■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-2)

第四章 ダイナミックな発展の端緒(承前)

1.1820年 – 新生ウッチのスタート

ウッチを産業中心地に再編成するという計画のうち初期のものは、地域社会の中枢からあらわれた。すでに1815年に、ウッチ市長Szczawinski(シチャヴィンスキ)が上層部に具申している。しかし、一連の決定(写真28)がポーランド立憲王国総督によって発せられたのはようやく1820年9月18日のことで、1820年7月にRemwielinski(レンヴェリンスキ)が騎馬でこの地域を視察し、その結果が精査された後のことであった。その決定に基づき、紡織関連の集落がウッチに生まれることになる。ウッチのみならず、マゾフシェ県に属するDabie nad Nerem(ドンビェ・ナド・ネレン)、Gostynin(ゴスティニン)、Przedecz(プシェデチ)、Zgierz(ズギェシ)にも同様の集落が生まれることになった。

<ウッチ以外にも、マゾフシェ県に属する以下の都市も産業都市に指定された>


(写真24)ズギェシ


(写真25)ゴスティニン


(写真26)プシェデチ


(写真27)ドンビェ・ナド・ネレン

前述したレンヴェリンスキは視察後に報告書を作成したが、その中で当時重要とされた以下のような産業立地条件を挙げて、ウッチに紡織関連の集落を開設する旨の決定を下すべきであるとしている。

ー ウッチの特徴である市後背地に広大な市有地が存在すること;
ー 水量豊かで流れの早い川や小川があり、また既存の揚水装置や、撹拌、圧縮、染色を行う施設への転用が容易な水車なども存在していて、水利条件に恵まれていること;
ー 建設資材、特に木材やレンガなどを安価で調達することが容易であること;
ー 街道沿いに立地していること;
ー すでに入植している入植者や手工業者、とりわけガラス職人、紡織工などが存在していること;
ー それまで発展が遅れていた地域の振興を目指せること

以下、1820年に作成されたレンヴェリンスキの前述報告書の一部を紹介しよう。

(。。。。)ウッチ市。ズギェシと同じくピョートルクフ街道沿いにあるが別の川に面していて、深い森に包まれた、そしてそのおかげで利益を生み出しそうなウッチ市を訪れた。三年前、川の水嵩が増し、ほぼ市中にあった水門付きの政府管轄水車が流されてしまう事態が発生したが、その同じ場所に良質の撹拌施設やレンガ工場を建てることができるだろうし、手作業で建設作業につく人々に価格価値がない近隣の直轄森から運ばれる木材を無料で供給することができる(。。。。)

レンヴェリンスキは早くも三年後、新市街に集落が建設されていること、Grobelny(グロベルヌィ)水車があった場所に撹拌施設が建設され始めたことを報告している。


(写真28)決定

<歴史百科編者によるコメント>
ポーランド立憲王国では、Staropolski(スタロポルスキ)工業地帯を除き、農業が主体だった。とりわけ、ラシャや亜麻布を用いた繊維製品の不足は顕著であり、そこから産業のこの部門(繊維部門)の優先順位が高くなったのである。。。。。繊維製品の不足は、ポーランド立憲王国がいわゆるヴェルコポルスカの繊維工業地帯から切り離されことも原因となり、ポーランド中央部が必然的に消費市場となった。ポーランド立憲王国の農村では小物の繊維製品に特化されたが、ラシャその他の繊維製品の需要を満たすことができないほどであった。内需(軍用、民生用)の他に、繊維産業の発展に好条件をもたらす重要な要因になったのは、1821年にロシアとの協定が締結され特恵関税が導入されたことにより、ロシア帝国への輸出の可能性が増大したことであった。また中国向けラシャ製品の輸出に対するプロイセンへの優遇措置が撤廃されたことも大きく影響した。


(写真29)オスカー・フラットの記述から


(写真30)ザヨンチェク公、ナポレオンの敗北後ロシア皇帝アレクサンドルI世からポーランド立憲王国の総督に任命される、在位1815−1826


(写真31)ドゥルツキ=ルベツキ公、ポーランドの政治家、1821−1830ポーランド立憲王国財産相


(写真32)モストフスキ伯爵(1766−1842)、ポーランド立憲王国内務相

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし
(了)

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■ 日々つれづれ(2017-05-11)

