■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(001)

巻頭言: 編者から読者へ

第3巻で対象となる時期は、ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間であるが、ウッチ市の発展に決定的に関与するのはそのうちの数年間である。プロイセン領時代でも、ワルシャワ公国時代でも、小農村に新たな息吹の表れはまだなかった。当時は、Zgierz(ズギェーシ)とStrykow(ストゥリクフ)の近くに横たわる農村という扱いだった。動き始めたのは、いわゆるポーランド立憲王国時代に入ってからである。事実上5年間でウッチ市の将来の運命が決定された。この時期にウッチ市の基礎ができ、その発展の主要な方向性が示された。ちなみに、1820年にマゾフシェ県委員会の長Rajmund Rembielinski(ライムンド・レンビェリンスキ)がウッチに姿を現した時の人口は800人ほどで、現在の旧市街に相当する地区の世帯数は120だった。ウッチには1822年まで外国人の手工業者や工場主は見当たらなかったが、その5年後ウッチにはまったく新たな状況が出現していた。旧市街は拡張されて新市街が生まれ、また市南部にはLodka(ウトゥカ)と呼ばれる居住区が誕生した。後者にはドイツ、チェコ、シロンスク、そしてヴェルコポルスカからの植民者が引き入れられ、1820年代の終わり頃には約5千人がウッチに入植していた。新市街には織物業に従事する人々が、Lodka居住区には亜麻織物や綿織物に従事する女工を含む職工達が入植した。また元の旧市街にはユダヤ人街が生まれた。こうして、主としてRajmund Rembielinskiの働きで、ほんの数年間で新たなウッチ市が誕生した。我々は、彼の記念碑を建ててもよい程の功績をRembielinskiに負っていると言えよう。

「Piotrkowska 104」 編集長Arkadiusz Grzegorczyk

第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺

18世紀末のウッチでは、木材需要の好況とガラス工業の発展、そしていわゆる「オランダ人」植民者の波に関連して、都市部よりも周辺地域で経済的活況が見られた。

1.ガラス工業の発展

今日のウッチ市の領域内で最初に勃興した産業は、想像に反して織物ではなくガラスに関連したものであった。ウッチ及びその周辺では、木材が豊富にあり、また低価格であったことから、いわゆるポーランド分割の前からガラス工業が発達していた。18世紀半ばにはすでにLucmierz(ルチミェシ)村にガラス工場が存在しており、1780年代まで操業していた。Chojny(ホイヌイ)部落の近くにも、すでに第二次分割前にガラス工場が誕生していた。それは、現在の地名で言うとDabrowski(ドンブロフスキ)通り、Nizszej(ニースシェイ)通り、Broniewski(ブロニェフスキ)通りの周辺にあり、ガラス工場領内には50人ほどが居住していた。その後Kaly(カーウィ)村とSokolow(ソコウフ)との間にも工場ができた。また18世紀末にはRadogoszcz(ラドーゴシチ)で新たなガラス工場が立ち上げられ、ウッチからさほど遠くないところで複数の工場が稼働していた。世紀の変わり目にはまた、従業員用の住居が建設されてそこに62人が居住していた、かつてのRogi(ロギ)村にあったガラス工場と、 12戸からなるJagodnica(ヤゴドゥニッツァ)ガラス工場も操業していた。当時としてはかなりの規模の工場であり、数十人規模の従業員を抱えていた。これによってウッチ周辺の村々では、後に初期の織物工場立ち上げに際して意味を持つことになる或る基盤が生まれる。とりわけ競争に敗れて没落した工場で、領内の労働者たちがそこに留まったことは大きな意味を持った。

2.植民の活性化

農村のウッチが歴史の幕を閉じ、工業のウッチが活動を開始するのは1823年のことである。この年に、シロンスク、チェコ、ドイツからの、最初の手工業者と織物業者がウッチに顔を見せるからである。しかし、すでに第一共和国が存在した時代の最後の年々、ウッチ及びその周辺では経済と植民の或る種の活性期を経験しており、それは周辺部で特に顕著であった。例えば1760年のWolka(ブーウカ)では、 農園のほぼ3分の1が放置されていたが、1792年つまりこの地域がプロイセン領になる直前には、主として新たな入植者によって、ほぼすべてが入植済みであった。そしてウッチ周辺にはいくつかの新たな集落が形成された。それらの集落の土地所有者の中には自らの土地にいわゆる「オランダ人」植民者を呼び込む者が出てくる。こうした植民の活性化はヴェルコポルスカやポーランド中央の各地域でも行われた。文字通りオランダ人も含まれてはいたが、植民で重要な役割を演じたのはドイツ系で、ポーランド人が入植したケースもしばしばあった。開墾が要求される森林地区に入植した植民者達は多くの場合農奴制の枠外にあったが、その代わり地代を現金で支払わなければならなかった。第一共和国末期、現ウッチの領域内にさほど大きくない三つの植民集落が生まれた。そのうちの一つは、Chojny村に属する森林を切り開いた跡地に作られ、オランダ人のChojnyまたはDabrowka(ドンブルフカ)ないしDabrowa(ドンブローヴァ)と呼ばれた。この集落は現在のZarzew(ザジェフ)地区とChojny地区の境界にあった。1790年、 Mileszki(ミレシキ)部落の所有者であるJan Stetkiewiczは、森林を切り開いてできたWidzew(ヴィーゼフ)の東にあたる土地にささやかな植民集落を新設した。この集落は創設者の名をとってJanow(ヤーヌフ)と名付けられ、その位置は現在のLodz=Koluszki(ウッチ=コルシキ)間を走る鉄道の北にあたっている。1793年には三番めとなるZabieniec(ジャビェーニェッツ)植民集落がRadogoszcz村に属する森林地域に作られた。これは、現在の”Start”スタジアムの西に位置している。

2
18世紀末にChojny領地、後のDabrowa集落にできたガラス製造工場

3
ポーランド最後の王であるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1764-1795)

4
1791年の五月三日憲法を採択した四年議会、ウッチからの代議員はおらず、 Sieradz(シェーラッツ)、 Wielun(ヴェールン)、Szadek(シャーデク)、Leczyca(ウェンチッツァ)、Kalisz(カーリシ)からの代議員がウッチ地域の利益を代表した

(訳者注記)
先の投稿では、イラスト付ウッチ歴史百科第5巻の巻頭言を翻訳・紹介したが、やはり当ブログで対象にしている時期の初めから、つまり18世紀後半から末にかけての時期から、順に紹介していくのがあるべき順序ではないかと考え直し、本投稿では第3巻の巻頭言と第1章の翻訳を試みることにした。これによって、イラスト付ウッチ歴史百科全12巻のうち1巻だけを翻訳するのではなく、合計3巻分を翻訳することになり目標が大きく広がってしまったが、コツコツとやっていくつもりなので悪しからずご了承頂きたい。

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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