■「私のドストエフスキー」(2)

前回の投稿■「私のドストエフスキー」(1)では、自分が辿ってきた人生をドストエフスキーを通して見直していくという作業に着手し、1825年のデカブリストの乱で稿を終えていた。今回はその続編である。今回も、米川正夫訳ドストエフスキー全集別巻「ドストエフスキー研究」(河出書房新社刊)と、巻末の近田先生編の年表を主な資料として使わせて頂く。特に断りがなければ、この年表からの引用である。

さて、1825年。この時作家は4歳であった。この年齢で明白な記憶が残っているという人は少ないだろうと思う。もちろん、断片的なイメージとして残るということはある。例として、作家の作品から引用させてもらえば、アリョーシャがおぼろげに覚えている母の面影を描写するくだりがある。

「彼の覚えているのは、静かな夏のある夕方だった。開け放された窓、沈みかけた太陽の斜光(この斜光が一番強く心に残っていた)、部屋の一隅の聖像、その前にともっている燈明、そして聖像の前にひざまずいた母が、ヒステリーを起こしたように金切り声や叫び声をあげながら泣きわめき、彼を両手にかかえて、痛いほどぎゅっと抱きしめ、彼のために聖母マリヤに祈っては、さながら聖母の庇護を求めるかのように、両手に抱きしめた彼を聖像の方にさしのべている。。。。」(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫35ページ)。

ただ、デカブリストの乱という事件が、4歳の作家に、あるイメージを残すほど、強い印象を与えたとは思えないので、作家にとっての「事件」の意味はやはり、1849年(28歳)12月に流刑地シベリアに向け出発、年明け1月にデカブリストの妻たちから、紙幣が隠された聖書を贈られたことに求められると思う。

前回の投稿ではもう一つ、ロシア人として生まれた作家の家系について触れておいた。作家の父はポーランド領で生まれ、その地は間もなくロシア領ウクライナとなった。一方、作家の次女エーメによれば、生まれはポーランド領であったが、民族的にはリトアニア人であったとされている。

ドストエフスキーが結婚したのは1867年で、作家が46歳の時であった。配偶者となったアンナ・スニートキナとは、『罪と罰』の草稿速記者として知り合っている。そして、短命に終わる長女ソフィヤの後に生まれた次女のエーメが生まれたのは、2年後の1869年で、作家はこの時48歳だった。前年に『白痴』を完結させ、後の『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』に発展する新たな小説の構想も、その頃既に芽生えていたようである。

ドストエフスキーは、1881年60歳で永眠する。14年間の結婚生活であった。作家の次女エーメが父である作家と時を共にしたのは、彼女が12歳の時までであったということは記憶しておいて良い事実である。また、作家の作品に即していえば、『白痴』より後の時期であった。言い換えれば、エーメが生まれる以前に、『死の家の記録』から『白痴』までの作品が既に書かれていたということである。

ここで、エーメの回想に戻る。米川正夫さんのドストエフスキー研究によれば、エーメはこう回想している。「祖父ミハイルは、絶えず子供たちに、自分の素性を説明していたらしい。なぜなら、わたしはたびたび父の口から、後には叔父たちの口から、こういうことを聞いたからである。『われわれドストエフスキー家のものはリスアニヤ人であって、ポーランド人ではない。リスアニヤとポーランドはまったく別の国だ』」(「ドストエフスキー研究」9ページ)。

このくだりを読む限りでは、作家、そして作家の弟たちは、祖先がリトアニア人であることを強調するというより、「ポーランド人ではない!」ということを強調していたのではないだろうかという気がしないでもない。もちろん、あくまで想像である。仮に、想像が当たっているとして、「なぜか?」という問いが自然に浮かんでくる。その手がかりは、やはり作品にしか求められないであろう。

膨大なドストエフスキー論を展開するつもりは毛頭ないが、拾い読みになるにせよ、少しばかり、作品に描写されたポーランド人像から、作家の思いを探ってみようと思う。その前に、シベリア流刑という経験を境にした、作家のいわゆる後期の作品群の流れを整理しておく。『死の家の記録(1860年-1862年)』『地下生活者(室)の手記(1864年)』『罪と罰(1866年)』『白痴(1868年-1869年?)』『悪霊(1871年-1872年)』『未成年(1875年)』『カラマーゾフの兄弟(1879年-1890年)』。