うれしいことに、最近当ブログを訪問くださる方が増えてきた。当ブログの切り口は2つあって、筆者が住んでいるポーランドの知られざる大都市ウッチ市の歴史を、ポーランド語を解さない方々のために紹介するということの他に、もう一つのテーマである、いわば第一のテーマとは逆方向の作業となる、当地の方々に日本語を広めるという切り口があるからだろうと想像している。

ただそうだとすると、自分がやっているように、日本語教授に関する情報を求めて訪れる方が増えてきた可能性も大いにある。大学では日本文学を専攻したとはいえはるか昔の話であるし、日本語教授法を専門的に学んだわけでもない筆者が、ほとんどボランティアでやっていることについての感想を綴っているだけなので、あてが外れてガッカリという方もいらっしゃるかもしれない。そうした方々にはこの場でお詫びをしておきたい。

実際、2つのテーマの優先順位がこのところ逆転してしまった感がある。半年前に2つめのテーマ実現に着手してからすでに二度、ひらがなに関するワークショップもどきを請われて行っているし、近々また別のところで似たようなイベントの予定がある。すでに行った2つのワークショップのうち一つは、当地の第二高校で行われた日本デーで、もう一つは当ブログでも紹介したウッチ大学で行われた日本デーである。今度は中学生を対象に話しをするということで、今から何を話そうかと、ない知恵をしぼっている。

当然、授業の準備もやらなくてはいけないので、「主夫」をしながらのワークロードはそこそこのレベルになって退屈しない。もともと企業での職業生活を早めに切り上げたのも、単にのんびりしたいというのが理由ではなかったし、2つのテーマはともに、「趣味」であるパソコンを使うことにリンクしているので、むしろ喜んでやっているという方が実態に合っている。

第一のテーマである歴史については、ソ連と東欧圏の崩壊をいわば「歴史体験」して、これにややリンクした形でポーランド移住を実行してからずっと考え抜かれてきたテーマで、目指す方向などは自分の中で明確になっている。一方、第二のテーマについてはようやく少し見えてきたというのが正直なところである。

これまで、恩師や友人たちの目に見えない様々な後押しや、家族の援助があっていろいろな語学に手を染めかつ生業の糧ともしてきたが、企業人生を終えるときに正直感じていたのは、「いろいろやったけどみんな中途半端だったな」という思いだった。それでも言語というテーマで何かやりたいと考えていて消去法で残ったのが日本語。もちろん、手軽にできると思っていたわけではない。それだけ、自分が学んだ「外国語」のレベルの低さ、「使えない」という思いを身にしみていたということだと自分の中で整理している。

日本紹介ということですぐに思い浮かぶのは、やはり書道や華道(生け花)、あるいは折り紙といった日本の伝統文化であろう。当地ウッチ市に限定して見回してみても、こうした仕事については長い伝統があるし、多くの人が手がけている。日本語学習という点に限定してみても、そうした伝統文化に惹かれてという学習者が多い。また若い人たちでは日本のアニメに惹かれてという人も増えているようだ。

日本の伝統文化やポップカルチャーを広めることはもちろん有意義なことだと思う。ただ、大部分の日本人にとり日本語は意識することさえない生活の一部であって、伝統文化やポップカルチャーに直接結びつくものではない。一つの例として、自分のことを考えてみる。ポーランド語を日常使っているが、考えたり、その考えを文章にしてブログに投稿したりするのは日本語だ。そもそも、自分は伝統文化やポップカルチャーには縁が浅いし、どう考えてもその紹介者の資格があるとは思えない。今の自分は、できないことをできると思い込む必要からはすでに自由になっているし、なにより自分が学んだ「外国語」のことですでにそのような思い切りを経験している。

繰り返しになるが、日本の伝統文化やポップカルチャーを紹介することに意味がないと言っているわけではない。伝統文化やポップカルチャーに「直接」結びつかない、ごく「普通の日本語」を教えるという日本語教育があってもいいのではということである。もちろん最終的には学習者の思いが優先されるわけであるが。。。。

(了)

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■ 梅田芳穂さんとウッチ(その2)

梅田さんについては、ウッチにもゆかりの日本人ということで昨年七月に一度取り上げ(ここ)、すぐにでも続編を書くつもりでいたのであるが、すでに十ヶ月もたってしまった。昨年の投稿をアップした直後は、投稿の手がかりになったポーランド語の記事にある「語り手」のキンガさんに自分も直接会って話しを聞くつもりでいた。それが実現せぬまま今日まできてしまったのである。キンガさんは、筆者が住んでいる建物から2つほど先の建物に住んでおられ、近いが故にいつでも会えると思い延び延びになってしまったというのが実際のところなのかもしれない。

