■日々つれづれ(2017-03-27)

夫婦ともに車で移動する場合を除き、車を運転しない筆者にとり移動の「足」はなんと言ってもトラム。バスを使うことも時にあるが、東京に住んでいた時からトラムには言葉では表現できないほどの愛着があった。その後ポーランドに移住してから仕事で欧州の様々な都市を訪れる機会があったが、訪問した先では可能な限りトラムに乗った。

現在中欧と呼ばれている国々で日本人向けの観光地といえば、旧ハプスブルグ帝国領内の都市であるウィーンやプラハがまず思い浮かぶ。筆者もこの両都市には仕事で関わりを持ち、かの地のトラムにはよく乗った。特にチェコのプラハでは8年強と長期間実際に生活したこともあって、文字通り日々の足だった。

ハプスブルグと言えば、筆者が住んでいるポーランドも18世紀末から20世紀始めまで続く、国の独立を喪失していたいわゆるポーランド三国分割の時代に、ガリチアと呼ばれた地域がハプスブルグ領内にあった。しかし、その後も続くめまぐるしい歴史の転変とこれに伴い戦火を経験したことが災いしてか、筆者の経験からすると、日本ではウィーンやプラハに比較しポーランドの都市の観光地としての認知度は相対的に低い。特に、首都であるワルシャワと旧首都クラクフを除くと、他の都市はあまり知られていないようだ。筆者が住んでいるウッチはその代表格と言ってよいだろう。

さてトラムに話しを戻すと、ウィーンとプラハは日本人向け観光地の「定番」ということで様々な紹介記事があるが、ポーランド、特に筆者のホームグランドであるウッチのトラムについては紹介記事は殆どないように思う。ちょうどこの4月初め(投稿時点から約1週間後)から路線網の大改正(と若干の値上げ)が予定されていて、改正後の路線図などは役に立つこともあろうかと思うので以下紹介しておく。オペレーターのMPK-Lodz(ここ)ではこの大改正を「革命」と称していて実際に大幅な変更が予定されている。当然、筆者を含めて利便を得る人も失う人もいるわけで賛否両論喧しいが、総体としては良い方向での改正のように思う。

ポーランドは20世紀初めに独立を回復したものの、第二次世界大戦の勃発で再び独立を喪失した。そして、第二次世界大戦後の国境線引き(ヤルタ会談)の結果、一旦ポーランド領に戻った先のガリチアも西ガリチアのみ現在のポーランド領となり、東ガリチアは旧ソ連そして現在のウクライナの領土となるなど、めまぐるしい歴史の転変を経験してきた。戦後も旧ソ連の支配下にあった旧東欧圏に組込まれて長い間停滞の時代を経験するが、いわば自力でそこから抜け出し、欧州連合加盟を果たした頃から生活水準も急激に改善されてきている。ウッチもやや遅れは見られるものの、道路網の拡充や公共交通機関網は目に見えて改善されてきている。

(了)

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■新米日本語教師奮闘記(2017-03-27)

個人教授で日本語を教えている生徒さんが、ご夫婦で日本に観光旅行に出かけることになった。こういう機会にブログへの投稿に注力しないといつまでたっても投稿のペースが上がらないことは明白で、これまでにためていたテーマを少しづつ形にしていこうと思う。

にわか日本語教師を始めてまだ四ヶ月。授業が終わるとすぐほとんど自動的に、その日の授業の反省が頭のなかで始まるのだが、「こうしなければ良かった」という自己嫌悪的な反省がまず頭に浮んでくる。少し時間が経てば、この反省は次の授業ではこうしようというアイデアに変わっていくのであるが、大した失敗もなくよくできた授業だったと思えたことは殆どない。

こうした反省点で一番のものは、文法の素人講義をやってしまうことだ。もともと語学が好きで文法にも興味を持っていることが逆に災いしている。母国語を考察の対象に据えてからまだ半年も経っておらず、しかも本格的な教授法の学習をしたこともない自分が、学者もどきで講義をしてしまうのは、生徒さんたちには申し訳ない限りだが、一方でこれが自分に日本語教師をやらせている原動力になっていることも間違いないところだ。

中学、高校で勉強した英語を別にして、自分が本格的に学んだ最初の外国語はロシア語であったが、その際に何よりも引きつけられたのは「完了体・不完了体」という概念がロシア語にあることであった。その後ポーランド語に手を染めることになったわけだが、スラブ語に特有な共通部分を持つということばかりでなく、ロシア語で体の概念に触れていたことがポーランド語習得の上で大いに役に立ったと思っている。

