ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)

目次

巻頭言 編者から読者へ(ここ)
第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺(ここ)
第二章 プロイセン領時代のウッチ(ここ)
第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ(ここ)
第四章 ダイナミックな発展の端緒(ここ)
第五章 旧市街の設定(ここ)
第六章 ダイナミックな発展(ここ)
第七章 新市街の建設(未訳)
第八章 最初の産業ブーム 1823-1824(未訳)
第九章 新たな産業植民(未訳)
第十章 三番目の市庁舎(未訳)
第十一章 ピョートルコフスカ通りの誕生(未訳)
付録 「ピョートルコフスカの乙女」伝説(未訳)

巻頭言: 編者から読者へ

第3巻で対象となる時期は、ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間であるが、ウッチ市の発展に決定的に関与するのはそのうちの数年間である。プロイセン領時代でも、ワルシャワ公国時代でも、小農村に新たな息吹の表れはまだなかった。当時は、Zgierz(ズギェーシ)とStrykow(ストゥリクフ)の近くに横たわる農村という扱いだった。動き始めたのは、いわゆるポーランド立憲王国時代に入ってからである。事実上5年間でウッチ市の将来の運命が決定された。この時期にウッチ市の基礎ができ、その発展の主要な方向性が示された。ちなみに、1820年にマゾフシェ県委員会の長Rajmund Rembielinski(ライムンド・レンビェリンスキ)がウッチに姿を現した時の人口は800人ほどで、現在の旧市街に相当する地区の世帯数は120だった。ウッチには1822年まで外国人の手工業者や工場主は見当たらなかったが、その5年後ウッチにはまったく新たな状況が出現していた。旧市街は拡張されて新市街が生まれ、また市南部にはLodka(ウトゥカ)と呼ばれる居住区が誕生した。後者にはドイツ、チェコ、シロンスク、そしてヴェルコポルスカからの植民者が引き入れられ、1820年代の終わり頃には約5千人がウッチに入植していた。新市街には織物業に従事する人々が、Lodka居住区には亜麻織物や綿織物に従事する女工を含む職工達が入植した。また元の旧市街にはユダヤ人街が生まれた。こうして、主としてRajmund Rembielinskiの働きで、ほんの数年間で新たなウッチ市が誕生した。我々は、彼の記念碑を建ててもよい程の功績をRembielinskiに負っていると言えよう。

「Piotrkowska 104」 編集長 アルカディウシ・グジェゴルチク

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第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺

18世紀末のウッチでは、木材需要の好況とガラス工業の発展、そしていわゆる「オランダ人」植民者の波に関連して、都市部よりも周辺地域で経済的活況が見られた。

1.ガラス工業の発展

今日のウッチ市の領域内で最初に勃興した産業は、想像に反して織物ではなくガラスに関連したものであった。ウッチ及びその周辺では、木材が豊富にあり、また低価格であったことから、いわゆるポーランド分割の前からガラス工業が発達していた。18世紀半ばにはすでにLucmierz(ルチミェシ)村にガラス工場が存在しており、1780年代まで操業していた。Chojny(ホイヌイ)部落の近くにも、すでに第二次分割前にガラス工場が誕生していた。それは、現在の地名で言うとDabrowski(ドンブロフスキ)通り、Nizszej(ニースシェイ)通り、Broniewski(ブロニェフスキ)通りの周辺にあり、ガラス工場領内には50人ほどが居住していた。その後Kaly(カーウィ)村とSokolow(ソコウフ)との間にも工場ができた。また18世紀末にはRadogoszcz(ラドーゴシチ)で新たなガラス工場が立ち上げられ、ウッチからさほど遠くないところで複数の工場が稼働していた。世紀の変わり目にはまた、従業員用の住居が建設されてそこに62人が居住していた、かつてのRogi(ロギ)村にあったガラス工場と、 12戸からなるJagodnica(ヤゴドゥニッツァ)ガラス工場も操業していた。当時としてはかなりの規模の工場であり、数十人規模の従業員を抱えていた。これによってウッチ周辺の村々では、後に初期の織物工場立ち上げに際して意味を持つことになる或る基盤が生まれる。とりわけ競争に敗れて没落した工場で、領内の労働者たちがそこに留まったことは大きな意味を持った。

2.植民の活性化

農村のウッチが歴史の幕を閉じ、工業のウッチが活動を開始するのは1823年のことである。この年に、シロンスク、チェコ、ドイツからの、最初の手工業者と織物業者がウッチに顔を見せるからである。しかし、すでに第一共和国が存在した時代の最後の年々、ウッチ及びその周辺では経済と植民の或る種の活性期を経験しており、それは周辺部で特に顕著であった。例えば1760年のWolka(ブーウカ)では、 農園のほぼ3分の1が放置されていたが、1792年つまりこの地域がプロイセン領になる直前には、主として新たな入植者によって、ほぼすべてが入植済みであった。そしてウッチ周辺にはいくつかの新たな集落が形成された。それらの集落の土地所有者の中には自らの土地にいわゆる「オランダ人」植民者を呼び込む者が出てくる。こうした植民の活性化はヴェルコポルスカやポーランド中央の各地域でも行われた。文字通りオランダ人も含まれてはいたが、植民で重要な役割を演じたのはドイツ系で、ポーランド人が入植したケースもしばしばあった。開墾が要求される森林地区に入植した植民者達は多くの場合農奴制の枠外にあったが、その代わり地代を現金で支払わなければならなかった。第一共和国末期、現ウッチの領域内にさほど大きくない三つの植民集落が生まれた。そのうちの一つは、Chojny村に属する森林を切り開いた跡地に作られ、オランダ人のChojnyまたはDabrowka(ドンブルフカ)ないしDabrowa(ドンブローヴァ)と呼ばれた。この集落は現在のZarzew(ザジェフ)地区とChojny地区の境界にあった。1790年、 Mileszki(ミレシキ)部落の所有者であるJan Stetkiewiczは、森林を切り開いてできたWidzew(ヴィーゼフ)の東にあたる土地にささやかな植民集落を新設した。この集落は創設者の名をとってJanow(ヤーヌフ)と名付けられ、その位置は現在のLodz=Koluszki(ウッチ=コルシキ)間を走る鉄道の北にあたっている。1793年には三番めとなるZabieniec(ジャビェーニェッツ)植民集落がRadogoszcz村に属する森林地域に作られた。これは、現在の”Start”スタジアムの西に位置している。

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18世紀末にChojny領地、後のDabrowa集落にできたガラス製造工場

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ポーランド最後の王であるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1764-1795)

