■ピョートルコフスカ通り128番地 ー 喫茶店

ピョートルコフスカ通り128番地に筆者がよく行く喫茶店がある。当ブログでも何度か書いているように、筆者がウッチに移住してきた90年代後半とは大きく様変わりし、ピョートルコフスカ通りには様々な喫茶店ができ、賑わっている。

128番地の喫茶店はその中でもかつての雰囲気を残した筆者お気に入りの当地風喫茶店。売物の「主」は自家製のケーキなどで、コーヒーや紅茶はむしろ、その場でそうしたお菓子を食する人の為に供されるものと言った方がより実態にあっている。ケーキを買って自宅に持ち帰る人も多い。写真で見ても分かるように、店内は照明が薄暗く保たれていて、中から通りを横切る人々を何となく眺めるという「つれづれ族」に相応しくできている。

建物の由来などについて解題すべくいつものようにボロフスキさんのサイトを覗いてみるが、これといった記述はない。建物は、欧州ではよく見かけるスタイルで、日本式の二階より上は住宅になっている。念のため喫茶店のウエイトレスに尋ねてみたが、ここも矢張り住宅になっているという。ピョートルコフスカ通りにあるこうした建物は、個人に転売された住宅もあるが市が管理している住宅もまだ多いそうだ。当然住んでいる人は様々。通りを歩いていると、文字通り何となくぶらぶらしているとしか思えない人達をよく見かけるが、こうした人達も「地元の住人」と思えば納得出来る。ただ、中には素性の宜しくない人達もいるそうなので、観光でウッチを訪れてピョートルコフスカ通りを散歩する人は気をつけた方が良さそうだ。特に、一見して観光客と思われる様子で歩いている人は狙われやすい。

ボロフスキさんのサイトから

筆者が日本語を教えている語学学校も夏休みに入ってしまったが、今月はまだ夏季集中講座があるので、授業のあとにこの喫茶店に立ち寄って、通りを更に自由広場の方に向かって散歩したり、疲れたら散歩を早めに切り上げて帰宅するという「習慣」がしばらく続きそうだ。もっとも、学校から喫茶店までは徒歩で10分くらいで、途中にオフ•ピョートルコフスカがあるので、今のシーズンは先にビールを一杯楽しんでからコーヒーという流れもあるかも知れない。

最後に、蛇足ながら関連情報を一つ。

筆者自身は昔風のカフェと言うか喫茶店が好みなのであるが、ピョートルコフスカ通りにはマックはもちろんダンキンドーナツもある。集中講座の授業の前に時間つぶしをする機会があったので、89番地のダンキンドーナツに入ってみた。メインテーマの128番地の喫茶店とは異なり、店内は明るく照明がなされており、若者のカップルが歓談を楽しんでいる。因みにお値段は、アメリカンコーヒー(小)が8.5ズロチ、ドーナツが一つ約5ズロチ。

このチェーン店、首都ワルシャワではだいぶ前から展開しているが、ウッチでは比較的最近展開し始めたように思う。筆者がコーヒーとドーナツを味わっている間に、老齢のカップルも入ってきて、若者だけのスポットということでもないようだ。写真のように、子供のためにということでお絵かき用具なども置いている。余り長くなるとお店の宣伝になってしまうのでこの辺で。

(了)

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■日々つれづれ(2017-06-14) ー 起承転結ということ

小生のような六十代半ばの日本人にとっては、「起承転結」という言葉は恐らく馴染み深いもの、それも肯定的な意味で馴染み深いものではないかと思う。そのつもりで、ウィキペディアの記事をチェックしてみてアレっと思った。当該記事にこんな記述がある(2017-06-08現在)。「起承転結による文章は論理的ではないと指摘されている。文章やストーリーの構成としての起承転結は、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な文章ではパラグラフ・ライティング (主張 → 根拠 → 主張)、。。。中略。。。が主に用いられている 。」

