■ 梅田芳穂さんとウッチ

「連帯」運動の日本人活動家として知られている梅田さんの経歴については、ウィキペディアの日本語版とポーランド語版の記事で概略を知ることができる。筆者は不勉強で未読であるが、ポーランド語ではAnna Nasilowska 女史によるまとまった伝記も著されているようだ。

梅田さんが亡くなられたのは2012年5月であるが、筆者もその梅田さんの享年をすでに過ぎ、過去を振り返ることが多い年齢になっている。筆者は、ポーランドでも地方都市のウッチ在住で、しかもポーランド移住後の大半の時期をポーランドの外で仕事をしてきたので、梅田さんとの直接のお付き合いはあまり無かったが、それでもささやかな「接点」をいくつか持つことができた。この短い文章では、筆者の個人的な思い出と、あまり知られていないウッチでの梅田さんについて綴ってみたい。

梅田さんとの最初の接点は間接的なものだった。当時すでにロシア語の世界に身を置いていた筆者はいわゆる「東欧」にも関心を抱いていたが、1980年の「連帯」運動のうねりでポーランドへの関心が一挙に高まった。その頃に、工藤久代さんの『ワルシャワ貧乏物語』(鎌倉書房刊)を手にする。もちろんこの時には直接梅田さんと面識があったわけではなく、工藤さんの著書に記されている芳穂さんとアグネシカさんとの物語の中に、日本では求めることのできない「何か」を感じた程度であった。

梅田さんとの直接の出会いは、場所は東京四谷の上智大学の構内で、東京近郊のポーランド人が集まる毎月一回の懇親会の席上であった。そのころはすでに日本でも梅田さんのことは広く知られていて、特にポーランド人仲間の間では著名人であったが、筆者も同じようにポーランドに関わる「日本人」ということで親しく懇談する機会を持つことができたのだった。この出会いが何年のことであったか正確に覚えていないが、1986年かその翌年ではなかったかと思う。

当時のポーランド政府から国外追放の措置を受けていた梅田さんは1989年にポーランドに戻ることになるが、筆者も1993年末にポーランドに移住し、梅田さんとポーランドで再会する。当時筆者が勤めていた在ウッチの日系企業に小生を訪ねてきたくださったこともあった。その時は背景をよく知らずに聞き流していたのであるが、これから話題にする在ウッチのKingaさんを訪問するという目的もあったようだ。

梅田さんがご尊父梅田良忠教授の命でポーランドに渡ってきた時は13歳の少年であったそうだが、最初からワルシャワに住んだわけではなく、大学に入学するまでの5年間は当地ウッチで生活した。梅田さんはこのウッチ時代をご尊父の親しい友人の一人であった考古学者Jazdzewski教授の許で生活した。この5年間、梅田さんは言葉も分からぬ異国にいきなり飛び込まされて随分苦労もされたようであるが、一方でJazdzewski教授の5人の子供達と子供らしい交わりで楽しい時を過ごされたようである。

手元に2003年発行の新聞記事がある。梅田さんが13歳でポーランドに到着し、その後ワルシャワに移るまでの5年間のウッチでの生活を、寄宿していたJazdzewski家のKinga女史が回想したインタビュー記事である。この時代の梅田さんについての貴重な証言であるが、これによると、13歳当時の梅田さんは、新しい環境に溶け込もうと努力しながらも、子供らしい遊びもし、またポーランド語の勉強はあまり好きではなかったものの静かに密かに取り組んでいた様子が見て取れる。

以下続く。

(参考)
■ Wikipedia 梅田さんについて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%94%B0%E8%8A%B3%E7%A9%82
https://pl.wikipedia.org/wiki/Yoshiho_Umeda
■ 工藤久代著『ワルシャワ貧乏物語』(鎌倉書房刊)
■ Grazyna Przanowska 氏署名の記事「かわいい子には旅させろというが。。。。」(2003年、出所未詳)
Umeda

(了)

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