■日々つれづれ(2017-08-24)ー Villa Japonicaのことなど

八月も半ば。筆者が住んでいるウッチ市でも雷を伴う集中豪雨で被害が出るなど、天候は相変わらず不順だが、概して周りはサマー・バケーションの真っ只中。筆者も数年ぶりに遠出をして山歩きを満喫してきた。ウッチ市は地理的には現在のポーランドのほぼ中心にある。よって、東西南北どちらに向かうにしてもいわゆる「遠出」になるのであるが、今回出向いたのはチェコとの国境に近いヴィスワ市で、車で片道5時間ほどの小旅行となった。

筆者が住んでいるブロックの隣人から、かつてウッチ大学で勉強した同窓生で、その後日本と関わりを持つようになったご夫婦が同市でペンション(ここ)を経営しているということを聞き込み、訪問することにしたものである。場所はウッチ市からはるか離れたヴィスワ市だが、経営者がウッチゆかりのご夫婦ということで、当ブログの夏季休暇編もしくはつれづれ番外編ということで少しつづってみたい。


ペンションの現在の姿は上の写真の通りだが、オリジナルの建物は1936年に建てられたそうである。当時は、かつて中欧の雄であったポーランドが、一世紀半に及ぶ分割・主権喪失時代を脱し、第二次世界大戦に伴う再分割までの、短い春を経験した第二共和国の末期に当たっていた。第二次世界大戦勃発後、建物は侵入してきたドイツ軍の手に落ちる。その後ソ連による支配を経て社会主義ポーランドの管理下に置かれ、体制転換後はビール会社の別荘であったそうだ。所有が当該ご夫婦の手に移るのは今から17年前のことだそうである。

ここまではポーランド全体にほぼ共通する話しであるが、実はこの地域には特殊な歴史的事情がある。

ヴィスワ市は現在の行政区分でいうとシロンスク県チェシン郡(powiat)に属す下位自治体の都市(miasto)で、チェコ共和国(フリーデク=ミーステク郡)と国境を接している。また、市の名称からも想像がつくように、ポーランド最大の河川であるヴィスワ川は同市の後背地であるベスキディ山脈にその源流がある。

第一次世界大戦終結とロシア社会主義革命の勃発という二つの大きな歴史的事件の結果として、ポーランドは主権国家として再出発を果たし、神聖ローマ帝国時代に民族的覚醒はあったもののその後もハプスブルグのオーストリア帝国、後のオーストリア=ハンガリー帝国の中で少数民族の地位に甘んじてきたチェコは、ハンガリーの影響下にあったスロバキアと合同したチェコスロバキアとなって新しい民族国家として出発する。

ほとんど当然のように、国境を接した二つの民族国家は、それまでチェシン公国(*1)として存在していた地域の帰属をめぐって国境紛争を起こす(*2)。チェシン公国は元々ポーランドのピャスト朝系の公国であったが、14世紀にプラハのカレル橋で有名なボヘミア王カール1世(神聖ローマ帝国カール4世)の父の時代にルクセンブルグ朝に帰属している。当時のチェコスロバキア側の主張の根拠はこのあたりにあったのかもしれない。ただし、旧チェシン公国ではポーランド語話者が過半数を占めていたという資料もあるので、ポーランド側にも自国領を主張する根拠はあったようである。

(*1)ウィキペディアに記述されている「チェシン公国」
日本語Wiki:(ここ)
ポーランド語Wiki:(ここ)
チェコ語Wiki:(ここ)

(*2)ウィキペディアに記述されている「ポーランド・チェコスロバキア戦争/七日間戦争」
ポーランド語Wiki:(ここ)
チェコ語Wiki:(ここ)


チェコ語版Wiki「七日間戦争」で外部資料として引用されている民族分布図

ただし、上述は後追いの知識であって、実際に今回山歩きをしていた時にはポーランドとチェコとの間の現在の国境線上を歩いているという単純な意識だけであった。Glebce、Labajow、Os.Mrozkowといったエリアを中心に歩き、歩き上った地点は、Stozek Wielki(978m)とKiczory(989m)の2地点。この2点間の道程にはところどころ石柱があって、石柱の左右にP(ポーランド?)とC(チェコ?)の文字が記されていたのが強く印象に残っている。