それが今日ようやく実現させることができた。事前の約束もせずに訪ねて行ったのであるが、暖かく迎えていただき、お菓子とお茶をご相伴させていただきながらの歓談となった。もとより、梅田さんの詳しい伝記を書くなどというような壮大な目的があるわけでもなく、聞き取りのための準備をしていたわけでもないので、新事実の発見というようなことはなかったが、前回投稿の元になった記事で回想されている梅田さんの思い出話を確認させていただくことができた。


キンガさんとそのご夫君

著作権のことを考えて前回の投稿には記事の翻訳は含めないようにしていたのであるが、今回キンガさんから直接当時の話しを聞くことができたし、以下にウッチの梅田さんに関する部分の拙訳を掲げておく。

「Yoshiho(梅田芳穂さんのこと)は1963年にワルシャワに到着しました。荷物の中には、亡くなったお父上(梅田良忠教授のこと)の遺灰の入った骨壷もありました。遺灰はポーランドにとの故人の希望があったのです。私達の両親はウッチでYoshihoを迎えることなっていたので、子供の私達がYoshihoに会ったのも、私達が休暇を過ごし、同時に発掘現場でもあったSzarpskoに行っていた両親が帰ってきたあとのことでした。」

「かわいい、色黒の、心なしかビクついた感じの、13歳の少年でした。ポーランド語もわからず英語もさほど得意ではなかったYoshihoは、すぐに私達の心を捉えてしまいました。この頃のことは彼にとって苦しいというよりも恐怖に似た体験だったのではないかと思いますが、陽気な性格で、エネルギーに溢れかつ行動派であったYoshihoは、それが表面に出てくることはあまりありませんでした。私達と一緒に松林を駆けまわり、Pilica川で水浴しといった具合です。Yoshihoがトンボ返りや反転をした時は私達を本当にびっくりさせたものです。自分の勇気や能力があることを誇示することに意を用いていたようで、私達をいつも冷や冷やさせていました。」

「私達の父は当初からYoshihoの教育に本腰を入れていました。Yoshihoに、Wieslaw Kotanskiのポ日辞書から毎日ポーランド語の単語を10づつ覚えるようにといつも要求していました。これを助けたのは、Yoshihoとほぼ同じ年頃の妹のEwaでした。Yoshihoはこの勉強にあまり熱心ではなく、そのせいか私達が初めて知った日本語の言葉は「禿げた頭」という言葉でした。Yoshihoは、私達の父が単語の習得具合を見にやってくると、父のことをこの日本語でしかも大声で呼んでいたからです。私達の父はこれが気に入っていて寛容でしたが、妥協はしませんでした。というのも、バカンスが終わるとYoshihoはウッチの高等学校で勉強を始めることが分かっていたからです。Yoshihoのお気に入りはStobnicaでのバカンスで、Pilica川や松林も気に入っていました。」

「Yoshioは、Sienkiewicz通りにあるウッチ第3高等学校で勉強を開始します。第1学年は教室で授業を聴いているだけでしたが、それでも少しづつ勉強に慣れていき、後には優等生になっていました。それでも学校では苦しい時期を体験したようです。私達の母はある日、学校から帰った彼が壁に向かって座り、何度も英語でNo Hope, No Hopeと繰り返しているところに出くわしています。幸いこれはまもなく過ぎ去り、Yoshihoはクラスの重要人物になっていきました。Yoshihoは、当時ポーランドではほとんど知られていなかった日本製音響製品を日本から持ってきていて、その頃流行りだったビートルズ、ローリングストーンズ、赤いギターといった音楽グループの曲を録音することができたこともその理由の一つでした。」オリジナル:Grazyna Przanowska 氏署名の記事「かわいい子には旅させろというが。。。。」(2003年、出所未詳)