話題を日本語の文法に戻す。ポーランド人に限らず、外国人に日本語文法を教える際に学校文法が使えないことは言うまでもないであろうが、外国人向け日本語教授用文法を使うにしても日本語特有の文法事項はやはり残る。その最たるものとしてまず敬語があげられるだろう。次に来るのは時制であろうか。日本語の時制では現在と未来とが渾然としていて、ポーランド人学習者にとって日本語の文法はわかりにくいと思わせる文法事項の一つではないかと思う。わずか四ヶ月の経験に過ぎないが、その難しさは筆者もすでに体験している。確かに違いは大きい。とは言え、違いばかりを強調するのはどうもスッキリしないことも確かだ。

ロシア語の体や日本語の「完結相・非完結相」という概念はアスペクトと呼ばれるようであるが、日本語のアスペクトとロシア語やポーランド語のそれとはかなり近いものがあるのではないかという気が最近してきている。これを文型でいうと、
1.完結相では、過去時制「~ました」、非過去時制「~ます」
2.非完結相では、過去時制「~していました」、非過去時制「~しています」
と一応整理してよいのではないだろうか。もちろん、整理しきれない例外はたくさん出てくると思うし、そこがまさに日本語らしいということになるのであろうが、日本語を教えることは学術研究ではないし、原則を示してあげることは重要だろうと思っている。

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-1)

第四章 ダイナミックな発展の端緒

ウッチ市はナポレオン時代末期にすでに経済発展の端緒を示し、その後ロシア領ポーランド王国(ポーランド立憲王国)政府の産業プログラムによって本格的に鼓舞されていくことになる。


(写真20) 1815年のウィーン会議の討議風景

1815年のウィーン会議の結果として生まれたポーランド立憲王国の存立の初年々、現ウッチの領域にあった集落群は非常に過密化していた。整理すれば以下のようになる。

(1) 村落: Baluty(バウーティ)、 Brus(ブルス)、 Chocianowice(ホチャノヴィッツェ)、 Chojny(ホイヌィ)、 Kaly(カーウィ)、 Lagiewniki(ワゲェヴニキ)、 Modrzew(モドゥジェフ)、 Moskule(モスクーレ)、 Radogoszcz(ラドゴシチ)、 Retkinia(レトキーニャ)、 Rogi(ローギ)、 Rokicie(ロキーチェ)、 Sikawa(シカーヴァ)、 Stoki(ストーキ)、 Widzew(ヴィーゼフ)、 Wolka(ブルカ)、 Zarzew(ザジェフ)、 Zlotno(ズウォトノ)

(2) 分農場: Jagodnica(ヤゴドニッツァ)、 Ruda(ルーダ)、 Stara Wies(スターラ・ビェシ)、 Wojtostwo Lodzkie(ヴォイトストヴォ・ウッツキェ)

(3) 製粉所部落: Chachuła(ハフーワ)、 Charzew(ハージェフ)、 Kalski(カールスキ)、 Ksiezy(クシェンジィ)、 Lamus(ラームス)、 Miejski-Mania(ミェイスキ・マーニャ)、 Pabianka(パビアンカ)、 Rokicki(ロキーツキ)、 Urban(ウルバン)、 Wiskicki(ヴィスキツキ)、 Wojtowski(ヴォイトフスキ)のKulam-Pila(クラム・ピーワ)

(4) 1782-1795年に入植された有料の「オランダ人」入植地: Antoniew(アントニェフ)、 Dabrowa(ドンブローヴァ)、 Grabieniec(グラビェーネッツ)、 Henrykow(ヘンリクフ)、 Janow(ヤーヌフ)及びZabieniec(ジャビェーニェッツ)

(5) プロイセン時代の通常の入植地: Augustow(アウグストゥフ)及びOlechow(オレフフ)、並びに後に有料入植地となるLagiewniki Male(ワゲヴニキ・マーウェ)、Moskule Male(モスクーレ・マーウェ)

(6) その他の部落:
森林部落後の農業部落: Karkoszka(カルコーシカ)、Zarzewek(ザジェーヴェク);
森林管理部落:Koziny(コジーヌィ);
いわゆる手工業者部落:Budy Sikawskie(ブーディ・シカフスキェ);
ガラス工場部落:Huta Chojenska(フタ・ホイェンスカ)、Huta Rogowska(フタ・ロゴフスカ);
農・手工業部落:Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)など。