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1791年の五月三日憲法を採択した四年議会、ウッチからの代議員はおらず、 Sieradz(シェーラッツ)、 Wielun(ヴェールン)、Szadek(シャーデク)、Leczyca(ウェンチッツァ)、Kalisz(カーリシ)からの代議員がウッチ地域の利益を代表した

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第二章 プロイセン領時代のウッチ

1793年1月に行われた第2次ポーランド分割によって、ウッチ地方及びウッチはプロイセン領となり、Bucholtz大臣に率いられたワルシャワ部に組み込まれた。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム2世、第2次および第3次ポーランド分割の際のプロイセン王

1.新たな行政区分

分割条約に基づきプロイセンは、ウェンチッツァ県とシェラツ県の全地域を取得した。つまり同時に、ウッチとその周辺のすべての村落が外国の支配下に入ったわけである。ウェンチッツァ、ラヴァ、ピョートルクフ、シェラツなど、併合した国によっていわゆる南プロイセン州として新たに組織された地域全域に、その守備隊が置かれた。新たな支配者達は、1793年にポーランド中央部を取得した後直ちに新たな行政区分の導入を開始した。現在のウッチのほぼ全域は、1796年時点ではワルシャワ部に属する新設のズギェシ郡の一部であったが、南西の一部周辺地域はカリシ部のシャーデク郡に組み込まれた。この区分はワルシャワ公国時代でも変更はなかった。

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第1次ならびに第2次ポーランド分割の概略地図

2. プロイセン土地調査

恐らく1793年末には、あるいは1794年年初にかけてには、プロイセンの支配者達は南プロイセン州の領域にあるすべての都市の経済と人口に関する情報を入手していた。プロイセン土地調査と呼ばれる特別なアンケート調査に対して各都市の市長達が回答したものであった。その後、プロイセンによる支配が本格化した後改めてプロイセン政府は文字通りのドイツ的几帳面さで各都市で視察を行った。当時の市文書によると、ウッチの所有者はルィビンスキという名のクヤーヴァの司教と記録されている。また当時の資料によると、ウッチにはもっぱら農業で生計を立てている農奴が190人いた。現在はOgrodowa(オグロドーヴァ)通りに移転しているグールキ・プレバンスキェの聖ヨセフ教会と呼ばれた小さなカトリック教会があり、木造を含む「家」が44戸あった。そのうち11戸は完全な陋屋であった。4箇所の公共の井戸があり、同数の私的な井戸があった。水車も一つあった。興味深いのは市場が2つあったことだ。一つは市営(スタールィ・ルィネク、旧市場)で、もうひとつは教会の教区司祭の所有になるもの(ワゲヴニェキ通りと教会広場との角)だった。市区域に18の広場があり、穀物倉が44あった。これらの穀物倉は現在のZachodnia(ザホードニャ)通りの一部、Drewnowska(ドゥレヴノフスカ)通りとOgrodowa(オグロドーヴァ)通りに挟まれた辺りに集中していた。手工業者では、皮なめし工が二人、金具取り付け工が一人、仕立屋が一人、8名!の車輪工、靴職人と大工が一人づつ。もっとも、これらの職人たちは農園も所有していた。ウッチ市民が支払っていた税金としては、住居税236ズロチ、消防税366ズロチ、皮なめし税292ズロチがあった。クヤーヴァの司教達は小都市毎に年間450ズロチを地代として、ウェンチッツァのスコラ哲学者は年間300ズロチを納めていた。ウッチ市庁を構成したのは、市長、4名の議員そして書記であった。歴史家の中には、44戸で人口191人という当時のプロイセンのアンケート資料は若干過小に過ぎると評価する人達もいる。1798年のプロイセンによる資料ではウッチの人口は369人で、1800年の資料では2倍以上の増加を示す428人となっているからである。もしかすると、市当局は新たな税への不安から自らが提示する人数を少なく申告し、また教会の教区司祭(例えば、グールキ教会)やスターラ・ヴェシの邸宅を申告しなかったのかもしれない。そう想像させるのは、ウッチおよび教区司祭領とその邸宅には1793年時点で約250人が住んでいたからである。

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19世紀初頭、ワゲヴニェキ通りと教会広場との角の辺りに教区司祭が所有する市場があった

3.市制権喪失の危機

原則的なドイツ人達はその貧困の度合いを勘案して、„civitas pauperorum”即ち市民の貧困化の原則に基づき1794年にウッチの市制権を剥奪する計画であった。ウッチを、市ではなく農村に変更するというこの計画は、ウッチ市が農村的な性格を備えた都市であり顕著な経済の活性化の展望が欠如していることをその根拠としていた。しかしその後、ベルリンから送り込まれた行政部はこの地域の著しい経済的可能性に着目し、この問題が再び取り上げられることはなかった。

4.教会財産の世俗化

ヴウォツワーヴェク司教区財産の世俗化が命ぜられ1798-1806年の間に実施された。この時期にウッチは段階的にクヤーヴァの司教への依存から脱し、 O. Flattによれば1806年にプロイセン政府の所有となった。そして翌年にはワルシャワ公国の版図に入ることになる。

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O. Flattによる文書の断片

5.ドイツ人入植者たち

1793年の第二次ポーランド分割後、プロイセンの支配者たちはウッチ周辺の人口が過疎であり、この地域への大掛かりな植民が可能であることに着目した。そして、ウッチ周辺にいくつかのドイツ人居留地をおく計画が立てられた。Dabrowa(ドンブローヴァ)、Zabieniec(ジャビェーニェッツ)、Janow(ヤーヌフ)などすでに創設されていたいわゆる「オランダ人」居留地は数に入っていなかった。最初の居留地はEkonomiaLaznow(エコノミヤ・ワズヌフ)の周辺に作られた。森林を開墾してBruzyca(ブルジッツァ)またはLaznowskaWola(ワザノフスカ・ヴォーラ)といった村々が作られ、プロテスタント教会、郵便局、店屋など、植民者たちに必要な施設も供給されていた。そこにはポーランド語を解さない、とりわけバンベルク近辺出身の生粋のドイツ人が入植した(土地の農民たちはバンベルグ人達と呼んだ)。入植の権利を付与された植民者たちは、6年間地代の支払いが免除された。耕作に適した広大な土地がうまれた。建設された村は多くの場合レンガ造りであったが、市が開かれる中央広場から走る道沿いに小屋が点在しただけの小規模な村もあった。 ウッチ周辺のStoki(ストーキ)、Mileszki(ミレーシキ)、Bedon(ベドン)、Chojny(ホイヌィ)といった私有地の所有者たちが、自己の森林地を進んで廉価で売り渡したことは興味深い。人の住まぬ、文字通りの狩猟地であったウッチ周辺は、1799-1816にはすでに整備された賃貸借地の村落に変わっていた。計画的に作られたな六角十字路の村落Nowosolna(ノヴォソルナ)はこうして生まれ、周辺の Konstantynow(コンスタンティヌフ)は発展し、またドイツ人植民者や、主として機織り工からなる手工業者が、Zgierz(ズギェーシ)やOzorkow(オゾルクフ)に入植していった。