ウッチ第三高校

キンガさんとご夫君の思い出話には、ポーランドに居を移した他の日本人の方々のことも話題に上った。その中には筆者も旧知の方の名前も挙がっている。改めて周りを見回してみると、ポーランドにゆかりの日本人の中で梅田さんと同世代の方々はすでのその二世が社会で活躍している。北米や西欧諸国とは比較にならないながらも、共産圏時代を知らない比較的若い人たちもどんどんポーランドにきているようだ。梅田さんのお子さんの一人でご息女のHanaさんも日本舞踊の世界で活躍されている。実は、別の投稿に書いた、ウッチ大学経済社会学部とYakumogotoクラブとの供催で行われている今年の日本デーでそのHanaさんも踊りを披露され、筆者も言葉をかわす機会を持った。もしかしたら、このことがキンガさんからの聞き取りを自分に思い切らせるきっかけになったのかもしれない。

(了)

カテゴリー: つれづれ, ウッチ

■日々つれづれ(2017-04-11)

当ブログはWordpressのサービスを使って運営されているが、実は自分の日記もローカル・ベースのWPで管理している。WPとこれを支えるOSはいわばブログ運営の裏方で通常は陽の目を見ることはないのだが(笑)、一度くらいはそういうことがあってもいいだろうと思うし、このテーマで少し書いてみる。

OSは2010年からLinuxベースのものを使っている。元々若い頃からパソコンで暇つぶしをするのが好きでただのユーザーでは収まらないところがあったが、その(2010年)当時インターネット上でLinuxがGUIレベルでかなり使えるようになってきたという記事を目にすることが多くなり、思い切って手を染めることにした。随分長いこと使っているような気がするが、振り返ってみれば高々7年前の話しだ。もっとも、今時の7年はこの分野では相当のタイムスパンのようで、例えば7年前のパソコンはもう殆ど化石化してしまっている。もちろん、使って使えないことはないが、セキュリティー・リスクも相当高くなっているので、使える範囲はかなり限られる。特に、現在ではネットに繋がずに作業をすることは考えられないので、古いパソコンではこの点で相当の制限がついてしまう。

手を染め始めた当時は、その頃購入したネットブックを主に使ってLinuxの「勉強」をしていた。Debian系、Redhat系の様々なOSを次々とインストールしては消し他のOSをまたインストールするという作業の繰り返しだった。その過程で、CUIでも基本的なコマンドは使えるようになったが、本格的にCUIで作業をすることを覚えかつ使うようになったのはここ2年ほどのこと。その少し前に企業での仕事に区切りをつけて自宅を中心に生活するようになり、時間が取れる様になったことが主な理由である。もう一つの理由はWordpressに出会ったこと。今振り返ってみると、WPとの出会いは筆者のLinux歴の中でとても大きな転換点になったと思う。最初にしたことは、それまでテキスト・ファイルで書き溜めていた日記と自分の人生40年を振り返った半生記をローカル・ベースのWPに移し替える作業だった。この過程で、いわゆるLAMPとphpMyAdmin、そしてMySQLの初歩を身につけることができた。しばらくは、このローカル・サーバーでWPを使っていたが、そのうちWP専用のサーバーを別に立てることを思いつく。前述した32ビットのネットブックにインストールできるOSがゼロではないが大分少なくなってきたし、これをサーバー用途で使えば古いマシンの再利用もできると考えたわけである。ローカルサーバーを、専用とはいえリモートサーバーに移すということで、WP関連だけではなくLinux全般でも随分いろいろなことを勉強させてもらった。ここでも同じプロセスを廃しては元に戻すという作業を繰り返していて、その都度各モジュールのバージョンアップに伴う新たな状況に直面して更なる勉強を強いられはしたが、今のところなんとか使えている。

とはいえ、Linuxをベースに作業をしている上で問題点がないわけではない。WPを使うようになってからOSの頻繁な入れ替えはしないようになったが(WEBサーバー内にあるデータのバックアップとレストアの作業が結構面倒くさい)、それでもつい最近デスクトップマシンのOSを入れ替える事態になった。これまで大半はDebian系のOSを使ってきたのだが、それほど前のことではなく比較的最近のアップデート後にsambaが使えなくなってしまったことが主な理由である。筆者のLinuxの知識や情報量は、プロのそれと比較すれば間違いなく貧弱なレベルであることは明らかであるが、それでもDebianとアップデート後のsambaとの間に根本的な問題があることは察しがつく。ということで今は、サービス期間が短いのを承知でRH系のOSを使っている。Gnomeの標準インプットメソドにも問題点はあるが、これは次回機会があれば書いてみたい。

(了)