確かに小生も、企業に勤めていた当時は、報告は口頭か文章かにかかわらず、先ず結論を述べ、次いでその根拠を敷衍し、最後に最初の結論に戻るというスタイルを取るように努めていた。逆に、当時のあるローカルスタッフがどうしてもこのスタイルに馴染むことが出来ず、最初に事実関係や背景を延々と述べ立てて結論をなかなか言わず、ひどくイライラした経験もある。しかしこれは、実務における文章の話し。筆者について言えば、当時でも私的な文章は推敲を重ねていく過程で自然に起承転結のスタイルになっていたし、今もそうではないかと思う。文章に対する好みの問題、あるいは人とその生に対するアプローチの問題ということで考えれば、文章が論理的であるか否かは大した問題ではないとも言えるし、前述の記事では出典を明示しているので記事の書き方そのものにも問題はないと思う。ただあくまでも可能性の話しではあるが、記事の全体からみて前述記事の投稿者が日本語そのものが論理的でないと考えている可能性はある。ひとまずそう仮定して、自分はこの点についてどう思うかということを考えてみよう。当該ウィキペディアの記事がそのきっかけの一つを与えてくれたことに感謝しながら。

筆者は、十代の終わり頃から広い意味の「欧州の思想」にかぶれてこれを選択し、四十歳で欧州、それもかつて東欧と呼ばれた国に移住して今も住んでいる。そして、年金生活者の年齢に達した今、改めて母の国の言葉である日本語を見直している。それは日本語の構造を意識的に見直すということにつながり、さらに、日本語の「論理」ということに思いを馳せることにつながっていく。具体的には、「外国人」に日本語を教えるという活動を通じてこの作業を行っている。自分一人だけの頭の中であれこれひねっているだけでは考え方や内容にどうしても広がりが乏しくなるので、貴重な楽しい作業になっている。さて日本語の論理もしくは日本語文章作法ということでいうと、起承転結という表現の他に序破急という言葉もよく使われるようだ。学生時代に教養科目で能学の授業を履修したこともあり、個人的には「序破急」とか「秘すれば花」といった表現にはとても親しみがある。これらの表現は日本語の「論理」とか考え方を示した典型的なものとして一応考えることができるであろう。一方で、欧州の「論理」としての典型は何であろうか。筆者は、それは「弁証法」ではないかと考えている。欧州文明の水面下にあるものはキリスト教と哲学の二つであろうが、弁証法はそのうちの哲学における基本的な考え方ではないかと思う。「テーゼ」、「アンチテーゼ」、「ジンテーゼ」。なにか、起承転結の起承・転・結や序・破・急に通ずるものを感じないだろうか。

さて再び本題。グーグルで検索すると、起承転結だけでなくこれと序破急とを並べてテーマにしたサイトが結構ヒットする。中には、起承転結はくだくだするのでブログには向かないと述べた文章もある。実際、当ブログの投稿を読んでその感想をくれたある親しい友人から、もっと短くしなければダメと言われたこともある。ただそうだとすると、起承転結で書くことを基本にしている当ブログは「ブログ」というカテゴリーには入らず、看板をかけ直す必要があるということになってしまう。例えば、ブログではなく雑文サイトといった感じで。。。。もっとも、「ブログ」という言葉の定義にも様々な見解や幅があるだろうから、こだわらなくてもいいのかもしれない。目に止まること、読まれることを主な目的として書かれているものだけがブログということでもないだろう。今自分がやっていることは基本は自分のため。その上で読んでいただける読者がつくのであればよりうれしいというスタンスでやっている。将来ウッチ郷土史の翻訳がある程度まとまったら別のアプローチをトライすることも考えてはいるが、いずれにしても目に止まることだけを目的にした文章を投稿していくつもりはない。地元の人達に日本語を教えながら自分も日本語の見直しをする、日本の人たちには地元ウッチの歴史を日本語で紹介していく。そのツールであるこのサイトの意味がなくなることは当分ない。