今回はここまでにしておく。次回は『死の家の記録』から関連する箇所を抜書して、思うところを綴ってみたい。

(了)

■「私のドストエフスキー」(1)

前回の投稿■自分にとっての同時代史と現代史では、生まれた時には過去にあったことで、かつ自分が生きていく過程で関与していく歴史、つまり同時代史と直接的に結びついている「現代史」ということについて考えてみた。過去にあった事柄の中で、今の自分がどのように関わっているのかということを意識しながら、自分の生を見直すという営みのいわば第一章である。

正直に言うと、「現代史」とそれ以前の「歴史」などという面倒くさい区分はせずに、過去にあったことはすべて「過去」でくくってしまうということも、もちろん可能である。むしろ、過去か非過去(瞬間としての現在と未来)だけで考える、生きていくことの方が普通なのだろう。それに、こんなことは言葉を弄んでいるだけという気もする。要は、自分のような人間は言葉の遊戯が好きな、ただの変わり者ということになるのかもしれない。まあ、他の人々に迷惑をかけさえしなければ、変わり者がいても構わないとは思うが。。。

つまらぬ前置きはこの辺にして。

前投稿で自分にとっての現代史はどのようなものだったのかというイメージが出来あがったので、そのイメージを自分が辿ってきた人生とのつながりで探っていく、というのが次の作業になる。いわば第二章である。今回は「私のドストエフスキー」、つまりドストエフスキーを自分が辿ってきた人生を通して見直していく。ただし、歴史を意識しながらということは、改めて強調しておく必要があるだろう。

初めて読んだ作品は、言うまでもなく『罪と罰』だった。誰の訳であったかは、もう覚えていない。二十歳になる前の頃だったと思う。最初の大学を中退し、改めて受験勉強をしながら大学再入学を目指していた頃である。その後アルバイト先の書店で、割引で買えることに惹かれて、ドストエフスキー全集を買い揃えたのであった。

前投稿の「準則」で計算すると、現代史100年プラス同時代史70年弱。つまり、今から170年程前まで遡る必要があるが、ここでは作家の生誕年等を考慮して、大胆に下駄を履かせることにする。今回参考にするのは、前述全集別巻に付された年表。この年表の末尾には「近田友一編」と書かれている。近田先生は、前にも書いた通り、自分がロシア語の手ほどきを受けた恩師である。先生には、件の全集を購入して数年後に出会ったことになる。

ドストエフスキーのことに触れる前に、どうしても記しておきたいことがある。今回改めて気付いたことであるが、年表の記述によると、作家の父の生家は、ウクライナのポドーリスク県にあったそうである。1789年生まれの作家の父ミハイルは、カーメネツ=ポドーリスキイの神学校に在籍していた。

同市は、現在のウクライナ西部の主要な都市の一つである。1793年の帝政ロシアによるポーランド第2次分割まではポーランド領だった。つまり、作家の父は、当時のポーランド領で生まれたことになる。著名な古城があり、自分も2009年に観光で訪れたことがある。

ただ、米川正夫さんの研究によると、ドストエフスキー家の祖先はポーランド人ではなくリトアニア人であったそうである。作家の娘のエーメ(リュボフィ)の回想がその根拠になっている。ちなみに、1569年のいわゆるルブリンの合同で、ポーランドとリトアニアは同君連合国家となっていた。

さて、ドストエフスキーの生年は1821年、兄のミハイルはその前年1820年に生まれている。つまり、来年2021年はドストエフスキー生誕200周年ということになる。これも今回気付いたことの一つ。生まれた場所は、モスクワのマリンスキ病院右の傍屋となっている。

自分は1978年に、博物館となっていた当該生家を訪れている。旧ソ連ブレジネフ時代の末期だった。観光といっても、独り歩きがままならない時代で、旅程に入っていないこの博物館まで、一人で地下鉄を利用して訪問した。うろ覚えの「夢想家」というロシア語の単語をひけらかして悦に入っていたことが、懐かしく思い出される。

