■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(002-1)

第二章 プロイセン領時代のウッチ

1793年1月に行われた第2次ポーランド分割によって、ウッチ地方及びウッチはプロイセン領となり、Bucholtz大臣に率いられたワルシャワ部に組み込まれた。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム2世、第2次および第3次ポーランド分割の際のプロイセン王

1.新たな行政区分
分割条約に基づきプロイセンは、ウェンチッツァ県とシェラツ県の全地域を取得した。つまり同時に、ウッチとその周辺のすべての村落が外国の支配下に入ったわけである。ウェンチッツァ、ラヴァ、ピョートルクフ、シェラツなど併合した国によっていわゆる南プロイセン州として新たに組織された地域全域に、その守備隊が置かれた。新たな支配者達は、1793年にポーランド中央部を取得した後直ちに新たな行政区分の導入を開始した。現在のウッチのほぼ全域は、1796年時点ではワルシャワ部に属する新設のズギェシ郡の一部であったが、南西の一部周辺地域はカリシ部のシャーデク郡に組み込まれた。この区分はワルシャワ公国時代でも変更はなかった。

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第1次ならびに第2次ポーランド分割の概略地図

2. プロイセン土地調査
恐らく1793年末には、あるいは1794年年初にかけてには、プロイセンの支配者達は南プロイセン州の領域にあるすべての都市の経済と人口に関する情報を入手していた。プロイセン土地調査と呼ばれる特別なアンケート調査に対して各都市の市長達が回答したものであった。その後、プロイセンによる支配が本格化した後改めてプロイセン政府は文字通りのドイツ的几帳面さで各都市で視察を行った。当時の市文書によると、ウッチの所有者はルィビンスキという名のクヤーヴァの司教と記録されている。また当時の資料によると、ウッチにはもっぱら農業で生計を立てている農奴が190人いた。現在はOgrodowa(オグロドーヴァ)通りに移転しているグールキ・プレバンスキェの聖ヨセフ教会と呼ばれた小さなカトリック教会があり、木造を含む「家」が44戸あった。そのうち11戸は完全な陋屋であった。4箇所の公共の井戸があり、同数の私的な井戸があった。水車も一つあった。興味深いのは市場が2つあったことだ。一つは市営(スタールィ・ルィネク、旧市場)で、もうひとつは教会の教区司祭の所有になるもの(ワゲヴニェキ通りと教会広場との角)だった。市区域に18の広場があり、穀物倉が44あった。これらの穀物倉は現在のZachodnia(ザホードニャ)通りの一部、Drewnowska(ドゥレヴノフスカ)通りとOgrodowa(オグロドーヴァ)通りに挟まれた辺りに集中していた。手工業者では、皮なめし工が二人、金具取り付け工が一人、仕立屋が一人、8名!の車輪工、靴職人と大工が一人づつ。もっとも、これらの職人たちは農園も所有していた。ウッチ市民が支払っていた税金としては、住居税236ズロチ、消防税366ズロチ、皮なめし税292ズロチがあった。クヤーヴァの司教達は小都市毎に年間450ズロチを地代として、ウェンチッツァのスコラ哲学者は年間300ズロチを納めていた。ウッチ市庁を構成したのは、市長、4名の議員そして書記であった。歴史家の中には、44戸で人口191人という当時のプロイセンのアンケート資料は若干過小に過ぎると評価する人達もいる。1798年のプロイセンによる資料ではウッチの人口は369人で、1800年の資料では2倍以上の増加を示す428人となっているからである。もしかすると、市当局は新たな税への不安から自らが提示する人数を少なく申告し、また教会の教区司祭(例えば、グールキ教会)やスターラ・ヴェシの邸宅を申告しなかったのかもしれない。そう想像させるのは、ウッチおよび教区司祭領とその邸宅には1793年時点で約250人が住んでいたからである。

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19世紀初頭、ワゲヴニェキ通りと教会広場との角の辺りに教区司祭が所有する市場があった

3.市制権喪失の危機
原則的なドイツ人達はその貧困の度合いを勘案して、„civitas pauperorum”即ち市民の貧困化の原則に基づき1794年にウッチの市制権を剥奪する計画であった。ウッチを、市ではなく農村に変更するというこの計画は、ウッチ市が農村的な性格を備えた都市であり顕著な経済の活性化の展望が欠如していることをその根拠としていた。しかしその後、ベルリンから送り込まれた行政部はこの地域の著しい経済的可能性に着目し、この問題が再び取り上げられることはなかった。

4.教会財産の世俗化
ヴウォツワーヴェク司教区財産の世俗化が命ぜられ1798-1806年の間に実施された。この時期にウッチは段階的にクヤーヴァの司教への依存から脱し、 O. Flattによれば1806年にプロイセン政府の所有となった。そして翌年にはワルシャワ公国の版図に入ることになる。

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O. Flattによる文書の断片

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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