(了)

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■日々つれづれ(2017-05-31)

今回の投稿は、イラスト付き歴史百科の翻訳という当ブログのメイン・テーマにちなむ投稿である。以前、同様の趣旨で現在少しづつ翻訳している歴史百科第三巻の目次を概観した投稿をアップしているが(ここ)、今回は、最終目標である第五巻までの内容を概観するということで、編者のGrzegorczyk氏による各巻の巻頭言を改めて通して見てみることにする。第三巻については今年中に翻訳のめどをつけようと頑張っているが、第四巻、第五巻となると、そもそも翻訳が成るのかどうか正直覚束ないところもあって、ここで一度全体を見通しておこうというのが本投稿のきっかけである。

(第三巻)当巻で対象となる時期は、ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間であるが、ウッチ市の発展に決定的に関与するのはそのうちの数年間である。プロイセン領時代でも、ワルシャワ公国時代でも、小農村に新たな息吹の表れはまだなかった。当時は、Zgierz(ズギェーシ)とStrykow(ストゥリクフ)の近くに横たわる農村という扱いだった。動き始めたのは、いわゆるポーランド立憲王国時代に入ってからである。事実上5年間でウッチ市の将来の運命が決定された。この時期にウッチ市の基礎ができ、その発展の主要な方向性が示された。ちなみに、1820年にマゾフシェ県委員会の長Rajmund Rembielinski(ライムンド・レンビェリンスキ)がウッチに姿を現した時の人口は800人ほどで、現在の旧市街に相当する地区の世帯数は120だった。ウッチには1822年まで外国人の手工業者や工場主は見当たらなかったが、その5年後ウッチにはまったく新たな状況が出現していた。旧市街は拡張されて新市街が生まれ、また市南部にはLodka(ウトゥカ)と呼ばれる居住区が誕生した。後者にはドイツ、チェコ、シロンスク、そしてヴェルコポルスカからの植民者が引き入れられ、1820年代の終わり頃には約5千人がウッチに入植していた。新市街には織物業に従事する人々が、Lodka居住区には亜麻織物や綿織物に従事する女工を含む職工達が入植した。また元の旧市街にはユダヤ人街が生まれた。こうして、主としてRajmund Rembielinskiの働きで、ほんの数年間で新たなウッチ市が誕生した。我々は、彼の記念碑を建ててもよい程の功績をRembielinskiに負っていると言えよう。

(第四巻)当巻の巻頭言では、19世紀後半のウッチにおける出来事の目撃者であるOskar Flattの記述、すなわち1853年に発行された同氏の著書『ウッチ市について』から引用させて頂くことにする。同書は数度にわたりリプリントされているが、にもかかわらず広く知られているとは言えない。同書は我がウッチ市について書かれた最初の書であるし、その記述に触れることは意味あることと思う。Oskar Flattは書いている。「国中見回してもウッチ市ほど産業の恩恵を受けている都市はないのではないだろうか。産業のおかげで、完璧な忘却と虚無から、発展と富の蓄積がこれほどの水準にまで高められた都市、突如として産業による活力が現れ出た都市、一言で言えば典型的な産業都市以上の都市。。。。ウッチは綿織物産業で我々の先頭に立っており、その発展自体と、その当初からその後の過去30年間にその産業活力が示した弛まず変化するテンポによって、特別な注目を浴びている。」