今回の山歩きでのもう一つの収穫は、ペンションのオーナーであるバプスキ夫妻といろいろな話題で歓談できたことだ。当然ご夫妻の体験談が主な話題になったが、ある時にVilla Akiko(ここ)の三和さんのことが話題に上った。バプスキ夫妻曰く、「自分達のペンションは、日本に愛着を抱くポーランド人を主な対象にしているが、三和さんは逆にポーランドに愛着を抱く日本人を主な対象にペンションを経営している」という。実際に三和さんがどう考えていらっしゃるかはもちろん分からないが、そうかもしれないと思った。次いで、日本ファンのポーランド人とポーランド・ファンの日本人とどちらの方が多いかというテーマになったが、バプスキ夫妻は前者の方が多いと考えているようであった。

その連想で、では自分がやっていることはなんなんだろうかと考えている。三和さんやバプスキ夫妻はポーランドとか日本とかといったスケールで活動されている。自分は、日本ではあまり知られていないポーランドの、更にまた知られていない地方都市のウッチを日本人に紹介するというテーマでブログを展開している。ささやかな営みには違いない。ただ、歴史という切り口で少しだけ踏み込んで紹介している点は強調してもいいのかもしれない。現首都ワルシャワや古都クラクフのように華やかなエピソードに彩られた都市の歴史とは異なり、地味な故に地方都市の歴史からポーランド全体の歴史へと展望を開きやすいというメリットがあるからだ。

(了)

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■ピョートルコフスカ通り138/140番地 − OFF Piotrkowska

語学学校での日本語夏季集中講座がようやく終了して、ちょっと一息。この一ヶ月間、ムッとするような真夏日も時にあった。そんな陽気のせいもあって、ピョートルコフスカ通りの散策というか、時間潰しも何度かしている。ピョートルコフスカ通りをめぐるこのシリーズでの新しい投稿(ここ)も七月十五日にアップロードしている。

改めて言及するのもおかしな話しなのであるが、本来このブログに投稿されるつれづれの記は私的なもので、ある特定された対象の「宣伝」ではない。とはいえ、内容の中心はその建物にまつわる歴史になるにしても、現在ある建物について触れないわけにはいかず、いきおい何らかの宣伝になってしまうことは避けられないことだ。先の投稿でも、この辺のバランス感覚についてはさらっと触れている。

さて、今日の投稿はピョートルコフスカ通り138/140番地にある「OFF Piotrkowska」と呼ばれるショッピング・エリアがテーマ。以前から記事にしたいと考えていたショッピング・エリアである。エリア全体の地図がホームページ(ここ)にあるので関心があればそちらを参照してもらいたい。ただし、後に言及するラーメン屋さんの「アート・ラーメン」が記載されていないなど、内容が更新されていないようなので最新版ではないことをお断りしておく(本投稿のアップ時点)。

正面入り口を右側から入ったところ
エリア右側を奥に見通した様子
エリアの左側の様子

前述のように、本投稿の趣旨は建物というか、エリア全体の歴史的解題をすることなのであるが、その前に現在あるエリアについて触れておこう。規模の比較は別にして、パッと見の概観で言うと、ウッチの新商業センターであるマヌファクトゥーラとは違い、建物の外壁などはあまりリノベートされていないことがまず目に付く。基本的には好みの問題で、いずれかに優劣をつける必要はないのであるが、歴史マニアの中にはこちらの方が良いという人もいるかもしれない。

「OFF Piotrkowska」の公式サイト(ここ)にこのエリアの歴史解題が載っている。他の例にもれずここにも紡績工場があった。工場主は、F. Ramisch。

公式サイトにある工場の絵

同サイトによれば、他の場所(おそらく144番地)で1879年から従業員8名で手織りのハンカチ製造業を営んでいたF. Ramischは、1889年にこの地に移ってくる。すでに従業員数は70名になっており、蒸気機関のもの1台を含む65台の織機を保有していた。工場のオリジナルの設計者はH. Majewski。その後1893年にF. Miksの設計で増築が行われ、さらにその後F. Chelminskiの設計でアール・ヌーヴォー風の装飾が施されている。工場の敷地は、ピョートルコフスカ通りと当時のミコワイ通り(現在のSienkiewicz通り)とに跨る三区画分に亘っていた。工場はその後も拡張を続け、1897年には従業員数227人、1905年には452人にまで達した。