6.ノヴォソルナ

新たな植民の主要な地点になったのは、将来市制権を持つ都市となる計画であった SulzfeldもしくはSalzfeldという名の広大な居留地であった。この居留地は後にNowosolna(ノヴォソルナ)という名を与えられる。それまで森林地帯であった未入植の土地に、非常に特徴的な配置を持つ入植地が作られた。この配置は今に至るまでその形を留めている。中央広場から8つの道路が放射線状に広がり、これらの道路に沿ってドイツから来た入植者達が住む家が建てられた。Nowosolnaは早いテンポで発展し、プロイセン時代の末期には戸数及び人口でおそらくウッチを追い越していたと思われる。いずれにせよ、この居留地は1823年までには、市制権は持たないものの、ウッチ市の近郊にある諸都市よりも大きな都市になっていた。

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プロイセン植民者が設計したノヴォソルナの特徴のある放射線上の道路配置

7.最初の学校

ウッチには長い間学校がなかった。プロイセン時代の末期、ウッチ市民あるいは同時に占領行政府の発案により、学校立ち上げを前向きに検討することが決定された。1806年、この目的による募金がウッチ市で行われ、教師志望者達との交渉が開始された。1806-1807年の戦争で関連するすべての活動が中断されたものの、1808年10月中旬には学校開設にこぎつけた。しかし、開設の当初から様々な困難が積み重なった。というのも、市民達は教師達に種々要求を出して彼らの維持に必要な資金を供出することに積極的ではなかったからである。一方教師達は行政府の支持を模索した。紛争は激化した。最終的にウッチ市民達は資金供出を拒否し、子弟を学校に送ることを止めてしまった。こうして、最初の学校は機能を停止してしまう。

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1808年開校のウッチ最初の学校、現在シテルリング通りにあるミツケヴィチ記念第1小学校としてその伝統を今も維持している

8. アントニェフ、オレフフ、アウグストゥフ

プロイセンの占領行政府はさらにいくつかの居留地を設置した。おそらく1790年台に既にKarkoszki(カルコシキ)、Antoniew(アントニェフ)そしてOlechow(オレフフ)といった地域に居留地が設置された。これらのうち一番目のKarkoszki居留地は、従前からカルコシキと呼ばれていた森を開墾して作られた。建物といってはわずか数戸で、現在のDworzec Fabryczny(ファブリチナ駅)とul. S. Jaracza(ヤラチ通り)、ul. G. Piramowicza(ピラモヴィチ通り)に挟まれたエリアにあった。一方、アントニェフ居留地ははるかに規模が大きく、場所は現在のul. Wojska Polskiego(ヴォイスコ・ポルスキェ通り)、ul. Strykowska(ストゥリコフ通り)そしてul. Telefoniczna(テレホニチヌィ通り)に挟まれたエリアにあった。かつて17世紀には無人のLipinki(リピンキ村)と呼ばれていたところである。プロイセンの資料によると、この居留地の1799年の人口は257人(1820年台前半には800人を超え、ウッチもしくはノヴォソルナに次ぐ規模となる)であった。 アントニェフの住民の大半は手工業、とりわけ織物工業に従事していた。現在のウッチ市の領域にある最初の手工業「村」の一つもこのエリアにあった。三番目のオレフフ居留地は中規模の居留地で、現在のOlechow(オレフフ)とOlechow Maly(小オレフフ)のエリアにあった。やや遅れた 1798-1802年には、当初 Friedrichshagenと呼ばれた居留地が生まれた。この居留地はワルシャワ公国時代にAugustow(アウグストゥフ)に改称される。当初十数戸の小規模な村であったが、現在地名もそのままの郊外が広がっている。プロイセンの占領行政府の指示で、新たに設置された村々にはドイツ人限定で入植が行われるはずであったが、実際はこのプロイセン色が出ていたのは、ノヴォソルナとオレフフだけであった。アウグストゥフ、 アントニェフ、特にカルコシキでは住民の民族構成は雑多であった。

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かつてのカルコシキ居留地があったエリア、同名の森の一部は鉄道駅の脇にあるモニューシコ記念公園として残っている

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第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ

1807年、ウッチはティルジット講和条約に基づいて新たに興ったワルシャワ公国の版図に入った。そこではナポレオン法典が適用された。

通常、ワルシャワ公国時代にはナポレオンによる軍事的、政治的活動を主因として経済が停滞し始めたと思われている。にもかかわらずウッチでは1807-1812年の数年間は引き続き発展の期間であり人口も増加した。このことは、当時の人口統計でみることができる。1808年の人口は434人であったのに対し、1810年のそれは514人であった。

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1809年、旧市街公園沿いのWolborska通りが屈折する辺りにできたウッチ最初のシナゴーグ

1.ユダヤ人の流入

三国分割後の時代におけるウッチの人口増加は、ユダヤ人の急激な流入がその大きな要因となっている。1793年のウッチではユダヤ人家庭は3戸、計11人を数えるに過ぎなかったのに対し、1809年の人口調査ではモーセを信奉する人々の数はすでに98人となっている。三国分割以前にユダヤ人による植民への規制はなかったが、それでも最初の植民が行われたのはようやく18世紀初頭のことだった。1793年の資料によると、ユダヤ人の比率は6%ほどで、1808年は13%だった。市の人口総数も並行して増加している。1798年のウッチの人口は369人、1808年は434人、1810年は514人だった。もっとも戦争と伝染病のために1815年には331人に減少している。ウッチ最初のシナゴーグは、1809年、旧市場角のDworska通り(現在のWolborska通り)沿いにできた。屋根板で覆われた木造の建物で、新たにウッチに設置されたLutomierska(ルトミェルスカ)郡に帰属するカハウによって建てられた。敷地は当時(プロイセン領)の市長Jozef Aufschlag(アウフシラグ)から165ズロチで購入された。