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■ ピョートルコフスカ通り72番地/グランド・ホテル

過去の投稿を見ると「ピョートルコフスカ通り」というシリーズでの投稿は今年の一月七日付が最後になっている。すでに三ヶ月前。この切り口での投稿は、実際に通りを散歩している時にテーマが浮かんでくることが多いので、散歩に適さないシーズン中はどうしても投稿のテーマが生まれにくい。大雑把に言って、当地では一年の三分の一強が冬期で(十一月中旬から年明けの三月末くらいまで)、個人差、好き嫌いの差はあるだろうが、少なくとも自分にとっては散歩には適さない時期である。この冬は、このブログを始めてから最初に経験した冬期ということになるが、自然の流れとして、この期間中のこのシリーズでの投稿はほとんどないという結果になった。それでも四月に入り春の到来を思わせる暖かい日が多くなってきたし、例年よりは少し早めだが、集合住宅の建物の周りの木々や草花も大分色づいてきている。自分の健康のためにも冬場以外はできるだけ外に出て散歩する必要があるが、今年もまたそうした季節がやってきたわけで、何とはなしに浮き浮きした気分になる。

ピョートルコフスカ通りにまつわる、散歩ができるシーズンになってからの最初の投稿のテーマはグランド・ホテル。同じような名前のホテルが世界各地にあるというのはごく普通のことであるが、当地ウッチ市にもグランド・ホテルがある。それもメインストリートのピョートルコフスカ通りに面して。ウッチ市のグランド・ホテルは歴史のある古いホテルである。筆者がポーランド・ウッチに移住してきた90年代半ばは、ウッチの名所といえばピョートルコフスカ通り、ピョートルコフスカ通りのホテルといえばグランド・ホテルと相場が決まっていた。特に、グランド・ホテルに隣接した喫茶店は筆者の貴重な「休憩所」であった。日本から来た筆者にとって様々な意味で息抜きの場所である喫茶店は今でも生活に必須の施設であるが、当時のポーランドにはこれが不足していて随分物足りない思いをしたものである。しかし、それも既に過去の話しとなった。2004年にポーランドが欧州連合に加盟した頃から、複数の外資系の高級ホテルがあちこちに建設され、ウッチのホテル事情も大きく変わってしまったからである。件の喫茶店も今は若者向けの喫茶店に変わってしまい、筆者にとってはノスタルジーの対象になってしまった。ウッチにも、若い人向けの喫茶店の専門店が沢山出来たが、筆者がよく使うのはやはり、古めかしい趣のHortexかピョートルコフスカ通りとNawrot通りとのほぼ角にある128番地のCukierniaである。

さて、ウッチのグランド・ホテルであるが、このシリーズでは必ずお世話になるBorowskiさんのサイト(ここ)によると、1865年に所有者がEdward Hentschel (Haentschel)に代わってからその後の元になる建物が出来上がったらしい。新しい所有者はこの建物を工場だけでなく住まい兼製品倉庫としても使っていた。当時の建物はその後の1875年の火災で焼けるが、工場主は建て替えをせずに工場を別の場所に移してしまう。跡地の所有者は娘婿のLudwik Meyerの手に移った。Meyerは義理の兄であるJuliusz Kunitzerと共同で工場を新設する。その後Meyerは単独の経営者となって工場を別の場所に移し、ピョートルコフスカ72番地の建物を住居として使うようになる。1888年、Meyerはこの建物を増築して「グランドホテル」と名付けられたゲストハウスとして使いはじめた。どうもこれが今もあるグランド・ホテルの元になったようである。ゲストハウスの経営者にはオーストリア人のPiotr Schwartzがついた。当時の部屋数は45、部屋代は最低1ルーブル、最高3.5ルーブルだったそうだが、当時の貨幣価値を調べていないのでどの程度のレベルのゲストハウスであったのか詳らかではない。所有者であるMeyerはその後も増築を続けたようで、1897年には部屋数は70に増えている。また一階の一部を使って自分の製品を置いていたようである。Meyerは1904年までこの建物の所有者であった。