1820年代初頭の現在のウッチの領域全体で小都市を除く56の様々な形態の部落があり、戸数は783戸、人口は6700人であった。ウッチだけでは、戸数97戸、人口939人であった。ポーランド立憲王国が成立したあと区分変更があり、ズギェシ郡がマゾフシェ県ウェンチッツァ州に組み込まれた。

カリシ県の領域にあった全ての集落は、政府直轄区Pabianice(パビアニッツェ)に属すことになった。現在のウッチの領域にある他の部分では、直轄区Laznow(ワズヌフ)の領有になっていたウッチ周縁部の諸部落だけが政府直轄となった。ウッチ市の中心部を除いて直轄区から外れたのは、Wolka(ブウカ)、Widzew(ヴィーゼフ)及びZarzew(ザージェフ)、Augustow(アウグストゥフ)、Stara Wies(スターラ・ビェシ)及びWojtostwo(ヴィトストヴォ)、Mania(マーニャ)、Lamus(ラムス)、Kulam-Pila(クーラム・ピーワ)、Ksiezy Mlyn(クシェンジィ・ムウィン)及びWojtowski Mlyn(ヴィトストヴォ・ムウィン)、Koziny(コジヌィ)、Podlodz(ポッドウッチ)及びLodka(ウートゥカ)、Karkoszka(カルコーシカ)及びZarzewek(ザジェーヴェク)であった。.

ウッチ周縁部は、直接ウッチに接する地域で、都市・産業計画事業が行われる領域に割当てられた。現在のウッチに相当する領域の諸部落は複数の異なる教会教区に属し、これが地域活動の重要な中心となった。最大の教会教区はウッチ教区で、東部地区はMileszki(ミレーシキ)教区に、北部の諸部落はZgierz及びDobra(ドブラ)教区に、Zlotno(ズウォトノ)とJagodnica(ヤゴドニッツァ)はKazimierz(カジミェシ)教区に、そして西南部の諸部落はPabianice(パビアニッツェ)教区に属した。



(写真21と22) 1577年から使われてきた印章を1817年のSzczawinski(シチャヴィンスキ)市長の文書に見ることができる、以降はロシアの双頭の鷲の紋章が使われるようになり、20世紀になるまでウッチの紋章は姿を消していた


(写真23) ウッチがロシア領となったあとの境界地図

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(003-2)

第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ(承前)

4.国民衛兵組織をめぐる争い

ワルシャワ公国時代、軍隊の補完組織である国民衛兵組織をめぐり、一部のウッチ市民と行政府との間で激しい争いが生じた。国民衛兵は戦時に市および周辺地域の秩序維持に当たることになっていた。この国民衛兵組織に、18歳から50歳までの男性が徴集され、自費もしくは市の費用で軍服と武器を整えることとされた。

1809年にオーストリアとの戦争が勃発すると、行政府は市長に対し、国民衛兵の然るべき支部をウッチ市に組織するよう指示を出した。装備は徴集された者達の拠出金によって購入された。市会評議員のPelzowskiとKuzielowiczを頭に仰いだウッチ市民の一団がこの義務に異を唱えたが、反抗は不発に終わり、首謀者達には制裁金が課された。その後かなりの時間が経過しかつ行政府側からの重ねての警告を経た後にようやく36名のウッチ市民から成る国民衛兵が組織された。1811年にはその数は53名に増え、その一部は1812年に域外にも送られた。ナポレオン軍が敗北した後ウッチの国民衛兵組織は消滅した。ウッチ市長は行政府に対し1815年に「そのような衛兵組織は存在しない」と報告している。


(写真17) ナポレオンによって興されたワルシャワ公国は希望を伴ったものであったが短命に終わった


(写真18) 現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに19世紀初頭Lodka(ウートゥカ)と呼ばれたささやかな部落が生まれた、後に際立った産業集落となるウッチはおそらくこの名から取られたものと考えられている

5.新たな部落の誕生

1815年以前もしくはワルシャワ公国が存在していた初期の時期、現在のウッチに当たる領域に新たな部落が生まれ、これらの部落にはポーランド人が入植した。 Grabieniec(グラビェーネッツ)、Henrykow(ヘンリクフ)、Gorki(グールキ)、Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)などで、Lodka(ウートゥカ)やKoziny(コジヌィ)もこれらの部落に含まれるであろう。