2.市の建設

1793年のウッチには約50の木造家屋があり、1810年にはそれが108になっていたことを改めて思い起こしておきたい。おそらくこれらの家屋はすべて平屋で、新たに建てられた家屋は十分にゆとりがあり、藁葺とはいえ既存の家屋に比して堅固な作りになっていたかもしれない。当時のウッチには目を見張るような建物はほとんどなく、数えるほどだった。一つは今も残る18世紀にできたカトリック教会(場所はOgrodowa通りに移設)。典型的な田舎の教会で、1820年には極度に悪い状態(教会の屋根はほとんど落ちてしまっていた)にあった。次は避難所つまり病院の建物。ピョートルコフスカ道路沿いにあり、18世紀から19世紀にかけて主任司祭J. Mejer(メイェル)とこれに続くCzerwinski(チェルヴィンスキ)によって建てられた。この建物は後に居酒屋に変わった。そして正に居酒屋。これはプロイセンの当局によって市場に建設された。いくつかの建物についてはその寸法に関する資料が今も残っている。避難所後の「主任司祭の」居酒屋は長さ約18メートル、奥行き約9.5メートル、「当局の」居酒屋は長さ22メートル、奥行き6.5メートルで、隣接の馬小屋はそれぞれ11.5メートル、6.5メートルであった。当時のウッチには舗装道路は一つもなかった。

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公国の君主制はザクセン王国との同君連合で、ポーランド王アウグスト3世サスの孫であるザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世が公国の王となった

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かつての時代の証人であった唯一の記念物、Ogrodowa通りにある現在の聖ヨセフ教会、20世紀初めにグールキ・プレバンスキェから移転された

3.地方行政府

ワルシャワ公国時代、さらに続く立憲王国時代に市当局体制に関し重要な変更がなされた。行政府には、非常に広範な権限を持つ当時の市長の他に、裁判員と市会評議員が任命された。ただし、後者の権限は勧告のみに留められた。1809年2月23日付の市行政府に関する政令に基づき、1810年11月ウッチに、それまで行政府を治めていたSzymon Szczawinski(シモン・シチャヴィンスキ) が市長に、名誉裁判員にS. Depczynski(デプチンスキ)とS. Gozdowski(ゴズドフスキ)が、また W. Drewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)、M. Jezewicz(ヤジェヴィチ)、M. Kudlinski(クドゥリンスキ)、A. Lipinski(リピンスキ)、J. Pelzowski(ペゥゾフスキ)が市会評議員にそれぞれ任命された。ウッチ市にとり大きな意味を持つ1819年2月19日から1826年8月までの期間は、第四狙撃騎兵連隊の将校であったAntoni Czarkowski(チャルコフスキ) がウッチ市長の椅子についていた。

4.国民衛兵組織をめぐる争い

ワルシャワ公国時代、軍隊の補完組織である国民衛兵組織をめぐり、一部のウッチ市民と行政府との間で激しい争いが生じた。国民衛兵は戦時に市および周辺地域の秩序維持に当たることになっていた。この国民衛兵組織に、18歳から50歳までの男性が徴集され、自費もしくは市の費用で軍服と武器を整えることとされた。

1809年にオーストリアとの戦争が勃発すると、行政府は市長に対し、国民衛兵の然るべき支部をウッチ市に組織するよう指示を出した。装備は徴集された者達の拠出金によって購入された。市会評議員のPelzowskiとKuzielowiczを頭に仰いだウッチ市民の一団がこの義務に異を唱えたが、反抗は不発に終わり、首謀者達には制裁金が課された。その後かなりの時間が経過しかつ行政府側からの重ねての警告を経た後にようやく36名のウッチ市民から成る国民衛兵が組織された。1811年にはその数は53名に増え、その一部は1812年に域外にも送られた。ナポレオン軍が敗北した後ウッチの国民衛兵組織は消滅した。ウッチ市長は行政府に対し1815年に「そのような衛兵組織は存在しない」と報告している。


(写真17) ナポレオンによって興されたワルシャワ公国は希望を伴ったものであったが短命に終わった


(写真18) 現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに19世紀初頭Lodka(ウートゥカ)と呼ばれたささやかな部落が生まれた、後に際立った産業集落となるウッチはおそらくこの名から取られたものと考えられている

5.新たな部落の誕生

1815年以前もしくはワルシャワ公国が存在していた初期の時期、現在のウッチに当たる領域に新たな部落が生まれ、これらの部落にはポーランド人が入植した。 Grabieniec(グラビェーネッツ)、Henrykow(ヘンリクフ)、Gorki(グールキ)、Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)などで、Lodka(ウートゥカ)やKoziny(コジヌィ)もこれらの部落に含まれるであろう。

GrabieniecはZlotno(ズウォトゥノ)村とKaly(カーウィ)村に挟まれ、現在のSzczecinska(シチェチンスカ)通りとRabienska(ロンビェンスカ)通りに沿って広がる領域に散発的に家屋が存在していた。大きな村で、その住民の大半は周辺のガラス工場で働く人々であった。

HenrykowはJanow(ヤーヌフ)村、Widzew(ヴィーゼフ)村、Stoki(ストーキ)村に囲まれた小さな部落だった。わずか数戸を数えるのみでほぼ現在のHenrykowska(ヘンリコフスカ)通りに沿った領域にあった。Gorkiも同じく数戸を数えるのみの部落で、ほぼ現在のGorki Stare(グールキ・スターレ)に当たる領域にあった。

Kowalszczyznaは当初は単独の、後には2つの家屋からなる部落で、Dabrowa(ドンブローヴァ)の南に作られた。ほぼ現在のSlaska(シロンスカ)通りとZygmunt(ジグムント)通りが交差する辺りに位置していた。Lodka(ウートゥカ)と呼ばれた部落には当初わずかニ戸しか存在しなかった。部落は現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに位置していた。後の1827年にLesniewskiが作成した図があるが、おそらくはそこに示されているStrzelcとMarcychの林間コロニーがその場所であろうと考えられている。

一方、Kozinyは森番小屋一戸があったきりで場所を特定するのは容易ではないが、現在同じ名称をもつ集落にその場所を想定することが出来そうである。


(写真19) かつての市長兼警察長官ユゼフ・アウフシラグ

市の公式文書によると、1794年のウッチ市長はDrewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)であった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により市長Drewnowiczが罷免され市会評議会が解散させられた後Sempftと呼ばれる人が警察長官に任命されたが、まもなくプロイセン軍の将校であったAufschlag(アウフシラグ)がその後を襲った。彼はウッチ市民に対して、無慈悲でかつずる賢く貪欲であったようで、名誉ある記憶を残していない。プロイセン支配のウッチでかなりの財産を積み上げた。前線の戦況が変わりナポレオン軍との戦闘でプロイセン軍が敗北した後、Aufschlagはウッチ市の新たな指導者であるJezewicz(イェゼーヴィチ)に権力を引き渡した。彼の名はまた、国民衛兵組織ウッチ支部の創設をめぐって市内に生じた争いにも結びつけられている。彼は辱めを受けたかつての警察長官として争いの先頭に立ち、このような指揮官のもとで活動の情熱は冷え込み、事実上国民衛兵組織は崩壊した。かつての警察長官であった彼自身は、新市長Szczwinski(シチヴィンスキ)の支持も得られず、ウッチからいづこともなく離れ去った。