第一次世界大戦で織機の多くが損傷して使えなくなるが、1924年に「„Franciszek Ramisch” 紡織工場株式会社」として復活し、1935年には従業員数も500人を数えた。また、1929年にはポーランド紡織業生産者組合の事務所がこの敷地内に設置され、G. Geyer、S. Osser、A. Kindermann、P. Biedermann、A. Piwkowski、L. Albrechtといった当時の著名な生産者が同組合に名を連ねていたという。

第二次世界大戦後から1999年までの社会主義政権時代は国有企業として存続を続ける。体制転換後同エリアは複数の所有者の手に移り、現在の姿にリノベートするプロジェクトが立ち上がったのはようやく2011年末のことであった。入り口から入って右奥は今もリノベート中で、これからまた変貌する可能性を秘めたショッピング・エリアということなのだろう。

次の二つの写真を比較すると分るのであるが、最初の写真では138番地と140番地に木造の家屋が建っているのに対し、次の写真には2軒の木造家屋の代わりに塀が建っている。Borowskiさんのサイト(ここ)によると、木造家屋は第一次世界大戦後に取り壊されて、その跡地に塀が建てられたそうだ。


第一次世界大戦以前の様子、Anna Rynkowska “Ulica Piotrkowska” 所収のイラスト集から


Borowskiさんのサイトで紹介されているウッチ県立図書館資料集所収の写真から、撮影された時期は株式会社設立後と思われる

今回のように、ピョートルコフスカ通りシリーズで建物の歴史的解題をしていくと、19世紀後半から20世紀前半にかけての立憲王国時代のウッチ、東欧又はポーランドのマンチェスターと呼ばれたウッチの歴史にいやでも行き当る。そもそも当ブログの主な柱はその歴史を日本語で紹介することに置いていて、その線上でイラスト百科の本格的な翻訳も行っているのであるが、残念ながら前々史の段階である第三巻すら完結できていない。その歩みは文字通り「亀の歩み」であるが、その一方で、このシリーズを間に入れることでウッチの「東欧又はポーランドのマンチェスター」時代を垣間見ることができるので楽しい。

さて最後に、比較的最近本題のショッピング・エリア内にオープンした話題のラーメン屋さん「アート・ラーメン」について触れておこう。

以前当ブログで、日本人による本格的な日本食レストラン「くろねこ」の紹介をしているが、実はポーランド人によるレストランや軽食バーは当地ウッチでも相当数できている。この「アート・ラーメン」はラーメン専門店といった感じの軽食バー。注文できるビールも某日本メーカーの銘柄に特化し、店員も同銘柄を強調したTシャツをまとっている。但し、店員にさらっと聞いた限りでは資本関係などはないらしい。毎週月曜日を定休にして麺や具材の仕込みをする日に充てているようである。細長い店のつくりで、奥にあるカウンターと入口側の窓に面したカウンターの他に、10名ほど座れるテーブルがある。店のイメージは日本などのラーメン屋さんにかなり近い。

味について言うと、一言で言えばポーランド人向けの味というに尽きるだろう。かなり濃い目の味になっている。特に塩ラーメンは日本のイメージとはかなり違う。ただ、「アート」という店の名前から想像されるように、店員は別にして少なくともオーナーはこの点を明確に意識して店作りをしているように思える。以下は筆者が試食した味噌ラーメンと塩ラーメンの写真。


味噌ラーメン、「とりネギラーメン」といった趣のラーメン


塩ラーメン、海鮮ラーメンといった趣のラーメン

上の2銘柄を試食してみて思ったことは、寿司と同じように一度日本を出たら「伝統的なもの」が変容していくことは避けられないということ。寿司とSushiは同じではない。伝統的な寿司や日本蕎麦が食べたければ日本に行けば良いのだし、海外であれば日本人客だけで店の運営が成り立つようなエリアに出向いて行けばよい。どうしても食べたいと思えば自分で作るという手ももちろんある。但し、筆者はそこまでの思い入れはないので、日本に一時帰国した際の楽しみとして取って置く方を選んでいる。

伝統に拘ることと、他に自分の伝統を押しつけることとは同義の行為ではないだろう。同じように、歴史に思いを馳せるということと、現在を否定して過去に回帰するということとは同義の行為ではない。自戒を込めて言えば、歴史好きは特にこのことを常に念頭に置いておく必要があるように思う。

(了)

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■ピョートルコフスカ通り128番地 ー 喫茶店

ピョートルコフスカ通り128番地に筆者がよく行く喫茶店がある。当ブログでも何度か書いているように、筆者がウッチに移住してきた90年代後半とは大きく様変わりし、ピョートルコフスカ通りには様々な喫茶店ができ、賑わっている。

