■ウッチ・ゲットー探訪

(関連記事:■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと)(ここ)

本棚を整理していたら、「The Children of the Łódź Ghetto」と題された小冊子が出てきた。ウッチ・ゲットー解体60周年に当たり、2004年8月にウッチ市で開催されたエキジビションの英語版パンフレットで、写真とゲットー経験者による回想記を中心にして編集されている。正直筆者は、これまでウッチのゲットーについてそれほど気にかけていたわけではなかった。このパンフレットも当時はパラパラと写真や資料を眺めた程度で、いわゆる「お蔵入り」にしていたくらいである。

ユダヤ人ゲットーといえばポーランドでもワルシャワのゲットーがまず思い浮かべられるし、著名度で言えば次に話題になるのはクラクフのゲットーだろう。実際筆者も、クラクフを訪れる機会がある折には可能な限りカジミェシュ地区まで足を伸ばして散策するようにしている。ナチス・ドイツによるこの2つのユダヤ人ゲットーに比較すると、ウッチのユダヤ人ゲットーはあまり知られていないようだ。もちろん、ユダヤ人ゲットーのような重要な歴史的出来事で「著名度」を争うのは不謹慎極まる話しであろう。ただ、歴史というキーワードで自分が住んでいるウッチ市を探訪するという当ブログの趣旨からすれば、ウッチにもあったユダヤ人ゲットーというテーマは、いつかは取り上げなければならないテーマだろうし、この機会に一応の整理をしておこうと思う。

ウッチ・ゲットーに限らず、ナチス・ドイツが占領後にポーランドに設置した各地のゲットーの歴史についてはウィキペディアの各ページなどでその概略を知ることができるが、せっかく手元に前述のパンフレットがあることでもあり、ひとまずこれを手がかりにしてウッチ・ゲットー探訪を進めようと思う。いつものように、実際に探訪する前にインターネットで拾い集めた関連サイトを投稿末尾に付記しておくので、「自分のウッチ・ゲットー」を探りたいという方は参考にしてもらえればと思う(今の時点ではさらっと拾った程度で数は多くないが)。

さて前述のパンフレットであるが、キーワードは「子供達」である。実際、ゲットー内の子供の数に関するいくつかの具体的統計が示されているし、また子供たちの生活を中心に記述されている。ただ、他のゲットーと同様に大人たちもゲットー内で生活していたのであり、このパンフレットだけでは「子供達」というキーワードはあまり響いてこないのではないか。にも拘わらず、個人的にはやはりこのキーワードが気にかかる。それは、チェコ(当時はチェコスロバキア)の作家ルスティクの短編「一口の食べ物」とのつながりがイメージとして強く印象に残っているからである。

訳者の栗栖継氏の解説によると、ルスティク自身はウッチ・ゲットーに居たことはなく、モデルとなった少年の実経験が背景になっているとのことである。この短編はあらすじを説明する必要がないほどの小品で、ゲットー内での悲惨なエピソードを淡々と綴っている。モデルの少年はおそらく、チェコのテレジーンにあったユダヤ人ゲットーを経由してポーランド・ウッチのゲットーにたどり着いたのであろう。主人公の母親の描写を通して、少年一家がチェコのプラハ出身であることを作者は示している。ルスティック自身はテレジーンを経てアウシュヴィッツ(ポーランド語の地名ではオシフェンチム)に転送され、そこで父を失い、自身はその後複数の収容所を転々としたそうである。

前述のパンフレットによると、ウッチ・ゲットーが実際に形を取り出したのは1940年2月で、同年6月にはゲットー内の人口は16万人に達していた。翌1941年の秋にはプラハ、ウィーン、ベルリンなどの中欧各地からさらに2万人規模のユダヤ人がウッチ・ゲットーに送り込まれる。その後も、ウッチの近郊(ストゥリクフ、ブジェジーヌィ、パビアニッツェ、ヴェールン、シェラツ等々)から集められたユダヤ人がウッチ・ゲットーでの生活を余儀なくされた。