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第四章 ダイナミックな発展の端緒

ウッチ市はナポレオン時代末期にすでに経済発展の端緒を示し、その後ロシア領ポーランド王国(ポーランド立憲王国)政府の産業プログラムによって本格的に鼓舞されていくことになる。


(写真20) 1815年のウィーン会議の討議風景

1815年のウィーン会議の結果として生まれたポーランド立憲王国の存立の初年々、現ウッチの領域にあった集落群は非常に過密化していた。整理すれば以下のようになる。

(1) 村落: Baluty(バウーティ)、 Brus(ブルス)、 Chocianowice(ホチャノヴィッツェ)、 Chojny(ホイヌィ)、 Kaly(カーウィ)、 Lagiewniki(ワゲェヴニキ)、 Modrzew(モドゥジェフ)、 Moskule(モスクーレ)、 Radogoszcz(ラドゴシチ)、 Retkinia(レトキーニャ)、 Rogi(ローギ)、 Rokicie(ロキーチェ)、 Sikawa(シカーヴァ)、 Stoki(ストーキ)、 Widzew(ヴィーゼフ)、 Wolka(ブルカ)、 Zarzew(ザジェフ)、 Zlotno(ズウォトノ)
(2) 分農場: Jagodnica(ヤゴドニッツァ)、 Ruda(ルーダ)、 Stara Wies(スターラ・ビェシ)、 Wojtostwo Lodzkie(ヴォイトストヴォ・ウッツキェ)
(3) 製粉所部落: Chachuła(ハフーワ)、 Charzew(ハージェフ)、 Kalski(カールスキ)、 Ksiezy(クシェンジィ)、 Lamus(ラームス)、 Miejski-Mania(ミェイスキ・マーニャ)、 Pabianka(パビアンカ)、 Rokicki(ロキーツキ)、 Urban(ウルバン)、 Wiskicki(ヴィスキツキ)、 Wojtowski(ヴォイトフスキ)のKulam-Pila(クラム・ピーワ)
(4) 1782-1795年に入植された有料の「オランダ人」入植地: Antoniew(アントニェフ)、 Dabrowa(ドンブローヴァ)、 Grabieniec(グラビェーネッツ)、 Henrykow(ヘンリクフ)、 Janow(ヤーヌフ)及びZabieniec(ジャビェーニェッツ)
(5) プロイセン時代の通常の入植地: Augustow(アウグストゥフ)及びOlechow(オレフフ)、並びに後に有料入植地となるLagiewniki Male(ワゲヴニキ・マーウェ)、Moskule Male(モスクーレ・マーウェ)
(6) その他の部落:
森林部落後の農業部落: Karkoszka(カルコーシカ)、Zarzewek(ザジェーヴェク);
森林管理部落:Koziny(コジーヌィ);
いわゆる手工業者部落:Budy Sikawskie(ブーディ・シカフスキェ);
ガラス工場部落:Huta Chojenska(フタ・ホイェンスカ)、Huta Rogowska(フタ・ロゴフスカ);
農・手工業部落:Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)など。

1820年代初頭の現在のウッチの領域全体で小都市を除く56の様々な形態の部落があり、戸数は783戸、人口は6700人であった。ウッチだけでは、戸数97戸、人口939人であった。ポーランド立憲王国が成立したあと区分変更があり、ズギェシ郡がマゾフシェ県ウェンチッツァ州に組み込まれた。

カリシ県の領域にあった全ての集落は、政府直轄区Pabianice(パビアニッツェ)に属すことになった。現在のウッチの領域にある他の部分では、直轄区Laznow(ワズヌフ)の領有になっていたウッチ周縁部の諸部落だけが政府直轄となった。ウッチ市の中心部を除いて直轄区から外れたのは、Wolka(ブウカ)、Widzew(ヴィーゼフ)及びZarzew(ザージェフ)、Augustow(アウグストゥフ)、Stara Wies(スターラ・ビェシ)及びWojtostwo(ヴィトストヴォ)、Mania(マーニャ)、Lamus(ラムス)、Kulam-Pila(クーラム・ピーワ)、Ksiezy Mlyn(クシェンジィ・ムウィン)及びWojtowski Mlyn(ヴィトストヴォ・ムウィン)、Koziny(コジヌィ)、Podlodz(ポッドウッチ)及びLodka(ウートゥカ)、Karkoszka(カルコーシカ)及びZarzewek(ザジェーヴェク)であった。.

ウッチ周縁部は、直接ウッチに接する地域で、都市・産業計画事業が行われる領域に割当てられた。現在のウッチに相当する領域の諸部落は複数の異なる教会教区に属し、これが地域活動の重要な中心となった。最大の教会教区はウッチ教区で、東部地区はMileszki(ミレーシキ)教区に、北部の諸部落はZgierz及びDobra(ドブラ)教区に、Zlotno(ズウォトノ)とJagodnica(ヤゴドニッツァ)はKazimierz(カジミェシ)教区に、そして西南部の諸部落はPabianice(パビアニッツェ)教区に属した。



(写真21と22) 1577年から使われてきた印章を1817年のSzczawinski(シチャヴィンスキ)市長の文書に見ることができる、以降はロシアの双頭の鷲の紋章が使われるようになり、20世紀になるまでウッチの紋章は姿を消していた


(写真23) ウッチがロシア領となったあとの境界地図

1.1820年 – 新生ウッチのスタート

ウッチを産業中心地に再編成するという計画のうち初期のものは、地域社会の中枢からあらわれた。すでに1815年に、ウッチ市長Szczawinski(シチャヴィンスキ)が上層部に具申している。しかし、一連の決定(写真28)がポーランド立憲王国総督によって発せられたのはようやく1820年9月18日のことで、1820年7月にRembielinski(レンビェリンスキ)が騎馬でこの地域を視察し、その結果が精査された後のことであった。その決定に基づき、紡織関連の集落がウッチに生まれることになる。ウッチのみならず、マゾフシェ県に属するDabie nad Nerem(ドンビェ・ナド・ネレン)、Gostynin(ゴスティニン)、Przedecz(プシェデチ)、Zgierz(ズギェシ)にも同様の集落が生まれることになった。