128番地の喫茶店はその中でもかつての雰囲気を残した筆者お気に入りの当地風喫茶店。売物の「主」は自家製のケーキなどで、コーヒーや紅茶はむしろ、その場でそうしたお菓子を食する人の為に供されるものと言った方がより実態にあっている。ケーキを買って自宅に持ち帰る人も多い。写真で見ても分かるように、店内は照明が薄暗く保たれていて、中から通りを横切る人々を何となく眺めるという「つれづれ族」に相応しくできている。

建物の由来などについて解題すべくいつものようにボロフスキさんのサイトを覗いてみるが、これといった記述はない。建物は、欧州ではよく見かけるスタイルで、日本式の二階より上は住宅になっている。念のため喫茶店のウエイトレスに尋ねてみたが、ここも矢張り住宅になっているという。ピョートルコフスカ通りにあるこうした建物は、個人に転売された住宅もあるが市が管理している住宅もまだ多いそうだ。当然住んでいる人は様々。通りを歩いていると、文字通り何となくぶらぶらしているとしか思えない人達をよく見かけるが、こうした人達も「地元の住人」と思えば納得出来る。ただ、中には素性の宜しくない人達もいるそうなので、観光でウッチを訪れてピョートルコフスカ通りを散歩する人は気をつけた方が良さそうだ。特に、一見して観光客と思われる様子で歩いている人は狙われやすい。

ボロフスキさんのサイトから

筆者が日本語を教えている語学学校も夏休みに入ってしまったが、今月はまだ夏季集中講座があるので、授業のあとにこの喫茶店に立ち寄って、通りを更に自由広場の方に向かって散歩したり、疲れたら散歩を早めに切り上げて帰宅するという「習慣」がしばらく続きそうだ。もっとも、学校から喫茶店までは徒歩で10分くらいで、途中にオフ•ピョートルコフスカがあるので、今のシーズンは先にビールを一杯楽しんでからコーヒーという流れもあるかも知れない。

最後に、蛇足ながら関連情報を一つ。

筆者自身は昔風のカフェと言うか喫茶店が好みなのであるが、ピョートルコフスカ通りにはマックはもちろんダンキンドーナツもある。集中講座の授業の前に時間つぶしをする機会があったので、89番地のダンキンドーナツに入ってみた。メインテーマの128番地の喫茶店とは異なり、店内は明るく照明がなされており、若者のカップルが歓談を楽しんでいる。因みにお値段は、アメリカンコーヒー(小)が8.5ズロチ、ドーナツが一つ約5ズロチ。

このチェーン店、首都ワルシャワではだいぶ前から展開しているが、ウッチでは比較的最近展開し始めたように思う。筆者がコーヒーとドーナツを味わっている間に、老齢のカップルも入ってきて、若者だけのスポットということでもないようだ。写真のように、子供のためにということでお絵かき用具なども置いている。余り長くなるとお店の宣伝になってしまうのでこの辺で。

(了)

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■日々つれづれ(2017-06-14) ー 起承転結ということ

小生のような六十代半ばの日本人にとっては、「起承転結」という言葉は恐らく馴染み深いもの、それも肯定的な意味で馴染み深いものではないかと思う。そのつもりで、ウィキペディアの記事をチェックしてみてアレっと思った。当該記事にこんな記述がある(2017-06-08現在)。「起承転結による文章は論理的ではないと指摘されている。文章やストーリーの構成としての起承転結は、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な文章ではパラグラフ・ライティング (主張 → 根拠 → 主張)、。。。中略。。。が主に用いられている 。」

確かに小生も、企業に勤めていた当時は、報告は口頭か文章かにかかわらず、先ず結論を述べ、次いでその根拠を敷衍し、最後に最初の結論に戻るというスタイルを取るように努めていた。逆に、当時のあるローカルスタッフがどうしてもこのスタイルに馴染むことが出来ず、最初に事実関係や背景を延々と述べ立てて結論をなかなか言わず、ひどくイライラした経験もある。しかしこれは、実務における文章の話し。筆者について言えば、当時でも私的な文章は推敲を重ねていく過程で自然に起承転結のスタイルになっていたし、今もそうではないかと思う。文章に対する好みの問題、あるいは人とその生に対するアプローチの問題ということで考えれば、文章が論理的であるか否かは大した問題ではないとも言えるし、前述の記事では出典を明示しているので記事の書き方そのものにも問題はないと思う。ただあくまでも可能性の話しではあるが、記事の全体からみて前述記事の投稿者が日本語そのものが論理的でないと考えている可能性はある。ひとまずそう仮定して、自分はこの点についてどう思うかということを考えてみよう。当該ウィキペディアの記事がそのきっかけの一つを与えてくれたことに感謝しながら。

