手を広げてきた。昨年末から地域のポーランド人達に日本語を教える日本語教師の活動も始めたが、思った以上に日本語学習への需要は裾野が広いことを実感している。ということで、こうしたワークショップで、単なる伝統文化の紹介にとどまらぬ実用的な日本語の知識を広めることは意味のあることではないかと思っている。

筆者は実は左利きである。今でこそ右も左もそこそこ使えるようになっているが、小学生の頃は「右利き」を強要されることがとても苦痛であった。今はもうはっきりは覚えていないが、小学校では確か「習字」の時間があり、とりわけ毛筆習字の時間はほとんど悪夢の時間であったように記憶している。このように「毛筆習字」にトラウマを持つ筆者であるが、それ故に芸術的に書くことときれいに書くこととの違いがよく分かる。普段の生活では、芸術的に書くことができることは必須ではないが、相手に正しく読んでもらうためにきれいに書くことは必須である。

ワークショップでは、前半で簡単にひらがな成立の由来などを説明し(付け焼き刃ではあるが)、後半で実際的な書き方を教えていく。今回改めて学んだのであるが、毛筆がベースになっている日本文字の書き方は、「とめる」「はらう」「はねる」が基本の動き。ポーランド人が相手という観点で言えば、四角形の中に体裁よく納めることが加えて必要。この2点を教えることができればワークショップは成功ということになるが、どうなることやら。

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(了)

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