<ウッチ以外にも、マゾフシェ県に属する以下の都市も産業都市に指定された>


(写真24)ズギェシ


(写真25)ゴスティニン


(写真26)プシェデチ


(写真27)ドンビェ・ナド・ネレン

前述したレンビェリンスキは視察後に報告書を作成したが、その中で当時重要とされた以下のような産業立地条件を挙げて、ウッチに紡織関連の集落を開設する旨の決定を下すべきであるとしている。

ー ウッチの特徴である市後背地に広大な市有地が存在すること;
ー 水量豊かで流れの早い川や小川があり、また既存の揚水装置や、撹拌、圧縮、染色を行う施設への転用が容易な水車なども存在していて、水利条件に恵まれていること;
ー 建設資材、特に木材やレンガなどを安価で調達することが容易であること;
ー 街道沿いに立地していること;
ー すでに入植している入植者や手工業者、とりわけガラス職人、紡織工などが存在していること;
ー それまで発展が遅れていた地域の振興を目指せること

以下、1820年に作成されたレンビェリンスキの前述報告書の一部を紹介しよう。

(。。。。)ウッチ市。ズギェシと同じくピョートルクフ街道沿いにあるが別の川に面していて、深い森に包まれた、そしてそのおかげで利益を生み出しそうなウッチ市を訪れた。三年前、川の水嵩が増し、ほぼ市中にあった水門付きの政府管轄水車が流されてしまう事態が発生したが、その同じ場所に良質の撹拌施設やレンガ工場を建てることができるだろうし、手作業で建設作業につく人々に価格価値がない近隣の直轄森から運ばれる木材を無料で供給することができる(。。。。)

レンビェリンスキは早くも三年後、新市街に集落が建設されていること、Grobelny(グロベルヌィ)水車があった場所に撹拌施設が建設され始めたことを報告している。


(写真28)決定

<歴史百科編者によるコメント>
ポーランド立憲王国では、Staropolski(スタロポルスキ)工業地帯を除き、農業が主体だった。とりわけ、ラシャや亜麻布を用いた繊維製品の不足は顕著であり、そこから産業のこの部門(繊維部門)の優先順位が高くなったのである。。。。。繊維製品の不足は、ポーランド立憲王国がいわゆるヴェルコポルスカの繊維工業地帯から切り離されことも原因となり、ポーランド中央部が必然的に消費市場となった。ポーランド立憲王国の農村では小物の繊維製品に特化されたが、ラシャその他の繊維製品の需要を満たすことができないほどであった。内需(軍用、民生用)の他に、繊維産業の発展に好条件をもたらす重要な要因になったのは、1821年にロシアとの協定が締結され特恵関税が導入されたことにより、ロシア帝国への輸出の可能性が増大したことであった。また中国向けラシャ製品の輸出に対するプロイセンへの優遇措置が撤廃されたことも大きく影響した。


(写真29)オスカー・フラットの記述から


(写真30)ザヨンチェク公、ナポレオンの敗北後ロシア皇帝アレクサンドルI世からポーランド立憲王国の総督に任命される、在位1815−1826


(写真31)ドゥルツキ=ルベツキ公、ポーランドの政治家、1821−1830ポーランド立憲王国財産相


(写真32)モストフスキ伯爵(1766−1842)、ポーランド立憲王国内務相

2.産業ウッチの建設者


ライムンド・レンビェリンスキ (1775-1841)

産業ウッチの建設者 ライムンド・レンビェリンスキの記憶は、既に1860年にウッチ市民の間に刻みつけられている。ツァーリの勅令によって彼の名をそのまま通りの名とすることは出来なかったものの、当時生まれたばかりの通りの一つに「聖ライムンド大通り」という名が付されているからである(現在のライムンド・レンビェリンスキ通りは工科大学大通りが走る区域にある )。

ライムンド・レンビェリンスキは1775年に生まれた。士官学校で教育を受け、1790年に主席で卒業した。当時既に継父マルチン・レドゥホフスキは他界しており、8年前から孤児であった。男子として家族の長かつ家財の監督者でもあった。1794年の事件(訳注:「コシチューシコの蜂起」)は、若きライムンドを田舎の生活から引き離した。ポドラスカ地方における蜂起軍の組織者となったのである。義勇兵をワルシャワに導き、ラドシチェ近郊の戦いに加わる。その後、田舎に戻ったライムンドは戯曲を書き始めた。1804年にはサスキ劇場で「ソールズベリー女伯」と題された彼の作品が上演されている。また、経済や法と管理の原則も学んだ。

1807年9月、スタニスワフ・マワホフスキはライムンドにビャーウイ・ストックとウォムザ地区の行政職につくよう命じた。ほどなく、ライムンドはプォツク郡の行政長官となり、短期間で新生ポーランド官僚制度の上層部に躍り出る。1809年5月には、ユーゼフ・ポニャトフスキ公の推挙によりワルシャワ公国の地方議会は、ポーランド軍が奪還したプロイセン分割地の行政長官にライムンドを任命したほどである。ライムンドはプレスブルグの和約の後プォツク郡の行政業務に従事するため同地に移っていたが、そこで優れた官僚としての頭角を既に現していた。その時代に管理と法に関する勝れて専門的な論文を複数発表している。

1812年は常にないエネルギーの噴出の年であった。というのも、ナポレオンの軍隊に宿営地と食事を確保し、かつそれもその地の住民の供出なしで実現したからである。加えて、イタリア副王のウジェーヌ・ローズ・ド・ボアルネの知己を得た。副王はライムンドにイタリアの外交部門に有力なポストを提案しかつ将来を約したのであった。ナポレオンの敗北後、プォツク郡の行政長官は3千人からなる軍隊を組織し、軍が退却するまでワルシャワ公の下に滞在した。病を得ていた彼は不便に耐えながらも ドレスデンに留まり、公国に対し出身地である田舎に戻ることを伝えたのである。

ポーランド立憲王国政府の内務委員会はライムンドに国家行政業務に携わるよう命じた。彼は、ワルシャワに県庁を置く広大なマゾフシェ県の県知事となった。ザヨンチェク公とモストフスキ伯爵によって高く評価されていたライムンドは、15年間この地域の行政に携わることになる。域内のイェドヴァブネとクロシニェヴィッツェに領地を持つ彼は、自分の家にいるような幸せな日々を送ったであろう。

1820年にライムンドの活動に転機が訪れた。自らの領内で巨大な産業化計画を推進するのである。最初にズギェシとオゾルクフで、そしてウッチでの繊維産業の発展を見届けた。1830年の事件も彼からフリーハンドを奪うことはなかった。ライムンドはフウォピツキ将軍に軍事レポートを送ったりしている。内務大臣のポストへの最大の候補者であったが、個人的な対立者のために実現しなかった。精神的にも肉体的にも疲れ切った彼は、再びサクソニアに戻って隠棲し、国外で二度目の農民に関する論文を執筆する。1832年にワルシャワに戻り行政業務につくが、同年8月に業務から「追放」される。晩年は田舎で過ごした。1841年2月12日ウォムジャで永眠し、遺体はイェドヴァブネの墓地に埋葬された。