筆者は、十代の終わり頃から広い意味の「欧州の思想」にかぶれてこれを選択し、四十歳で欧州、それもかつて東欧と呼ばれた国に移住して今も住んでいる。そして、年金生活者の年齢に達した今、改めて母の国の言葉である日本語を見直している。それは日本語の構造を意識的に見直すということにつながり、さらに、日本語の「論理」ということに思いを馳せることにつながっていく。具体的には、「外国人」に日本語を教えるという活動を通じてこの作業を行っている。自分一人だけの頭の中であれこれひねっているだけでは考え方や内容にどうしても広がりが乏しくなるので、貴重な楽しい作業になっている。さて日本語の論理もしくは日本語文章作法ということでいうと、起承転結という表現の他に序破急という言葉もよく使われるようだ。学生時代に教養科目で能学の授業を履修したこともあり、個人的には「序破急」とか「秘すれば花」といった表現にはとても親しみがある。これらの表現は日本語の「論理」とか考え方を示した典型的なものとして一応考えることができるであろう。一方で、欧州の「論理」としての典型は何であろうか。筆者は、それは「弁証法」ではないかと考えている。欧州文明の水面下にあるものはキリスト教と哲学の二つであろうが、弁証法はそのうちの哲学における基本的な考え方ではないかと思う。「テーゼ」、「アンチテーゼ」、「ジンテーゼ」。なにか、起承転結の起承・転・結や序・破・急に通ずるものを感じないだろうか。

さて再び本題。グーグルで検索すると、起承転結だけでなくこれと序破急とを並べてテーマにしたサイトが結構ヒットする。中には、起承転結はくだくだするのでブログには向かないと述べた文章もある。実際、当ブログの投稿を読んでその感想をくれたある親しい友人から、もっと短くしなければダメと言われたこともある。ただそうだとすると、起承転結で書くことを基本にしている当ブログは「ブログ」というカテゴリーには入らず、看板をかけ直す必要があるということになってしまう。例えば、ブログではなく雑文サイトといった感じで。。。。もっとも、「ブログ」という言葉の定義にも様々な見解や幅があるだろうから、こだわらなくてもいいのかもしれない。目に止まること、読まれることを主な目的として書かれているものだけがブログということでもないだろう。今自分がやっていることは基本は自分のため。その上で読んでいただける読者がつくのであればよりうれしいというスタンスでやっている。将来ウッチ郷土史の翻訳がある程度まとまったら別のアプローチをトライすることも考えてはいるが、いずれにしても目に止まることだけを目的にした文章を投稿していくつもりはない。地元の人達に日本語を教えながら自分も日本語の見直しをする、日本の人たちには地元ウッチの歴史を日本語で紹介していく。そのツールであるこのサイトの意味がなくなることは当分ない。

(了)

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■日々つれづれ(2017-05-31)

今回の投稿は、イラスト付き歴史百科の翻訳という当ブログのメイン・テーマにちなむ投稿である。以前、同様の趣旨で現在少しづつ翻訳している歴史百科第三巻の目次を概観した投稿をアップしているが(ここ)、今回は、最終目標である第五巻までの内容を概観するということで、編者のGrzegorczyk氏による各巻の巻頭言を改めて通して見てみることにする。第三巻については今年中に翻訳のめどをつけようと頑張っているが、第四巻、第五巻となると、そもそも翻訳が成るのかどうか正直覚束ないところもあって、ここで一度全体を見通しておこうというのが本投稿のきっかけである。