ここで目をウッチに移そう。1815年のウィーン会議の結果として、ポーランドはポーランド立憲王国となり、ウッチはプロイセン領から、短期間のワルシャワ公国時代を経て、帝政ロシア領となっていた。1820年、産業都市ウッチ市の始祖とも言えるレンビェリンスキが、ウッチ周辺地域の視察を行う。作家は、この頃に生まれている。ドストエフスキーの生誕と、産業都市ウッチ誕生の礎となった事績とが、殆ど重なっているという事実は、自分にとって事実以上の重みがある。

5年後の1825年には、産業都市ウッチの基礎が出来ていた。現在翻訳中の、ウッチ歴史百科第3巻第8章にこの辺りの詳しい事情が記述されている。1825年といえば、ロシアではデカブリストの乱が起こった年である。デカブリストの乱は、ドストエフスキーの活動においても、縁浅からぬ事件の一つであった。

しかし、ここで一休みとしよう。一つの投稿があまり長くなると読みにくくなるので、以後の年々については、また次回ということにさせて頂く。このテーマの最初の投稿ということで、冒頭にグダグダと前置きを付したために、本題の分量が見劣りする投稿になった。悪しからずご容赦頂きたい。

(続く)

■自分にとっての同時代史と現代史

冒頭からまた数字遊びでは、先を読む気を削いでしまう恐れがあることをあえて承知で書くなら(仮に読者がいるとしてではあるが)、実は歴史についても数字遊びをやって楽しんでいる。もちろん、学術的な理論を構築などという大それたことは考えておらず、文字通りの「遊び」である。

生まれてからの世界の一連の動きを「同時代史」と呼ぶことに、言葉の使い方として異議を挟む人は少ないと思うが、生まれる以前の歴史となると様々な見解があると思う。ただ、自分の生と深く結びついた「現代史」とそれ以前の文字通りの「歴史」とに大きく2分することについては、概ね賛同して頂けるのではないだろうか。問題は、現代史というくくりでどこまで遡れるのかということだ。

今、現代史の形容として「自分の生と深く結びついた」と書いた。別の表現をすれば、現代史として捉えられる事柄とは、好き嫌いを超えて、無条件で受け入れざるを得ない、自分の生の前提条件のような事柄ということである。あるいは、起こったことの結果が、否定を拒むほど根強く残っている、そうした事柄のことである。少なくとも、自分はそう考えている。

さて、ここで数字遊びが登場することになるのであるが、哲学史によく出てくるフランス生まれの哲学者に倣い、当座の準則、仮の原則を立てて、それがどこまで妥当性があるのかを探っていく。いろいろ考えていても切りがないので、思い切って、生まれる前の100年間を仮に現代史と考えてみることにする。

まず日本史でいうと、1853年-1854年にいわゆる黒船来航があった。日本が欧州文明との対決を迫られた象徴的な事件だ。以後、明治維新までの期間をさして「幕末」と呼称されている。言葉の定義はさておき、自分の生の前提条件となる日本現代史は、先の準則に従えば、日本が欧州文明との対決を迫られ、受容を決意し、興亡を経験した100年間ということになる。

この100年間を更に探索していけば、自分の生を回想する上で様々な発見が出てくるのであろうが、20代の初めに選択した人生の課題は、明治の先人達が苦闘した、欧州文明とは何なのかを追求するということであった。もちろん、当時はそれほど明確な意識を持っていた訳ではない。今から思えばということである。一つ付け加えておくなら、仏教という切り口ではあるが、欧州文明の受容と興亡の歴史を追求するという選択肢も実は当時あった。しかし、残念ながら人生は一度きり。やり直しという選択肢はない。

ということで、欧州に目が向いていったのであるが、日本による欧州文明の受容と興亡の歴史に深く関わったアメリカ合衆国には、なぜかあまり関心を抱かなかった。黒船のペリーにしても、GHQのマッカーサーにしても、国としての相手は同じアメリカ合衆国である。しかし、自分の関心は、もっぱら欧州本体に向いていた。ただし、当時の壁の向こう側の地域に。最初はロシア、そしてポーランドにというように。