<レンビェリンスキの活動>
ライムンド・レンビェリンスキは、当時のマゾフシェ県委員会議長(現在の県知事に相当)として、ウェンチッツァ郡の各都市の状況を視察した後に、政府の内務委員会に対しウッチに工場集落を設置することを上申した。程なくして、1821年1月30日、立憲王国政府は然るべき権限を彼に委任した。レンビェリンスキが策定した都市開発計画の構想に従い都市建設は二期に分けて実施された。すなわち、1821年−1823年には旧市街が建設され、繊維産業集落と呼ばれた新市街の礎が築かれた。新市街自体の建設は1824年−1828年にかけて行われ、これによってウートゥカと呼ばれた織物集落と4つの入植地が作られた。

3.新市街構想

1820年代に生を受けることになる新たな産業都市ウッチは、ウッチという名称は同じでもそれまでの封建的な小都市の継承者ではなかった。明確な意識と規模とで、迅速かつ効率的に建設された。周辺の農村や村落や森林がまず新たに市に合併され、全体で独立した都市の機能を持つ地域とされた。かつての農村ウッチと新たな産業ウッチは文字通りには並存していた。法的には一つの都市として機能しながら、その後数十年間それぞれ別々の生を営み、空間としては一つという表現のまま推移していったのである。現在のウッチ市に相当する地域での新たな集落の中心部は、農村小都市の名称を残しながら1820年に生まれた。後に旧市街と呼ばれる市地域は、小規模の20ヘクタールほどのエリアであった。同エリアの区画制は典型的な中世の特徴を現在もとどめている。市場からやや斜交いに狭い路地群が広がり、路地の周辺には小規模の建物が不規則に並んでいる。中心部である交易広場すなわち市場は周囲を建物で囲まれ、その中に教会が建てられた。新たに生まれた集落の区画がこのように計画されたために、中心部の広場と当初作られた8つの通りは拡張が制限された。これらの通りの一部には近隣の都市名が付され、かつこれらの都市につながっていた。

横に連なる建物群で囲まれた区画は、交易広場の他には広場周辺のドゥレヴノフスカ、ポドゥジェチナ、ナドゥスタヴナ、コシチェルナといったいくつかの通り沿いに作られた。ただし、コシチェルナ広場とこれにつながるルトミェルスカ、ブジェジンスカ、ワギェヴニツカ、そして今はないツィガンスカといった通り沿いには独立した建物も建てられた。そして、こうした小規模のエリアとは好対照をなす広大なエリアが周辺に広がっていたのである。それは1244ヘクタールの広大なエリアで、内828ヘクタールが農地、416ヘクタールが森林であった。

4.発展の最初の兆し

ゆっくりとではあるが、ウッチは再興の兆しを見せ始める。1820年の人口は767人であったのに対し、1823年には799人であった。同時に16世紀から17世紀にかけて繁栄した時代の記録的水準を取り戻した。また社会構成の変化も繁栄の兆しを示していた。

人口の増加に伴い、商工業も発展しつつあった。一年間に開催される市の数も12回にまで増えた。210名いた農業従事者は1821年には74名になっていたし、零細職人とわずかな加工を行う者は58名であった。一方商業に従事する市民は26名いた(11名が屋台担ぎ、11名が居酒屋、それに塩の販売と仕入れでそれぞれ2名づつ)。手工業分野には57名が従事しており、一方公務に携わる者は4名で、内聖職者が2名、教師とその助手がそれぞれ1名づついた。

職業別でみると、皮なめし工と縫製工を含む仕立て屋20名、粉挽き、パン焼き、肉屋合わせて14名、木工業は9名だった。内訳は、大工、車輪工、濾し屋、指物師、木工、樽作りなど。面白いのは1820年までウッチには織物業に携わる者がいなかったことである。ただ、外国産などの特殊な布の売買は重要な商業の分野と見做された。ウッチでは家畜や馬の売買も行われていた。

5.ウッチ市民のささやかな資本

当時のウッチの商人達が保有していた資本はごく僅かだった。1821年に行われた調査によると、一万ズロチどころか200ズロチを持つ者も誰一人なかった。

とはいえ、これは実態からは随分離れたものであった。何故なら、モーセの信奉者たちについても調査した結果、富裕な市民が複数いることが分かったからである。個別にカハウの代表の立会のもとで聞き取り調査を行い、2人の縁続きのユダヤ人商人(ザルツマンとコペル)が6千ズロチの資本を保有していることが確認された。さらに、2家族が3千ズロチ、12家族が1500ズロチ、6家族が千ズロチ、12家族が500ズロチをそれぞれ保有し、金額が500ズロチを下回るのは23家族であった。不動産の売買もこの頃から行われるようになった。

基本的に地図上にウッチが現れてくるのはプロイセン時代以降であり、ウッチ市発展の初期段階で作成された地図は非常に貴重である。


(写真34) オスカー・フラットの記述から(1)


(写真35)グールキ・プレバンスキェすなわち現在の教会広場は、常にウッチの重要な場所であった。


(写真36−1)F. Johnneyによる1812年の農村ウッチ市の建物地図


(写真36−2) オスカー・フラットの記述から(2)

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第五章 旧市街の制定

ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。

1.ウンチッェツァ=ピョートルクフ街道

近隣都市間をつなぐ、表面を固めた、可能な限り直線の道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋で、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあった旅籠屋(カルチマ)に隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。

新たなウンチッェツァ=ピョートルクフ街道の建設は、ウッチの何処に工場集落を立地するかという問題に影響を及ぼさずには置かなかった。計画そのものは、当時のマゾフシェ県委員会議長(現在の県知事にほぼ相当)のライムンド・レンビェリンスキが、ウッチを含む当該地域の直轄都市の状況を視察した1820年7月になされた。レンビェリンスキは、既に視察中に、農村都市の経済を整備するためのかつ具体的な原則についていくつかの指示を出している。

2.旧市ウッチの形成

政府の内務・警務委員会による建設関連法令に基づいて市の景観を高めることも企図された。その一環として、新たな住宅はすべて規定のいくつのかのモデルに倣って建設されることとされた。また、旧市街住宅エリアの確定も遅滞なく行われた。