(第三巻)当巻で対象となる時期は、ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間であるが、ウッチ市の発展に決定的に関与するのはそのうちの数年間である。プロイセン領時代でも、ワルシャワ公国時代でも、小農村に新たな息吹の表れはまだなかった。当時は、Zgierz(ズギェーシ)とStrykow(ストゥリクフ)の近くに横たわる農村という扱いだった。動き始めたのは、いわゆるポーランド立憲王国時代に入ってからである。事実上5年間でウッチ市の将来の運命が決定された。この時期にウッチ市の基礎ができ、その発展の主要な方向性が示された。ちなみに、1820年にマゾフシェ県委員会の長Rajmund Rembielinski(ライムンド・レンビェリンスキ)がウッチに姿を現した時の人口は800人ほどで、現在の旧市街に相当する地区の世帯数は120だった。ウッチには1822年まで外国人の手工業者や工場主は見当たらなかったが、その5年後ウッチにはまったく新たな状況が出現していた。旧市街は拡張されて新市街が生まれ、また市南部にはLodka(ウトゥカ)と呼ばれる居住区が誕生した。後者にはドイツ、チェコ、シロンスク、そしてヴェルコポルスカからの植民者が引き入れられ、1820年代の終わり頃には約5千人がウッチに入植していた。新市街には織物業に従事する人々が、Lodka居住区には亜麻織物や綿織物に従事する女工を含む職工達が入植した。また元の旧市街にはユダヤ人街が生まれた。こうして、主としてRajmund Rembielinskiの働きで、ほんの数年間で新たなウッチ市が誕生した。我々は、彼の記念碑を建ててもよい程の功績をRembielinskiに負っていると言えよう。

(第四巻)当巻の巻頭言では、19世紀後半のウッチにおける出来事の目撃者であるOskar Flattの記述、すなわち1853年に発行された同氏の著書『ウッチ市について』から引用させて頂くことにする。同書は数度にわたりリプリントされているが、にもかかわらず広く知られているとは言えない。同書は我がウッチ市について書かれた最初の書であるし、その記述に触れることは意味あることと思う。Oskar Flattは書いている。「国中見回してもウッチ市ほど産業の恩恵を受けている都市はないのではないだろうか。産業のおかげで、完璧な忘却と虚無から、発展と富の蓄積がこれほどの水準にまで高められた都市、突如として産業による活力が現れ出た都市、一言で言えば典型的な産業都市以上の都市。。。。ウッチは綿織物産業で我々の先頭に立っており、その発展自体と、その当初からその後の過去30年間にその産業活力が示した弛まず変化するテンポによって、特別な注目を浴びている。」

(第五巻)本巻ではいよいよ19世紀後半の時期に入る。この時期にウッチ市はダイナミックな発展を遂げ、ウッチ市には織物産業の一大センターが建設された。もちろん、これまでの巻で記述されてきた出来事や事実でも明らかなように、変化の速度とダイナミズムが記録的なものであったとはいえ、すべてが一時に成ったわけではない。確かに、18世紀末から19世紀半ばにかけてウッチ市の人口は100倍に跳ね上がった。それでも、当時のウッチ市の人口は小都市に数えられる規模の約2万人に過ぎなかった。その後10年毎に平均2倍の速度で人口が増えていく。1860年代には4万人、1870年台には8万人という具合で、世紀の境目には30万人超に達した。人口の増加が5千人から1万人の規模であるうちは都市のステータスに実質的な変化はない。しかし、増加が数万人から数十万人の規模となるとそれは質的な変貌を意味し、ウッチ市は小都市から大都市に移行した。さらに言えば、わずか30年から40年の間にウッチ市は大工業都市に変貌した。これは言うまでもなく特筆すべき現象である。そして、まさにこの変化の第一波は本巻で扱う1860年代になされたのである。それは何よりも、ウッチ市の絶え間ない拡大と産業の機械化であり、製造部門における大工場の出現であり、Karol Scheiblerを頂点とするウッチ・ブルジョアジーの発生であった。同時にそれはまた、社会不安と暴動の時代であり、愛国的蜂起の時代でもあった。しかし、こうした事件でブレーキは掛かったものの、ウッチ市という巨大な機械は活動を止めることはなかった。本巻では、いわゆる大ウッチ市建設の歴史が引き続き記述されていく。それは、巨大な運命と資本の都市、なによりも苦難な労働に従事する都市の、生き残りをかけた闘いの歴史であった。「Piotrkowska 104」 編集長Arkadiusz Grzegorczyk

上記のうち第三巻と第五巻の巻頭言については再掲であるが、第四巻の巻頭言は今回翻訳したものである。その過程で、このイラスト付き歴史百科の基本文献にも挙げられかつしばしば引用されているOskar Flattの著書を電子版で手に入れることができたことは大きな収穫であった。