(第五巻)本巻ではいよいよ19世紀後半の時期に入る。この時期にウッチ市はダイナミックな発展を遂げ、ウッチ市には織物産業の一大センターが建設された。もちろん、これまでの巻で記述されてきた出来事や事実でも明らかなように、変化の速度とダイナミズムが記録的なものであったとはいえ、すべてが一時に成ったわけではない。確かに、18世紀末から19世紀半ばにかけてウッチ市の人口は100倍に跳ね上がった。それでも、当時のウッチ市の人口は小都市に数えられる規模の約2万人に過ぎなかった。その後10年毎に平均2倍の速度で人口が増えていく。1860年代には4万人、1870年台には8万人という具合で、世紀の境目には30万人超に達した。人口の増加が5千人から1万人の規模であるうちは都市のステータスに実質的な変化はない。しかし、増加が数万人から数十万人の規模となるとそれは質的な変貌を意味し、ウッチ市は小都市から大都市に移行した。さらに言えば、わずか30年から40年の間にウッチ市は大工業都市に変貌した。これは言うまでもなく特筆すべき現象である。そして、まさにこの変化の第一波は本巻で扱う1860年代になされたのである。それは何よりも、ウッチ市の絶え間ない拡大と産業の機械化であり、製造部門における大工場の出現であり、Karol Scheiblerを頂点とするウッチ・ブルジョアジーの発生であった。同時にそれはまた、社会不安と暴動の時代であり、愛国的蜂起の時代でもあった。しかし、こうした事件でブレーキは掛かったものの、ウッチ市という巨大な機械は活動を止めることはなかった。本巻では、いわゆる大ウッチ市建設の歴史が引き続き記述されていく。それは、巨大な運命と資本の都市、なによりも苦難な労働に従事する都市の、生き残りをかけた闘いの歴史であった。「Piotrkowska 104」 編集長Arkadiusz Grzegorczyk

上記のうち第三巻と第五巻の巻頭言については再掲であるが、第四巻の巻頭言は今回翻訳したものである。その過程で、このイラスト付き歴史百科の基本文献にも挙げられかつしばしば引用されているOskar Flattの著書を電子版で手に入れることができたことは大きな収穫であった。

最後に、あまりきれいに撮れていないが、ピョートルコフスカ104番地の近影写真を以下載せて置く。イラスト付き歴史百科の編者であるGrzegorczyk氏のオフィスは、写真で見えている入り口から中庭に入って真っ直ぐ行った、市役所の建物のなかにある。この百科を日本語に翻訳してブログに載せることを快諾くださったGrzegorczyk氏にここで改めて感謝の意を表しておきたい。

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-2)

第四章 ダイナミックな発展の端緒(承前)

1.1820年 – 新生ウッチのスタート

ウッチを産業中心地に再編成するという計画のうち初期のものは、地域社会の中枢からあらわれた。すでに1815年に、ウッチ市長Szczawinski(シチャヴィンスキ)が上層部に具申している。しかし、一連の決定(写真28)がポーランド立憲王国総督によって発せられたのはようやく1820年9月18日のことで、1820年7月にRemwielinski(レンヴェリンスキ)が騎馬でこの地域を視察し、その結果が精査された後のことであった。その決定に基づき、紡織関連の集落がウッチに生まれることになる。ウッチのみならず、マゾフシェ県に属するDabie nad Nerem(ドンビェ・ナド・ネレン)、Gostynin(ゴスティニン)、Przedecz(プシェデチ)、Zgierz(ズギェシ)にも同様の集落が生まれることになった。

<ウッチ以外にも、マゾフシェ県に属する以下の都市も産業都市に指定された>


(写真24)ズギェシ


(写真25)ゴスティニン


(写真26)プシェデチ


(写真27)ドンビェ・ナド・ネレン

前述したレンヴェリンスキは視察後に報告書を作成したが、その中で当時重要とされた以下のような産業立地条件を挙げて、ウッチに紡織関連の集落を開設する旨の決定を下すべきであるとしている。

ー ウッチの特徴である市後背地に広大な市有地が存在すること;
ー 水量豊かで流れの早い川や小川があり、また既存の揚水装置や、撹拌、圧縮、染色を行う施設への転用が容易な水車なども存在していて、水利条件に恵まれていること;
ー 建設資材、特に木材やレンガなどを安価で調達することが容易であること;
ー 街道沿いに立地していること;
ー すでに入植している入植者や手工業者、とりわけガラス職人、紡織工などが存在していること;
ー それまで発展が遅れていた地域の振興を目指せること