レンビェリンスキの意見に受け、なによりも市場と教会広場ができるだけ整った外観を示すように調整された。1823年には、隣接する通りに手が入れられた。ブジェジンスカ通り(現在のポーランド軍通り)が新たに整備され、教会通りが直線的に整備され、ヴォルボルスカ通りも拡張されて同様に整備された。また、ドゥレヴノフスカ通りも形を整えながら拡張されていった。


(写真37)西通りから市場沿いに作られたポドジェチナ通りとドゥレヴノフスカ通り

1820年のウッチには木造家屋が106戸あり、これらの家屋に掛けられた保険金額は9万2千百ズロチだった。

新街道は直線的に建設されるよう計画されていたので、建設場所がウッチの居住区域内に重なる市場と教会広場の西側正面にあった家屋は後退を迫られ、市場の中にあった一部家屋は取り壊しを余儀なくされた。教会広場と市の北部境界とを結ぶ区間は、1823年には「新通り」、後にズギェルスカ通りとなった。西側に一部残っていたツィガンスカ通りという呼称は後に廃止された。


(写真38)マーケット広場から延びる、一時期「新通り」と呼ばれたズギェルスカ通り


(写真39)直線的に整備された教会通り


(写真40)旧市ウッチの制定は長期間続いた、その最終的な姿は1859年のブロホツキの地図に良く示されている


(写真41)バウータ市場に向かうズギェルスカ通りの一部はツィガンスカ通りと呼ばれていた


(写真42)ヴォルボルスカ通り、かつてのヴイトフスカ通りとナドスタヴナ通り

旧市ウッチの制定は農村のウッチが有していた中世的な都市構造を大きく変えるものではなかったが、それでも制定に伴う変化は当時のウッチにとって無視できない規模でなされ、市中央部に整った外観を与えることにより、景観が著しく改善された。当時なされた変化は現代に至るまで引き継がれている。1820年11月には木造の市庁舎が建設された。市庁舎には拘置所、市役所、市長の住居が置かれた。当時の建物は教会通り沿いにあったようである。

ウッチには古い時代の遺跡はないが、それでも現在の旧市場周辺の街路の配置は中世的な性格を部分的にとどめている。


(写真43)ストドルナ通りに至るルトミェルスカ通り


(写真44)拡張されたブジェジンスカ通り(現在のポーランド軍通り)

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第六章 産業ウッチの発展を保証する大いなる「カード」

ウッチが産業都市として発展する保証となったのは、1821年3月30日付のいわゆるズギェシ協定で、市に居住する外国人工場主に様々な特典が与えられた。

1.ダイナミックな発展の兆しの下で

ポーランド立憲王国時代初期、ウッチ市の人口は引き続き増加した。統計によると1820年の人口は767人で、1822年は939人であった。ウッチ市は常ならぬテンポで発展していったのであるが、それでも他の周辺都市を追い抜くようになるのは1824年になってからである。1820年代に立憲王国政府は、既に1815年に適用していた産業保護政策を大幅に拡大した。

1816年3月2日に立憲王国政府代行は、王国内に居住する「有用外国人」の条件に関する決定を発している。それは、「有用な外国人」に対し、ワルシャワ公国時代の法令(1809年3月20日付及び1812年1月29日付)で入植者に認められていた特典を部分的に確認し、経済的、軍事的意味合いを持つ特典などを具体的に規定したものであった。1820年代にウッチ市は、産業発展一般基金から58万3千892ズロチの助成を受けた。これは、マゾフシェ県全体で受け取った助成金の65%に当たっていた。

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(写真45)ズギェシもウッチと同様に産業都市のリストに入っており、1822年にはJ.F.ザヘルタの織物工場が誕生している

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(写真46−59) オスカー・フラットの記述から

2.ズギェシ協定

1821年の政府の協定に基づき他国から流入してきた手工業者達は、永代貸与の土地を受け取った。なかには政府が用意した家付きの土地もあった。また、処女地に入植する場合には多額の貸付金を受けることも可能であった。負債は、6年間猶予の後、年毎に返済されることになっていた。これとは別に入植者達は、政府直轄林から木材と、同じく政府直轄の煉瓦工場から煉瓦を無料で利用することができた。入植者達は、この他にも様々な便宜を受けることができ、王国に外国人の入植を促す共通の特典となった。入植者達によって持ち込まれた家財などは王国国境でも関税の対象とされなかった。外国人及び外国で生まれた男子の子供は兵役が免除された。さらに、出身国で夫役の義務がある場合には母国に戻る権利が保証されていた。なんとこの協定により、入植者達は手工業的性格を持つ組合を組織し、狩猟組合の設立を申請することすらできたのである。この二つの権利は1820年代半ばには既に享受されていた。

3.最初の植民者達

ウッチ市に保管されている古い文書によると、経済目的でウッチに入植した最初の外国人は、Fryderyk Wilhelm Daunという人で1821年のことと記録されている。職業は職人の資格を持つパン焼き職人で宗教は福音主義派となっている。居住地はポズナン県シュービン地方ルィナジェフであった。国境で申告した家財の価額は多くなく、税関吏は240ズロチと算定した。ちなみに、プロイセンの税務吏は当該植民者の馬車を引く2頭の馬の価額を90ズロチと算定していた。妻と二人の息子、娘も共に国境を超えた。1821年5月16日のことであった。まずヴオツワーヴェクに「錨を下ろし」てかの地に一ヶ月強滞在した後、パン職人は6月28日ウッチに地に立った。ただし、ウッチではあまり良い歓迎を受けなかったようである。この賃貸入植者は7月21日には既に市長のチャルコフスキからプロイセンに戻る旨の許可を取得している。理由は、家を建てる資金が不足し、かつそのための政府からの資金貸付を受けることができなかったからである。このウッチ植民者の「ロビンソン氏」は数日後にはウッチから完全に姿を消してしまった。二人目の手工業植民者は4月に記録されており、在グニェズノの指物師ヤン・プルチンスキであった。続いて1822年に植民を行ったのは、二人の羊毛刈り取り職人であるが、詳細は不明である。1822年迄はウッチに定住した外国人は一人もいなかった。ようやく1823年12月に、シロンスク出身の裁縫職人6人を認めることが出来る。流入の流れが始まるのは1824年である。


(写真60−61) ウッチ産業勃興期の1820ー1826年に市長を務めたA.チャルコフスキが使っていた認印。ワルシャワ公国時代には騎兵隊の将校であった。チャルコフスキがウッチ市長であった時期に最初のレンガ造りの家屋が現れ、通り名を示す表示版が設置されている。一方、その陰で公金横領の疑いがかけられ、チャルコフスキは、1828年9月に市から姿を消している。ガリチアに逃れたものと推測されている。

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(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

<未完>