他のゲットーと同様鉄道が人の移送手段となったが、ウッチ・ゲットーでも主要な役割を果たしたのはRadegastという名の(ポーランド語のラドゴシチから取られた名のようだ)鉄道駅であった。この駅については以下のサイトに詳しい記述があるので、興味があれば参照してほしい(ここ)。駅と言っても、当初は近くのMarysin駅の引込線として物資の搬入・搬出用に使われていたようである。その後ナチス・ドイツによって次第に人の受け入れ・送り出しを担う「駅」として機能していくようになった。次の写真でもわかる通り、プラットフォーム上に駅舎が設置されており中は資料展示室になっている。筆者が今回確認した限りでは、なかなか充実した資料室になっていたが、それでも奥の方にはまだ未整理の展示物が置かれていた。

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Radegast駅、ウッチ・ゲットー犠牲者追悼通り側から

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Marysin駅、5番のトラムで終点まで行きInflancka通りを新ユダヤ人墓地を左手に見るようにして右側を歩いて行くとまもなく見えてくる

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資料展示室の様子とゲットーの地図2枚

Wikipediaの当該記事に添付されている地図の中に「子供収容所」という説明がある。資料室に展示されている地図では26番の施設である。これについても先に紹介したサイトに詳しい解説がある(ここ)。ポイントだけ要約すると、表向きは青少年犯罪者を対象にした矯正キャンプであったが、実際は相当悲惨な強制労働収容所であったということである。当時の敷地跡には現在は集合住宅が立ち並んでおり、それと分かる施設はほとんど残っていない。ただ、敷地のある一角に公立の中学校があり、もちろん当時の建物ではないだろうが、「子供達」というキーワードはここにあったのかもしれないという思いが一瞬脳裏をかすめた。

ところで今回Radegast駅を再訪する際に5番のトラムを使ったが、その路線はLimanowskiego(リマノフスキェーゴ)通りからBalucki(バウーツキ)市場の横を通り、当時のゲットーを一部横断するようにして新ユダヤ人墓地まで走っている。5番のトラムは筆者が普段使っているトラムの一つであるし、またゲットーの東部分にあたる地域にはかつて知人が住んでいて頻繁に訪れていたが、これまでゲットーを意識することはほとんど無かった。今回ウッチ・ゲットーの探訪をやってみることで、普段は意識していない、自分が属している時代の歴史を改めて身近に感じさせられた。20世紀前半に興亡した2つの全体主義は、いずれも普通の市民が大量に殺戮されるという悲惨な歴史を伴ったが、以下の写真イメージのように、水面下にある「意識」を時に思い起こす必要があるという感を強くした探訪であった。

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Krzysztof Grzywinski氏が作成した現在のWojska Polskiego(ヴォイスカ・ポルスキェーゴ)通りを走るトラムのイメージ写真、写真の正確な撮影年は未詳

最後に、2016年の今年もウッチ・ゲットー解体にちなんだ記念行事が8月29日に行われるので付記しておく。

(参考資料)

1.ウィキペディア日本語版
(1)ウッチ・ゲットー(ここ)
(2)テレージエンシュタット(ここ)

2.関連Webサイト
(1)ウッチ・ゲットーに関するサイト、現在の地図の上にゲットーの領域が示されていて現地を探訪する際には使いやすい、英語版あり(ここ)
(2)Centrum Dialogu im. Marka Edelmanaの公式サイト、英語版あり(ここ)
(3)ホロコーストに関するサイト、各国語版あり(ここ)

3.本文で引用した書籍など
The Children of the Łódź Ghetto (Bilbo – Łódź 2004, ISBN 83-921360-0-4)
アルノシト・ルスティク作「一口の食べ物」(栗栖 継訳、恒文社版『現代東欧文学全集11』所収、1967年)

(了)

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