以下、1820年に作成されたレンヴェリンスキの前述報告書の一部を紹介しよう。

(。。。。)ウッチ市。ズギェシと同じくピョートルクフ街道沿いにあるが別の川に面していて、深い森に包まれた、そしてそのおかげで利益を生み出しそうなウッチ市を訪れた。三年前、川の水嵩が増し、ほぼ市中にあった水門付きの政府管轄水車が流されてしまう事態が発生したが、その同じ場所に良質の撹拌施設やレンガ工場を建てることができるだろうし、手作業で建設作業につく人々に価格価値がない近隣の直轄森から運ばれる木材を無料で供給することができる(。。。。)

レンヴェリンスキは早くも三年後、新市街に集落が建設されていること、Grobelny(グロベルヌィ)水車があった場所に撹拌施設が建設され始めたことを報告している。


(写真28)決定

<歴史百科編者によるコメント>
ポーランド立憲王国では、Staropolski(スタロポルスキ)工業地帯を除き、農業が主体だった。とりわけ、ラシャや亜麻布を用いた繊維製品の不足は顕著であり、そこから産業のこの部門(繊維部門)の優先順位が高くなったのである。。。。。繊維製品の不足は、ポーランド立憲王国がいわゆるヴェルコポルスカの繊維工業地帯から切り離されことも原因となり、ポーランド中央部が必然的に消費市場となった。ポーランド立憲王国の農村では小物の繊維製品に特化されたが、ラシャその他の繊維製品の需要を満たすことができないほどであった。内需(軍用、民生用)の他に、繊維産業の発展に好条件をもたらす重要な要因になったのは、1821年にロシアとの協定が締結され特恵関税が導入されたことにより、ロシア帝国への輸出の可能性が増大したことであった。また中国向けラシャ製品の輸出に対するプロイセンへの優遇措置が撤廃されたことも大きく影響した。


(写真29)オスカー・フラットの記述から


(写真30)ザヨンチェク公、ナポレオンの敗北後ロシア皇帝アレクサンドルI世からポーランド立憲王国の総督に任命される、在位1815−1826


(写真31)ドゥルツキ=ルベツキ公、ポーランドの政治家、1821−1830ポーランド立憲王国財産相


(写真32)モストフスキ伯爵(1766−1842)、ポーランド立憲王国内務相

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし
(了)

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■ 日々つれづれ(2017-05-11)

うれしいことに、最近当ブログを訪問くださる方が増えてきた。当ブログの切り口は2つあって、筆者が住んでいるポーランドの知られざる大都市ウッチ市の歴史を、ポーランド語を解さない方々のために紹介するということの他に、もう一つのテーマである、いわば第一のテーマとは逆方向の作業となる、当地の方々に日本語を広めるという切り口があるからだろうと想像している。

ただそうだとすると、自分がやっているように、日本語教授に関する情報を求めて訪れる方が増えてきた可能性も大いにある。大学では日本文学を専攻したとはいえはるか昔の話であるし、日本語教授法を専門的に学んだわけでもない筆者が、ほとんどボランティアでやっていることについての感想を綴っているだけなので、あてが外れてガッカリという方もいらっしゃるかもしれない。そうした方々にはこの場でお詫びをしておきたい。

実際、2つのテーマの優先順位がこのところ逆転してしまった感がある。半年前に2つめのテーマ実現に着手してからすでに二度、ひらがなに関するワークショップもどきを請われて行っているし、近々また別のところで似たようなイベントの予定がある。すでに行った2つのワークショップのうち一つは、当地の第二高校で行われた日本デーで、もう一つは当ブログでも紹介したウッチ大学で行われた日本デーである。今度は中学生を対象に話しをするということで、今から何を話そうかと、ない知恵をしぼっている。

