■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(002-2)

第二章 プロイセン領時代のウッチ(承前)

5.ドイツ人入植者たち
1793年の第二次ポーランド分割後、プロイセンの支配者たちはウッチ周辺の人口が過疎であり、この地域への大掛かりな植民が可能であることに着目した。そして、ウッチ周辺にいくつかのドイツ人居留地をおく計画が立てられた。Dabrowa(ドンブローヴァ)、Zabieniec(ジャビェーニェッツ)、Janow(ヤーヌフ)などすでに創設されていたいわゆる「オランダ人」居留地は数に入っていなかった。最初の居留地はEkonomiaLaznow(エコノミヤ・ワズヌフ)の周辺に作られた。森林を開墾してBruzyca(ブルジッツァ)またはLaznowskaWola(ワザノフスカ・ヴォーラ)といった村々が作られ、プロテスタント教会、郵便局、店屋など、植民者たちに必要な施設も供給されていた。そこにはポーランド語を解さない、とりわけバンベルク近辺出身の生粋のドイツ人が入植した(土地の農民たちはバンベルグ人達と呼んだ)。入植の権利を付与された植民者たちは、6年間地代の支払いが免除された。耕作に適した広大な土地がうまれた。建設された村は多くの場合レンガ造りであったが、市が開かれる中央広場から走る道沿いに小屋が点在しただけの小規模な村もあった。 ウッチ周辺のStoki(ストーキ)、Mileszki(ミレーシキ)、Bedon(ベドン)、Chojny(ホイヌィ)といった私有地の所有者たちが、自己の森林地を進んで廉価で売り渡したことは興味深い。人の住まぬ、文字通りの狩猟地であったウッチ周辺は、1799-1816にはすでに整備された賃貸借地の村落に変わっていた。計画的に作られたな六角十字路の村落Nowosolna(ノヴォソルナ)はこうして生まれ、周辺の Konstantynow(コンスタンティヌフ)は発展し、またドイツ人植民者や、主として機織り工からなる手工業者が、Zgierz(ズギェーシ)やOzorkow(オゾルクフ)に入植していった。

6.ノヴォソルナ
新たな植民の主要な地点になったのは、将来市制権を持つ都市となる計画であった SulzfeldもしくはSalzfeldという名の広大な居留地であった。この居留地は後にNowosolna(ノヴォソルナ)という名を与えられる。それまで森林地帯であった未入植の土地に、非常に特徴的な配置を持つ入植地が作られた。この配置は今に至るまでその形を留めている。中央広場から8つの道路が放射線状に広がり、これらの道路に沿ってドイツから来た入植者達が住む家が建てられた。Nowosolnaは早いテンポで発展し、プロイセン時代の末期には戸数及び人口でおそらくウッチを追い越していたと思われる。いずれにせよ、この居留地は1823年までには、市制権は持たないものの、ウッチ市の近郊にある諸都市よりも大きな都市になっていた。

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プロイセン植民者が設計したノヴォソルナの特徴のある放射線上の道路配置

7.最初の学校
ウッチには長い間学校がなかった。プロイセン時代の末期、ウッチ市民あるいは同時に占領行政府の発案により、学校立ち上げを前向きに検討することが決定された。1806年、この目的による募金がウッチ市で行われ、教師志望者達との交渉が開始された。1806-1807年の戦争で関連するすべての活動が中断されたものの、1808年10月中旬には学校開設にこぎつけた。しかし、開設の当初から様々な困難が積み重なった。というのも、市民達は教師達に種々要求を出して彼らの維持に必要な資金を供出することに積極的ではなかったからである。一方教師達は行政府の支持を模索した。紛争は激化した。最終的にウッチ市民達は資金供出を拒否し、子弟を学校に送ることを止めてしまった。こうして、最初の学校は機能を停止してしまう。

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1808年開校のウッチ最初の学校、現在シテルリング通りにあるミツケヴィチ記念第1小学校としてその伝統を今も維持している

8. アントニェフ、オレフフ、アウグストゥフ
プロイセンの占領行政府はさらにいくつかの居留地を設置した。おそらく1790年台に既にKarkoszki(カルコシキ)、Antoniew(アントニェフ)そしてOlechow(オレフフ)といった地域に居留地が設置された。これらのうち一番目のKarkoszki居留地は、従前からカルコシキと呼ばれていた森を開墾して作られた。建物といってはわずか数戸で、現在のDworzec Fabryczny(ファブリチナ駅)とul. S. Jaracza(ヤラチ通り)、ul. G. Piramowicza(ピラモヴィチ通り)に挟まれたエリアにあった。一方、アントニェフ居留地ははるかに規模が大きく、場所は現在のul. Wojska Polskiego(ヴォイスコ・ポルスキェ通り)、ul. Strykowska(ストゥリコフ通り)そしてul. Telefoniczna(テレホニチヌィ通り)に挟まれたエリアにあった。かつて17世紀には無人のLipinki(リピンキ村)と呼ばれていたところである。プロイセンの資料によると、この居留地の1799年の人口は257人(1820年台前半には800人を超え、ウッチもしくはノヴォソルナに次ぐ規模となる)であった。 アントニェフの住民の大半は手工業、とりわけ織物工業に従事していた。現在のウッチ市の領域にある最初の手工業「村」の一つもこのエリアにあった。三番目のオレフフ居留地は中規模の居留地で、現在のOlechow(オレフフ)とOlechow Maly(小オレフフ)のエリアにあった。やや遅れた 1798-1802年には、当初 Friedrichshagenと呼ばれた居留地が生まれた。この居留地はワルシャワ公国時代にAugustow(アウグストゥフ)に改称される。当初十数戸の小規模な村であったが、現在地名もそのままの郊外が広がっている。プロイセンの占領行政府の指示で、新たに設置された村々にはドイツ人限定で入植が行われるはずであったが、実際はこのプロイセン色が出ていたのは、ノヴォソルナとオレフフだけであった。アウグストゥフ、 アントニェフ、特にカルコシキでは住民の民族構成は雑多であった。

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かつてのカルコシキ居留地があったエリア、同名の森の一部は鉄道駅の脇にあるモニューシコ記念公園として残っている

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考資料)
1.『東欧史(新版)』( 「世界各国史シリーズ」第13巻、山川出版社刊、1977年)
2.Historia szkoły w Łaznowie (ここ)

(了)

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