GrabieniecはZlotno(ズウォトゥノ)村とKaly(カーウィ)村に挟まれ、現在のSzczecinska(シチェチンスカ)通りとRabienska(ロンビェンスカ)通りに沿って広がる領域に散発的に家屋が存在していた。大きな村で、その住民の大半は周辺のガラス工場で働く人々であった。

HenrykowはJanow(ヤーヌフ)村、Widzew(ヴィーゼフ)村、Stoki(ストーキ)村に囲まれた小さな部落だった。わずか数戸を数えるのみでほぼ現在のHenrykowska(ヘンリコフスカ)通りに沿った領域にあった。Gorkiも同じく数戸を数えるのみの部落で、ほぼ現在のGorki Stare(グールキ・スターレ)に当たる領域にあった。

Kowalszczyznaは当初は単独の、後には2つの家屋からなる部落で、Dabrowa(ドンブローヴァ)の南に作られた。ほぼ現在のSlaska(シロンスカ)通りとZygmunt(ジグムント)通りが交差する辺りに位置していた。Lodka(ウートゥカ)と呼ばれた部落には当初わずかニ戸しか存在しなかった。部落は現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに位置していた。後の1827年にLesniewskiが作成した図があるが、おそらくはそこに示されているStrzelcとMarcychの林間コロニーがその場所であろうと考えられている。

一方、Kozinyは森番小屋一戸があったきりで場所を特定するのは容易ではないが、現在同じ名称をもつ集落にその場所を想定することが出来そうである。


(写真19) かつての市長兼警察長官ユゼフ・アウフシラグ

市の公式文書によると、1794年のウッチ市長はDrewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)であった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により市長Drewnowiczが罷免され市会評議会が解散させられた後Sempftと呼ばれる人が警察長官に任命されたが、まもなくプロイセン軍の将校であったAufschlag(アウフシラグ)がその後を襲った。彼はウッチ市民に対して、無慈悲でかつずる賢く貪欲であったようで、名誉ある記憶を残していない。プロイセン支配のウッチでかなりの財産を積み上げた。前線の戦況が変わりナポレオン軍との戦闘でプロイセン軍が敗北した後、Aufschlagはウッチ市の新たな指導者であるJezewicz(イェゼーヴィチ)に権力を引き渡した。彼の名はまた、国民衛兵組織ウッチ支部の創設をめぐって市内に生じた争いにも結びつけられている。彼は辱めを受けたかつての警察長官として争いの先頭に立ち、このような指揮官のもとで活動の情熱は冷え込み、事実上国民衛兵組織は崩壊した。かつての警察長官であった彼自身は、新市長Szczwinski(シチヴィンスキ)の支持も得られず、ウッチからいづこともなく離れ去った。

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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■ ウッチ大学と八雲琴クラブとの共催で行われる「第11回ジャパンデー」について

今年も、恒例の「ジャパンデー」がウッチ大学の経済・社会学部にて行われる。日程は例年通り土曜、日曜の週末二日間。今年は4月22日と23日が当日となっている。プログラムの詳細は追って八雲琴クラブのホームページ(ここ)で紹介される予定。筆者(ブログ管理人)も二日目の最後でワークショップを担当する。例年、イベントの最後まで残って下さる方々は、日本の伝統文化に殊の外強い関心を持っていらっしゃる方が多い。恥ずかしながら日本の伝統文化にはあまり詳しくない筆者が適任だろうかとの懸念もあったが、実用的な内容であればということで文字通りの「末席を汚す」ことにした。

「演物」はひらがなの速習。筆者はウッチ在住は長いものの、地域活動に手を染めることができるようになったのはようやく5年前から。八雲琴クラブのお手伝いを中心に少しづつ手を広げてきた。昨年末から地域のポーランド人達に日本語を教える日本語教師の活動も始めたが、思った以上に日本語学習への需要は裾野が広いことを実感している。ということで、こうしたワークショップで、単なる伝統文化の紹介にとどまらぬ実用的な日本語の知識を広めることは意味のあることではないかと思っている。