一方、もう一つの基礎文献であるAnna Rynkowska著『ピョートルコフスカ通り』(179−180頁)にはこんな記述がある。以下は引用・翻訳である。

「ウッチには、ポルスキ(Polski)、ヴィクトリア(Victoria)、グランド(Grand)という3つの大きなホテルがあり、いずれもピョートルコフスカ通りに面していた。番地はそれぞれ3番、67番、72番であった。そのうち最も有力なホテルはグランドで、ピョートルコフスカ通りとクルトゥカ通り(訳注:現在のトラウグッタ通り、この通りにサヴォイ・ホテルがある)の角にあった。金持ち、特に外国の富裕層の人達がこれらのホテルに投宿した。1888年3月2日付の日刊紙「Dziennik Lodzki」は次のようなリストを掲げている。ホテル・ポルスキには、チェンストホーヴァのOpenhajm、ワルシャワのSobolewski、トルンのFiszer、コンスタンチノポールのImergutが、ホテル・ヴィクトリアには、ベルリンのKupper、ワルシャワのFechner、ワスクのDabrowski、ワルシャワのSzoberが、ホテル・グランドには、ブダペストのZimerman、モスクワのMengubi、ヘムニッツ(Chemnitz)のHahn、リガのLipschnitzなどがそれぞれ宿泊している。」

再びBorowskiさんのサイトに戻る。前述のMeyerは1904年に、バンク・ハンドローヴィを筆頭株主に据えた株主合同「グランド・ホテル」にホテルを売却する。価格は47万5千ルーブルだったそうである。さらに1911年、ホテルは、有力な大工場主や大商人達のコンソーシアムに買われた。コンソーシアムの筆頭はJuliusz Heinzelの息子であるLudwik Heinzelであった。そして、本格的なホテルの改修が行われる。1913年に完工した後のホテルは、四階建てのファーストクラスのホテルに変わっていた。部屋数も150に増え、レストラン、ウィーン風の喫茶店、屋外コンサート用の施設などもあった。メディア・インフラも整備され、一階には当時の著名な店々が顔を見せていたという。


ホテルの広告(Borowskiさんのサイト所収)

1904年といえば、日露戦争の年。翌1905年にはロシアでは1917年の社会主義革命につながるいわゆる第一次革命が起こる。またこの間、1914年から1918年にかけて欧州を主戦場にした大戦(いわゆる第一次世界大戦)が起こっている。本稿のテーマであるグランド・ホテルは、正にこうした時期にその本格的な礎が築かれていったようである。以前投稿したサヴォイ・ホテルの時代背景もその末期とは言えこの時期にかぶっている。歴史に興味を持つ「ウッチ市民」としてはサヴォイ・ホテルとグランド・ホテルとはどう共存していたのかということに関心を抱くが、それよりなにより、今年はロシアの社会主義革命から百年目。twitterでは百年目新聞なるアカウントもあるようだし、百年前の歴史に思いを馳せることが今年は特に必要なのかもしれない。


Hotel Grand近影

(参考)
1.ホテル公式サイト(http://www.grand.hotel.com.pl/grand_pl/Home)
2.Anna Rynkowska, “Ulica Piotrkowska”, Łódź 1970
3.Waldemal Borowski さんによるピョートルコフスカ通りの歴史に関するサイト(http://piotrkowska-nr.pl/)

(了)

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■日々つれづれ(2017-03-27)

夫婦ともに車で移動する場合を除き、車を運転しない筆者にとり移動の「足」はなんと言ってもトラム。バスを使うことも時にあるが、東京に住んでいた時からトラムには言葉では表現できないほどの愛着があった。その後ポーランドに移住してから仕事で欧州の様々な都市を訪れる機会があったが、訪問した先では可能な限りトラムに乗った。

現在中欧と呼ばれている国々で日本人向けの観光地といえば、旧ハプスブルグ帝国領内の都市であるウィーンやプラハがまず思い浮かぶ。筆者もこの両都市には仕事で関わりを持ち、かの地のトラムにはよく乗った。特にチェコのプラハでは8年強と長期間実際に生活したこともあって、文字通り日々の足だった。

ハプスブルグと言えば、筆者が住んでいるポーランドも18世紀末から20世紀始めまで続く、国の独立を喪失していたいわゆるポーランド三国分割の時代に、ガリチアと呼ばれた地域がハプスブルグ領内にあった。しかし、その後も続くめまぐるしい歴史の転変とこれに伴い戦火を経験したことが災いしてか、筆者の経験からすると、日本ではウィーンやプラハに比較しポーランドの都市の観光地としての認知度は相対的に低い。特に、首都であるワルシャワと旧首都クラクフを除くと、他の都市はあまり知られていないようだ。筆者が住んでいるウッチはその代表格と言ってよいだろう。