最後に、あまりきれいに撮れていないが、ピョートルコフスカ104番地の近影写真を以下載せて置く。イラスト付き歴史百科の編者であるGrzegorczyk氏のオフィスは、写真で見えている入り口から中庭に入って真っ直ぐ行った、市役所の建物のなかにある。この百科を日本語に翻訳してブログに載せることを快諾くださったGrzegorczyk氏にここで改めて感謝の意を表しておきたい。

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-2)

第四章 ダイナミックな発展の端緒(承前)

1.1820年 – 新生ウッチのスタート

ウッチを産業中心地に再編成するという計画のうち初期のものは、地域社会の中枢からあらわれた。すでに1815年に、ウッチ市長Szczawinski(シチャヴィンスキ)が上層部に具申している。しかし、一連の決定(写真28)がポーランド立憲王国総督によって発せられたのはようやく1820年9月18日のことで、1820年7月にRemwielinski(レンヴェリンスキ)が騎馬でこの地域を視察し、その結果が精査された後のことであった。その決定に基づき、紡織関連の集落がウッチに生まれることになる。ウッチのみならず、マゾフシェ県に属するDabie nad Nerem(ドンビェ・ナド・ネレン)、Gostynin(ゴスティニン)、Przedecz(プシェデチ)、Zgierz(ズギェシ)にも同様の集落が生まれることになった。

<ウッチ以外にも、マゾフシェ県に属する以下の都市も産業都市に指定された>


(写真24)ズギェシ


(写真25)ゴスティニン


(写真26)プシェデチ


(写真27)ドンビェ・ナド・ネレン

前述したレンヴェリンスキは視察後に報告書を作成したが、その中で当時重要とされた以下のような産業立地条件を挙げて、ウッチに紡織関連の集落を開設する旨の決定を下すべきであるとしている。

ー ウッチの特徴である市後背地に広大な市有地が存在すること;
ー 水量豊かで流れの早い川や小川があり、また既存の揚水装置や、撹拌、圧縮、染色を行う施設への転用が容易な水車なども存在していて、水利条件に恵まれていること;
ー 建設資材、特に木材やレンガなどを安価で調達することが容易であること;
ー 街道沿いに立地していること;
ー すでに入植している入植者や手工業者、とりわけガラス職人、紡織工などが存在していること;
ー それまで発展が遅れていた地域の振興を目指せること

以下、1820年に作成されたレンヴェリンスキの前述報告書の一部を紹介しよう。

(。。。。)ウッチ市。ズギェシと同じくピョートルクフ街道沿いにあるが別の川に面していて、深い森に包まれた、そしてそのおかげで利益を生み出しそうなウッチ市を訪れた。三年前、川の水嵩が増し、ほぼ市中にあった水門付きの政府管轄水車が流されてしまう事態が発生したが、その同じ場所に良質の撹拌施設やレンガ工場を建てることができるだろうし、手作業で建設作業につく人々に価格価値がない近隣の直轄森から運ばれる木材を無料で供給することができる(。。。。)

レンヴェリンスキは早くも三年後、新市街に集落が建設されていること、Grobelny(グロベルヌィ)水車があった場所に撹拌施設が建設され始めたことを報告している。


(写真28)決定

<歴史百科編者によるコメント>
ポーランド立憲王国では、Staropolski(スタロポルスキ)工業地帯を除き、農業が主体だった。とりわけ、ラシャや亜麻布を用いた繊維製品の不足は顕著であり、そこから産業のこの部門(繊維部門)の優先順位が高くなったのである。。。。。繊維製品の不足は、ポーランド立憲王国がいわゆるヴェルコポルスカの繊維工業地帯から切り離されことも原因となり、ポーランド中央部が必然的に消費市場となった。ポーランド立憲王国の農村では小物の繊維製品に特化されたが、ラシャその他の繊維製品の需要を満たすことができないほどであった。内需(軍用、民生用)の他に、繊維産業の発展に好条件をもたらす重要な要因になったのは、1821年にロシアとの協定が締結され特恵関税が導入されたことにより、ロシア帝国への輸出の可能性が増大したことであった。また中国向けラシャ製品の輸出に対するプロイセンへの優遇措置が撤廃されたことも大きく影響した。