筆者は実は左利きである。今でこそ右も左もそこそこ使えるようになっているが、小学生の頃は「右利き」を強要されることがとても苦痛であった。今はもうはっきりは覚えていないが、小学校では確か「習字」の時間があり、とりわけ毛筆習字の時間はほとんど悪夢の時間であったように記憶している。このように「毛筆習字」にトラウマを持つ筆者であるが、それ故に芸術的に書くことときれいに書くこととの違いがよく分かる。普段の生活では、芸術的に書くことができることは必須ではないが、相手に正しく読んでもらうためにきれいに書くことは必須である。

ワークショップでは、前半で簡単にひらがな成立の由来などを説明し(付け焼き刃ではあるが)、後半で実際的な書き方を教えていく。今回改めて学んだのであるが、毛筆がベースになっている日本文字の書き方は、「とめる」「はらう」「はねる」が基本の動き。ポーランド人が相手という観点で言えば、四角形の中に体裁よく納めることが加えて必要。この2点を教えることができればワークショップは成功ということになるが、どうなることやら。

a

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(003-1)

第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ

1807年、ウッチはティルジット講和条約に基づいて新たに興ったワルシャワ公国の版図に入った。そこではナポレオン法典が適用された。

通常、ワルシャワ公国時代にはナポレオンによる軍事的、政治的活動を主因として経済が停滞し始めたと思われている。にもかかわらずウッチでは1807-1812年の数年間は引き続き発展の期間であり人口も増加した。このことは、当時の人口統計でみることができる。1808年の人口は434人であったのに対し、1810年のそれは514人であった。

14
1809年、旧市街公園沿いのWolborska通りが屈折する辺りにできたウッチ最初のシナゴーグ

1.ユダヤ人の流入

三国分割後の時代におけるウッチの人口増加は、ユダヤ人の急激な流入がその大きな要因となっている。1793年のウッチではユダヤ人家庭は3戸、計11人を数えるに過ぎなかったのに対し、1809年の人口調査ではモーセを信奉する人々の数はすでに98人となっている。三国分割以前にユダヤ人による植民への規制はなかったが、それでも最初の植民が行われたのはようやく18世紀初頭のことだった。1793年の資料によると、ユダヤ人の比率は6%ほどで、1808年は13%だった。市の人口総数も並行して増加している。1798年のウッチの人口は369人、1808年は434人、1810年は514人だった。もっとも戦争と伝染病のために1815年には331人に減少している。ウッチ最初のシナゴーグは、1809年、旧市場角のDworska通り(現在のWolborska通り)沿いにできた。屋根板で覆われた木造の建物で、新たにウッチに設置されたLutomierska(ルトミェルスカ)郡に帰属するカハウによって建てられた。敷地は当時(プロイセン領)の市長Jozef Aufschlag(アウフシラグ)から165ズロチで購入された。

2.市の建設

1793年のウッチには約50の木造家屋があり、1810年にはそれが108になっていたことを改めて思い起こしておきたい。おそらくこれらの家屋はすべて平屋で、新たに建てられた家屋は十分にゆとりがあり、藁葺とはいえ既存の家屋に比して堅固な作りになっていたかもしれない。当時のウッチには目を見張るような建物はほとんどなく、数えるほどだった。一つは今も残る18世紀にできたカトリック教会(場所はOgrodowa通りに移設)。典型的な田舎の教会で、1820年には極度に悪い状態(教会の屋根はほとんど落ちてしまっていた)にあった。次は避難所つまり病院の建物。ピョートルコフスカ道路沿いにあり、18世紀から19世紀にかけて主任司祭J. Mejer(メイェル)とこれに続くCzerwinski(チェルヴィンスキ)によって建てられた。この建物は後に居酒屋に変わった。そして正に居酒屋。これはプロイセンの当局によって市場に建設された。いくつかの建物についてはその寸法に関する資料が今も残っている。避難所後の「主任司祭の」居酒屋は長さ約18メートル、奥行き約9.5メートル、「当局の」居酒屋は長さ22メートル、奥行き6.5メートルで、隣接の馬小屋はそれぞれ11.5メートル、6.5メートルであった。当時のウッチには舗装道路は一つもなかった。

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公国の君主制はザクセン王国との同君連合で、ポーランド王アウグスト3世サスの孫であるザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世が公国の王となった

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かつての時代の証人であった唯一の記念物、Ogrodowa通りにある現在の聖ヨセフ教会、20世紀初めにグールキ・プレバンスキェから移転された

