■ピョートルコフスカ通り137/139番地

6月11日、ポーランド教職員組合ウッチ支部に付属する教職員クラブで、アマチュア劇を鑑賞する機会があった。同クラブが入っている建物の正式な住所はピョートルコフスカ通り137/139番地。ミツケーヴィチ通りから自由広場に向かって少し戻った所に位置する。近くには、ピョートルコフスカ通りの新しい顔の一つであるオフ・ピョートルコフスカなどもある。オフ・ピョートルコフスカの紹介は別の機会に譲るとして、ピョートルコフスカ通り137/139番地に戻ると、前述の教職員クラブが入っている建物は、ウッチが高度成長したポーランド立憲王国時代に遡る、歴史のある建物の一つとのこと。ということで、その当時の所有者であったKindermann一家について調べてみた。

Kindermann一家のウッチでの活動はFranciszek Kindermann(父) (1809年-1845年)にまで遡る。Franciszek Kindermann(父)とその妻 Wilhelminaは、1830年代にドイツ(出身地はFranciszekがチェコとの国境沿いのWarnsdorf、妻のWilhelminaがザクセンのChemnitz)からポーランド立憲王国に移住してきた。短期間ワルシャワで過ごした後最終的にウッチに到着している。結婚式はワルシャワで挙げられた。ウッチで財を成したのは彼らの子供達の代以降だが、その基礎はこの二人によって築き上げられた。

長子Franciszek Kindermann(子)(1837年 – 1915年)は1859年、ピョートルコフスカ通り110番地に手織機工場を立ち上げる。40年後の1896年には織機数は70台に達していた。翌1897年には工場をLakowa通りに移している。彼の12人の子供のうち、 Gustaw Adolf (1864 – 1920)、Juliusz Robert (1866 – 1932)、そしてLeopold Rudolf (1869 – 1917)の3人は、その後も一家の事業を拡大・発展させていった。

さて本題のピョートルコフスカ通り137/139番地に戻ろう。1870年-1888年のピョートルコフスカ通り137番地の所有者は、 Franciszek Kindermann(子)の血縁者と推察されるErnest Kindermannとなっている。Ernestはこの137番地でハンカチ製造工場を経営していた。その後この建物の所有者は変遷するが、1907年には最終的に初代から3代目に当たるJuliusz Robert Kindermannの手に戻っている。この時には隣接する139番地の建物も合併されていた。ちなみに、Ernest Kindermannがピョートルコフスカ通り137番地の所有者であった時期の139番地の所有者は Gottlieb Wünsche であった。

こうして、ピョートルコフスカ通り137/139番地は、Franciszek Kindermann(父)の孫Juliusz Robert Kindermannとその妻Klaraの邸宅となった。詳細は不明であるが、夫妻は同じ年に増築を行っている。彼らはさらに増改築を計画していたようであるが、時代のせいなのか実現していない。もし実現していれば、左右の側面もピョートルコフスカ通りに面した正面のように、壁面の一部に装飾を施された、独立した邸宅になっていたのかもしれない。

 

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137/139番地の正面

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137/139番地の入り口から中庭に抜ける回廊

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137/139番地の中庭

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137/139番地の1931年当時の様子(”Ulica Piotrkowska”所収のものを転載)

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137/139番地の現在の様子

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137/139番地の1967年当時のファサード(”Ulica Piotrkowska”所収のものを転載)

参考
Anna Rynkowska , “Ulica Piotrkowska”, Łódź 1970
http://piotrkowska-nr.pl/
https://pl.wikipedia.org/wiki/

(了)

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