さてトラムに話しを戻すと、ウィーンとプラハは日本人向け観光地の「定番」ということで様々な紹介記事があるが、ポーランド、特に筆者のホームグランドであるウッチのトラムについては紹介記事は殆どないように思う。ちょうどこの4月初め(投稿時点から約1週間後)から路線網の大改正(と若干の値上げ)が予定されていて、改正後の路線図などは役に立つこともあろうかと思うので以下紹介しておく。オペレーターのMPK-Lodz(ここ)ではこの大改正を「革命」と称していて実際に大幅な変更が予定されている。当然、筆者を含めて利便を得る人も失う人もいるわけで賛否両論喧しいが、総体としては良い方向での改正のように思う。

ポーランドは20世紀初めに独立を回復したものの、第二次世界大戦の勃発で再び独立を喪失した。そして、第二次世界大戦後の国境線引き(ヤルタ会談)の結果、一旦ポーランド領に戻った先のガリチアも西ガリチアのみ現在のポーランド領となり、東ガリチアは旧ソ連そして現在のウクライナの領土となるなど、めまぐるしい歴史の転変を経験してきた。戦後も旧ソ連の支配下にあった旧東欧圏に組込まれて長い間停滞の時代を経験するが、いわば自力でそこから抜け出し、欧州連合加盟を果たした頃から生活水準も急激に改善されてきている。ウッチもやや遅れは見られるものの、道路網の拡充や公共交通機関網は目に見えて改善されてきている。

(了)

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■新米日本語教師奮闘記(2017-03-27)

個人教授で日本語を教えている生徒さんが、ご夫婦で日本に観光旅行に出かけることになった。こういう機会にブログへの投稿に注力しないといつまでたっても投稿のペースが上がらないことは明白で、これまでにためていたテーマを少しづつ形にしていこうと思う。

にわか日本語教師を始めてまだ四ヶ月。授業が終わるとすぐほとんど自動的に、その日の授業の反省が頭のなかで始まるのだが、「こうしなければ良かった」という自己嫌悪的な反省がまず頭に浮んでくる。少し時間が経てば、この反省は次の授業ではこうしようというアイデアに変わっていくのであるが、大した失敗もなくよくできた授業だったと思えたことは殆どない。

こうした反省点で一番のものは、文法の素人講義をやってしまうことだ。もともと語学が好きで文法にも興味を持っていることが逆に災いしている。母国語を考察の対象に据えてからまだ半年も経っておらず、しかも本格的な教授法の学習をしたこともない自分が、学者もどきで講義をしてしまうのは、生徒さんたちには申し訳ない限りだが、一方でこれが自分に日本語教師をやらせている原動力になっていることも間違いないところだ。

中学、高校で勉強した英語を別にして、自分が本格的に学んだ最初の外国語はロシア語であったが、その際に何よりも引きつけられたのは「完了体・不完了体」という概念がロシア語にあることであった。その後ポーランド語に手を染めることになったわけだが、スラブ語に特有な共通部分を持つということばかりでなく、ロシア語で体の概念に触れていたことがポーランド語習得の上で大いに役に立ったと思っている。

話題を日本語の文法に戻す。ポーランド人に限らず、外国人に日本語文法を教える際に学校文法が使えないことは言うまでもないであろうが、外国人向け日本語教授用文法を使うにしても日本語特有の文法事項はやはり残る。その最たるものとしてまず敬語があげられるだろう。次に来るのは時制であろうか。日本語の時制では現在と未来とが渾然としていて、ポーランド人学習者にとって日本語の文法はわかりにくいと思わせる文法事項の一つではないかと思う。わずか四ヶ月の経験に過ぎないが、その難しさは筆者もすでに体験している。確かに違いは大きい。とは言え、違いばかりを強調するのはどうもスッキリしないことも確かだ。

ロシア語の体や日本語の「完結相・非完結相」という概念はアスペクトと呼ばれるようであるが、日本語のアスペクトとロシア語やポーランド語のそれとはかなり近いものがあるのではないかという気が最近してきている。これを文型でいうと、
1.完結相では、過去時制「~ました」、非過去時制「~ます」
2.非完結相では、過去時制「~していました」、非過去時制「~しています」
と一応整理してよいのではないだろうか。もちろん、整理しきれない例外はたくさん出てくると思うし、そこがまさに日本語らしいということになるのであろうが、日本語を教えることは学術研究ではないし、原則を示してあげることは重要だろうと思っている。

(了)

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