当然、授業の準備もやらなくてはいけないので、「主夫」をしながらのワークロードはそこそこのレベルになって退屈しない。もともと企業での職業生活を早めに切り上げたのも、単にのんびりしたいというのが理由ではなかったし、2つのテーマはともに、「趣味」であるパソコンを使うことにリンクしているので、むしろ喜んでやっているという方が実態に合っている。

第一のテーマである歴史については、ソ連と東欧圏の崩壊をいわば「歴史体験」して、これにややリンクした形でポーランド移住を実行してからずっと考え抜かれてきたテーマで、目指す方向などは自分の中で明確になっている。一方、第二のテーマについてはようやく少し見えてきたというのが正直なところである。

これまで、恩師や友人たちの目に見えない様々な後押しや、家族の援助があっていろいろな語学に手を染めかつ生業の糧ともしてきたが、企業人生を終えるときに正直感じていたのは、「いろいろやったけどみんな中途半端だったな」という思いだった。それでも言語というテーマで何かやりたいと考えていて消去法で残ったのが日本語。もちろん、手軽にできると思っていたわけではない。それだけ、自分が学んだ「外国語」のレベルの低さ、「使えない」という思いを身にしみていたということだと自分の中で整理している。

日本紹介ということですぐに思い浮かぶのは、やはり書道や華道(生け花)、あるいは折り紙といった日本の伝統文化であろう。当地ウッチ市に限定して見回してみても、こうした仕事については長い伝統があるし、多くの人が手がけている。日本語学習という点に限定してみても、そうした伝統文化に惹かれてという学習者が多い。また若い人たちでは日本のアニメに惹かれてという人も増えているようだ。

日本の伝統文化やポップカルチャーを広めることはもちろん有意義なことだと思う。ただ、大部分の日本人にとり日本語は意識することさえない生活の一部であって、伝統文化やポップカルチャーに直接結びつくものではない。一つの例として、自分のことを考えてみる。ポーランド語を日常使っているが、考えたり、その考えを文章にしてブログに投稿したりするのは日本語だ。そもそも、自分は伝統文化やポップカルチャーには縁が浅いし、どう考えてもその紹介者の資格があるとは思えない。今の自分は、できないことをできると思い込む必要からはすでに自由になっているし、なにより自分が学んだ「外国語」のことですでにそのような思い切りを経験している。

繰り返しになるが、日本の伝統文化やポップカルチャーを紹介することに意味がないと言っているわけではない。伝統文化やポップカルチャーに「直接」結びつかない、ごく「普通の日本語」を教えるという日本語教育があってもいいのではということである。もちろん最終的には学習者の思いが優先されるわけであるが。。。。

(了)

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■ 梅田芳穂さんとウッチ(その2)

梅田さんについては、ウッチにもゆかりの日本人ということで昨年七月に一度取り上げ(ここ)、すぐにでも続編を書くつもりでいたのであるが、すでに十ヶ月もたってしまった。昨年の投稿をアップした直後は、投稿の手がかりになったポーランド語の記事にある「語り手」のキンガさんに自分も直接会って話しを聞くつもりでいた。それが実現せぬまま今日まできてしまったのである。キンガさんは、筆者が住んでいる建物から2つほど先の建物に住んでおられ、近いが故にいつでも会えると思い延び延びになってしまったというのが実際のところなのかもしれない。

それが今日ようやく実現させることができた。事前の約束もせずに訪ねて行ったのであるが、暖かく迎えていただき、お菓子とお茶をご相伴させていただきながらの歓談となった。もとより、梅田さんの詳しい伝記を書くなどというような壮大な目的があるわけでもなく、聞き取りのための準備をしていたわけでもないので、新事実の発見というようなことはなかったが、前回投稿の元になった記事で回想されている梅田さんの思い出話を確認させていただくことができた。