3.地方行政府

ワルシャワ公国時代、さらに続く立憲王国時代に市当局体制に関し重要な変更がなされた。行政府には、非常に広範な権限を持つ当時の市長の他に、裁判員と市会評議員が任命された。ただし、後者の権限は勧告のみに留められた。1809年2月23日付の市行政府に関する政令に基づき、1810年11月ウッチに、それまで行政府を治めていたSzymon Szczawinski(シモン・シチャヴィンスキ) が市長に、名誉裁判員にS. Depczynski(デプチンスキ)とS. Gozdowski(ゴズドフスキ)が、また W. Drewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)、M. Jezewicz(ヤジェヴィチ)、M. Kudlinski(クドゥリンスキ)、A. Lipinski(リピンスキ)、J. Pelzowski(ペゥゾフスキ)が市会評議員にそれぞれ任命された。ウッチ市にとり大きな意味を持つ1819年2月19日から1826年8月までの期間は、第四狙撃騎兵連隊の将校であったAntoni Czarkowski(チャルコフスキ) がウッチ市長の椅子についていた。

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
野村真理著『ガリツィアのユダヤ人ーポーランド人とウクライナ人とのはざまでー』(人文書院刊、2008年)
H・ハウマン『東方ユダヤ人の歴史』(平田達治、荒島浩雅訳、鳥影社刊、1999年)
ブログ „Baedeker Lodzki” (「ウッチ案内」とでも訳すか?) ここ
特にここ

(了)

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■日々つれづれ(2017-02-02)

本投稿のタイトル、最初は「イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(番外編)」にしようとも考えたが、「番外編」と言うほどのこともないと思い直し、上記にした。ただし、内容そのものはその線に沿ったものになっている。

せめてこの第3巻だけでも出来るだけ早く日本語にして紹介したいと思っているがなかなか前に進まない。そうした引け目があるせいか、あるいは日本語をウッチ地域のポーランド人に教え始めたことが影響してか、本投稿を書き出した時の文体が「デスマス体」になってしまった。もちろん、この最終版ではいつもの「非デスマス体」に統一してある。

時間がかかる理由というか言い訳を、楽屋話し風にするとこんな感じになる。オリジナルのテキストがPDFフォーマットでかつ簡単にテキストに落とせないようになっているので、まずこのオリジナルのテキストをPC上で翻訳しやすいようにテキスト・フォーマットに直す作業が必要になる。単純な作業だが案外時間がかかる。テキストだけでなく、写真や図もできるだけオリジナルに沿って配置しようと思っているのでこれも編集が必要になる。

でも、当初の予定を変更・修正して翻訳をこの第3巻からにしたことは間違っていなかったと思う。それは、この第3巻が扱っている時代区分が自分の関心の急所を付いているからである。以下、第3巻の目次を仮訳してみる。本文の翻訳につれて訳語が変わる可能性はあるがひとまず意味を取るということで訳しておく。

巻頭言 編者から読者へ
第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺
第二章 プロイセン領時代のウッチ
第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ
第四章 ダイナミックな発展の端緒(ロシア領ウッチ)
第五章 旧市街の設定
第六章 ダイナミックな発展
第七章 新市街の建設
第八章 最初の産業ブーム 1823-1824
第九章 新たな産業植民
第十章 三番目の市庁舎
第十一章 ピョートルコフスカ通りの誕生
付録 「ピョートルコフスカの乙女」伝説

現状、第二章までしか日本語にできていないが、この目次をざっと眺めて見るだけでも「ウッチの歴史」を通していわゆるポーランド三国分割後のポーランドの状況や、社会主義の発祥とその後のロシア革命との関わりが透けて見えてくる。分割前までのクラクフや第二次世界大戦後のワルシャワの影に隠れてほとんど紹介されないウッチであるが、手前味噌を承知で言えば、ウッチはクラクフとワルシャワに次いでポーランドの歴史において重要な役割を果たした第三の都市であると言えるように思う。公式なウッチの紹介文でもこうした解釈というか視点は見受けられない。現在の首都ワルシャワの視点で作られた紹介文と言ってしまえばそれまでだが、繊維産業の興隆で急速に発展し、そして斜陽化した街というのがウッチを紹介する時の全てのようである。

すでに耳元で、「能書きはいいから早く日本語に翻訳しなさい」という声が聞こえてきているが、遅くとも今年2017年中には第3巻の翻訳に目処を付けたいと思っている。

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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