前回の投稿■ロシア語からポーランド語へで書いたように、前半生のキーワードはロシア(当時はソ連)、ロシア語である。そして、ドストエフスキー。まず、ロシア及びその周辺でこの時期にどのような事柄があったのかを辿っていくことにしよう。歴史年表からの抜書であるが、改めて書き出してみると意外な発見がある。参考にするのは、山川出版社刊『世界各国史4ロシア史(新版)』(1979年)の年表である。本書は、某社の依頼で新刊短評を書き、何某かの稿料を初めて頂いた、自分にとっては夢多き青年時代の、想い出深い一冊である。

。。。(1846年ドストエフスキー『貧しき人々』。)1853年クリミア戦争(-1856年)。1861年農奴解放令。1863年-1864年ポーランド立憲王国(実質ロシアの属国)1月蜂起、チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』。1866年ドストエフスキー『罪と罰』。1870年第一インターナショナル・ロシア支部設立。1872年マルクス『資本論』最初の露語訳。1877年露土戦争(-1878年)。1880年冬宮爆破事件、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。1881年アレクサンドル2世暗殺、ドストエーフスキー死去。

1885年プレハーノフ『われらの見解の相違』。1887年アレクサンドル3世暗殺未遂(ポーランドのピウスツキ兄弟も連座、流刑)。1891年大津事件。1898年ロシア社会民主労働党(後のソ連共産党につながる)、ミンスクで第1回大会。1899年レーニン『ロシア資本主義の発達』。1903年ロシア社会民主労働党第2回大会、ボリシェビキとメンシェビキに分裂。1904年日露戦争。1905年「1905年革命」。1912年第1次バルカン戦争。1913年第2次バルカン戦争。

1914年「第一次世界大戦」(-1918年)。1917年「二月革命」、そして「十月革命」。1918年ブレスト講和条約調印、「シベリア出兵」。1919年コミンテルン第1回大会。1920年コミンテルン第2回大会、ポーランド・ソビエト戦争(-1921年)。1921年コミンテルン第3回大会。1922年コミンテルン第4回大会、ソ連邦(ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国、ザカフカースの各共和国)成立。

1924年レーニン死去、スターリンの「一国社会主義論」、コミンテルン第5回大会。1926年スターリン『レーニン主義の諸問題』。1928年コミンテルン第6回大会、ソ連邦第1次五カ年計画。1929年世界恐慌始まる。1935年コミンテルン第7回大会(最後の大会)。1939年「ノモンハン事件」、独ソ不可侵条約、ポーランド分割。1940年バルト3国ソ連編入。1941年独ソ戦開戦。1945年ソ連軍、ポーランドなどへ進攻、ポツダム会談。1948年ベルリン封鎖(-1949年)。1950年朝鮮戦争(-1953年)。1953年朝鮮戦争停戦協定、スターリン死去。。。

この100年の動きを自分なりにあえて短く整理するなら、それは、欧州の理想主義思想の一つであった共産主義ないし社会主義が、発祥地ではなく東に寄った帝政ロシアに移植され、「思想」が「国家」の形をなしていく過程、歴史である。ドストエフスキーも、この過程の中で作品を生み出していった。そして、好きとか嫌いとかではなく、その歴史の紛れもない結果が、生まれた時に自分を取り巻いていたのである。

ということで、この準則もそれなりに一つのイメージを与えてくれることが分かった。ただ、ドストエフスキーについては、処女作を起点にするにしても、準則から少しずれてしまうし、作家の生涯ということで捉えるなら、更にスケールを過去にずらさねばならない。よって、今回の準則とは別に、機会を改め回想しようと思う。できれば、ドストエフスキーの作品に現れるポーランド人というようなテーマでまとめられればと考えている。また、100年のロシアの歴史の中に見え隠れしているポーランドの歴史についても、追ってまとめてみようと思っている。

(了)