キンガさんとそのご夫君

著作権のことを考えて前回の投稿には記事の翻訳は含めないようにしていたのであるが、今回キンガさんから直接当時の話しを聞くことができたし、以下にウッチの梅田さんに関する部分の拙訳を掲げておく。

「Yoshiho(梅田芳穂さんのこと)は1963年にワルシャワに到着しました。荷物の中には、亡くなったお父上(梅田良忠教授のこと)の遺灰の入った骨壷もありました。遺灰はポーランドにとの故人の希望があったのです。私達の両親はウッチでYoshihoを迎えることなっていたので、子供の私達がYoshihoに会ったのも、私達が休暇を過ごし、同時に発掘現場でもあったSzarpskoに行っていた両親が帰ってきたあとのことでした。」

「かわいい、色黒の、心なしかビクついた感じの、13歳の少年でした。ポーランド語もわからず英語もさほど得意ではなかったYoshihoは、すぐに私達の心を捉えてしまいました。この頃のことは彼にとって苦しいというよりも恐怖に似た体験だったのではないかと思いますが、陽気な性格で、エネルギーに溢れかつ行動派であったYoshihoは、それが表面に出てくることはあまりありませんでした。私達と一緒に松林を駆けまわり、Pilica川で水浴しといった具合です。Yoshihoがトンボ返りや反転をした時は私達を本当にびっくりさせたものです。自分の勇気や能力があることを誇示することに意を用いていたようで、私達をいつも冷や冷やさせていました。」

「私達の父は当初からYoshihoの教育に本腰を入れていました。Yoshihoに、Wieslaw Kotanskiのポ日辞書から毎日ポーランド語の単語を10づつ覚えるようにといつも要求していました。これを助けたのは、Yoshihoとほぼ同じ年頃の妹のEwaでした。Yoshihoはこの勉強にあまり熱心ではなく、そのせいか私達が初めて知った日本語の言葉は「禿げた頭」という言葉でした。Yoshihoは、私達の父が単語の習得具合を見にやってくると、父のことをこの日本語でしかも大声で呼んでいたからです。私達の父はこれが気に入っていて寛容でしたが、妥協はしませんでした。というのも、バカンスが終わるとYoshihoはウッチの高等学校で勉強を始めることが分かっていたからです。Yoshihoのお気に入りはStobnicaでのバカンスで、Pilica川や松林も気に入っていました。」

「Yoshioは、Sienkiewicz通りにあるウッチ第3高等学校で勉強を開始します。第1学年は教室で授業を聴いているだけでしたが、それでも少しづつ勉強に慣れていき、後には優等生になっていました。それでも学校では苦しい時期を体験したようです。私達の母はある日、学校から帰った彼が壁に向かって座り、何度も英語でNo Hope, No Hopeと繰り返しているところに出くわしています。幸いこれはまもなく過ぎ去り、Yoshihoはクラスの重要人物になっていきました。Yoshihoは、当時ポーランドではほとんど知られていなかった日本製音響製品を日本から持ってきていて、その頃流行りだったビートルズ、ローリングストーンズ、赤いギターといった音楽グループの曲を録音することができたこともその理由の一つでした。」オリジナル:Grazyna Przanowska 氏署名の記事「かわいい子には旅させろというが。。。。」(2003年、出所未詳)


ウッチ第三高校

キンガさんとご夫君の思い出話には、ポーランドに居を移した他の日本人の方々のことも話題に上った。その中には筆者も旧知の方の名前も挙がっている。改めて周りを見回してみると、ポーランドにゆかりの日本人の中で梅田さんと同世代の方々はすでのその二世が社会で活躍している。北米や西欧諸国とは比較にならないながらも、共産圏時代を知らない比較的若い人たちもどんどんポーランドにきているようだ。梅田さんのお子さんの一人でご息女のHanaさんも日本舞踊の世界で活躍されている。実は、別の投稿に書いた、ウッチ大学経済社会学部とYakumogotoクラブとの供催で行われている今年の日本デーでそのHanaさんも踊りを披露され、筆者も言葉をかわす機会を持った。もしかしたら、このことがキンガさんからの聞き取りを自分に思い切らせるきっかけになったのかもしれない。