(写真29)オスカー・フラットの記述から


(写真30)ザヨンチェク公、ナポレオンの敗北後ロシア皇帝アレクサンドルI世からポーランド立憲王国の総督に任命される、在位1815−1826


(写真31)ドゥルツキ=ルベツキ公、ポーランドの政治家、1821−1830ポーランド立憲王国財産相


(写真32)モストフスキ伯爵(1766−1842)、ポーランド立憲王国内務相

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし
(了)

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■ 日々つれづれ(2017-05-11)

うれしいことに、最近当ブログを訪問くださる方が増えてきた。当ブログの切り口は2つあって、筆者が住んでいるポーランドの知られざる大都市ウッチ市の歴史を、ポーランド語を解さない方々のために紹介するということの他に、もう一つのテーマである、いわば第一のテーマとは逆方向の作業となる、当地の方々に日本語を広めるという切り口があるからだろうと想像している。

ただそうだとすると、自分がやっているように、日本語教授に関する情報を求めて訪れる方が増えてきた可能性も大いにある。大学では日本文学を専攻したとはいえはるか昔の話であるし、日本語教授法を専門的に学んだわけでもない筆者が、ほとんどボランティアでやっていることについての感想を綴っているだけなので、あてが外れてガッカリという方もいらっしゃるかもしれない。そうした方々にはこの場でお詫びをしておきたい。

実際、2つのテーマの優先順位がこのところ逆転してしまった感がある。半年前に2つめのテーマ実現に着手してからすでに二度、ひらがなに関するワークショップもどきを請われて行っているし、近々また別のところで似たようなイベントの予定がある。すでに行った2つのワークショップのうち一つは、当地の第二高校で行われた日本デーで、もう一つは当ブログでも紹介したウッチ大学で行われた日本デーである。今度は中学生を対象に話しをするということで、今から何を話そうかと、ない知恵をしぼっている。

当然、授業の準備もやらなくてはいけないので、「主夫」をしながらのワークロードはそこそこのレベルになって退屈しない。もともと企業での職業生活を早めに切り上げたのも、単にのんびりしたいというのが理由ではなかったし、2つのテーマはともに、「趣味」であるパソコンを使うことにリンクしているので、むしろ喜んでやっているという方が実態に合っている。

第一のテーマである歴史については、ソ連と東欧圏の崩壊をいわば「歴史体験」して、これにややリンクした形でポーランド移住を実行してからずっと考え抜かれてきたテーマで、目指す方向などは自分の中で明確になっている。一方、第二のテーマについてはようやく少し見えてきたというのが正直なところである。

これまで、恩師や友人たちの目に見えない様々な後押しや、家族の援助があっていろいろな語学に手を染めかつ生業の糧ともしてきたが、企業人生を終えるときに正直感じていたのは、「いろいろやったけどみんな中途半端だったな」という思いだった。それでも言語というテーマで何かやりたいと考えていて消去法で残ったのが日本語。もちろん、手軽にできると思っていたわけではない。それだけ、自分が学んだ「外国語」のレベルの低さ、「使えない」という思いを身にしみていたということだと自分の中で整理している。

日本紹介ということですぐに思い浮かぶのは、やはり書道や華道(生け花)、あるいは折り紙といった日本の伝統文化であろう。当地ウッチ市に限定して見回してみても、こうした仕事については長い伝統があるし、多くの人が手がけている。日本語学習という点に限定してみても、そうした伝統文化に惹かれてという学習者が多い。また若い人たちでは日本のアニメに惹かれてという人も増えているようだ。

日本の伝統文化やポップカルチャーを広めることはもちろん有意義なことだと思う。ただ、大部分の日本人にとり日本語は意識することさえない生活の一部であって、伝統文化やポップカルチャーに直接結びつくものではない。一つの例として、自分のことを考えてみる。ポーランド語を日常使っているが、考えたり、その考えを文章にしてブログに投稿したりするのは日本語だ。そもそも、自分は伝統文化やポップカルチャーには縁が浅いし、どう考えてもその紹介者の資格があるとは思えない。今の自分は、できないことをできると思い込む必要からはすでに自由になっているし、なにより自分が学んだ「外国語」のことですでにそのような思い切りを経験している。

繰り返しになるが、日本の伝統文化やポップカルチャーを紹介することに意味がないと言っているわけではない。伝統文化やポップカルチャーに「直接」結びつかない、ごく「普通の日本語」を教えるという日本語教育があってもいいのではということである。もちろん最終的には学習者の思いが優先されるわけであるが。。。。

(了)

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