■ロシア語からポーランド語へ

自分の人生で、ロシア(当時はソ連)から、ポーランド、ウッチにキーワードが移っていく直接のきっかけは、自分が選んだ伴侶が、ゆかりの人であったからである。この辺りの経緯は、半生記の前編(私家版)で触れられているが、出会いのもとにはロシア語というキーワードがあった。

前回の投稿■言葉との関わりについてで触れたように、自分なりに考えて入学した二度目の大学では、必修語学は英語を履修したものの(入学前に決めておかねばならなかった)、入学後まもなくの頃にロシア語に興味を持った。しかし、必修語学は既に英語と決めていて変更は出来ない。それでも、やるなら本格的に勉強したいと思い、必修語学のロシア語の授業を聴講させて頂いた。

担当の教官に無理をお願いしご快諾頂いたのだが、毎回授業に出ること、正規の学生と同じように試験を受けて及第することという条件付きであった。我ながら、よく続いたなと思うのであるが、ここでロシア語の基礎の手ほどきを受けた。担当教官がドストエフスキー研究者の近田友一先生で、授業の合間にドストエフスキーの作品にまつわるお話しを聞くことができたことも、続いた理由の一つだったように思う。

その頃は、ドストエフスキーの作品をオリジナルで読むことが夢で、ナウカ版の全集を買い揃えたりしたが、オリジナルで読むという夢は果たせずに終わった。ただし、日本語での評伝や作品論のたぐいは濫読した。作品は河出書房新社版の全集で間に合わせていた。この全集はポーランドに移住する際にも、無理をして持ってきている。

最初のソ連観光旅行で、モスクワのドストエフスキー博物館を訪れたり、レニングラード(当時)の『罪と罰』の舞台になったと言われる場所を散策したり、常にドストエフスキーの周辺をさまよっていたように思う。しかし、青年時代の夢はあくまでも夢。まもなく「現実路線」を取らざるを得なくなる。

せめてロシア語で生活の糧を得ようということで、文学ではなく語学としてロシア語の学習を続け、「生」のロシア語をということで遊学したモスクワで、今度はポーランドに出会う。当時日本でも、「連帯」運動の興亡を通してポーランドの知名度は高まっていた。ポーランド人そのものからくる魅力はもちろんであるが、自分の関心がロシア(当時はソ連)からポーランドに移っていくことに、さほど違和感はなかった。この時に一緒だったポーランド人達とは、その後当地ウッチで再会し、今でも交流がある。

こうして、人生の方向を決めたロシア語との出会いは、更に発展してポーランドとポーランド語に移っていった。それでも、まだ日本で生活していた頃はロシア語で生活の糧を得ていた。しかし、移住してからはポーランド語を使わざるを得なくなる。全くの独学で、ちょっとかじった程度のポーランド語のレベルで移住を決心したため、最初の一年目は苦しかった。そのレベルで、無理やり通訳などをしていたのだから、我ながら心臓が強かったなと思う。

それから、既に四半世紀が経過した。その間、職場はいろいろ変遷があったが、居住地は変わらず、仕事上の赴任地から帰る場所は常にウッチであった。結婚したあとは別にして、日本にいた頃は毎年のように住所を変えていた生活が、ポーランドに移住して初めて定住地を得たことになる。様々な思い出が頭に浮かんでくるが、これはまた別の機会にしよう。

現在、ポーランド語は生活言語である。家族との意思疎通はポーランド語を介している。もちろん、移住後も概ね日系企業で禄を食んでいたおかげで、日本語を忘れてしまったわけではない。ただ、ロシア語がポーランド語を超えて再び人生のキーワードに戻るということだけはなさそうだ。

(了)

■ウッチ歴史百科第3巻私訳版ー第7章の翻訳終了ー

新装版では固定ページに置いてある「ウッチ歴史百科第3巻私訳版」の第7章の翻訳が終了した。続く第8章のタイトルは「最初の産業ブームー1823-1824」。その当時ポーランドは、立憲ポーランド王国としてロシア帝国の傘下にあったが、そのロシア帝国で一つの転機となる1825年、「デカブリストの乱」が起こる年の直前の2年間が対象である。

(了)