(了)

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■日々つれづれ(2017-04-11)

当ブログはWordpressのサービスを使って運営されているが、実は自分の日記もローカル・ベースのWPで管理している。WPとこれを支えるOSはいわばブログ運営の裏方で通常は陽の目を見ることはないのだが(笑)、一度くらいはそういうことがあってもいいだろうと思うし、このテーマで少し書いてみる。

OSは2010年からLinuxベースのものを使っている。元々若い頃からパソコンで暇つぶしをするのが好きでただのユーザーでは収まらないところがあったが、その(2010年)当時インターネット上でLinuxがGUIレベルでかなり使えるようになってきたという記事を目にすることが多くなり、思い切って手を染めることにした。随分長いこと使っているような気がするが、振り返ってみれば高々7年前の話しだ。もっとも、今時の7年はこの分野では相当のタイムスパンのようで、例えば7年前のパソコンはもう殆ど化石化してしまっている。もちろん、使って使えないことはないが、セキュリティー・リスクも相当高くなっているので、使える範囲はかなり限られる。特に、現在ではネットに繋がずに作業をすることは考えられないので、古いパソコンではこの点で相当の制限がついてしまう。

手を染め始めた当時は、その頃購入したネットブックを主に使ってLinuxの「勉強」をしていた。Debian系、Redhat系の様々なOSを次々とインストールしては消し他のOSをまたインストールするという作業の繰り返しだった。その過程で、CUIでも基本的なコマンドは使えるようになったが、本格的にCUIで作業をすることを覚えかつ使うようになったのはここ2年ほどのこと。その少し前に企業での仕事に区切りをつけて自宅を中心に生活するようになり、時間が取れる様になったことが主な理由である。もう一つの理由はWordpressに出会ったこと。今振り返ってみると、WPとの出会いは筆者のLinux歴の中でとても大きな転換点になったと思う。最初にしたことは、それまでテキスト・ファイルで書き溜めていた日記と自分の人生40年を振り返った半生記をローカル・ベースのWPに移し替える作業だった。この過程で、いわゆるLAMPとphpMyAdmin、そしてMySQLの初歩を身につけることができた。しばらくは、このローカル・サーバーでWPを使っていたが、そのうちWP専用のサーバーを別に立てることを思いつく。前述した32ビットのネットブックにインストールできるOSがゼロではないが大分少なくなってきたし、これをサーバー用途で使えば古いマシンの再利用もできると考えたわけである。ローカルサーバーを、専用とはいえリモートサーバーに移すということで、WP関連だけではなくLinux全般でも随分いろいろなことを勉強させてもらった。ここでも同じプロセスを廃しては元に戻すという作業を繰り返していて、その都度各モジュールのバージョンアップに伴う新たな状況に直面して更なる勉強を強いられはしたが、今のところなんとか使えている。

とはいえ、Linuxをベースに作業をしている上で問題点がないわけではない。WPを使うようになってからOSの頻繁な入れ替えはしないようになったが(WEBサーバー内にあるデータのバックアップとレストアの作業が結構面倒くさい)、それでもつい最近デスクトップマシンのOSを入れ替える事態になった。これまで大半はDebian系のOSを使ってきたのだが、それほど前のことではなく比較的最近のアップデート後にsambaが使えなくなってしまったことが主な理由である。筆者のLinuxの知識や情報量は、プロのそれと比較すれば間違いなく貧弱なレベルであることは明らかであるが、それでもDebianとアップデート後のsambaとの間に根本的な問題があることは察しがつく。ということで今は、サービス期間が短いのを承知でRH系のOSを使っている。Gnomeの標準インプットメソドにも問題点はあるが、これは次回機会があれば書いてみたい。

(了)

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