■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(003-2)

第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ(承前)

4.国民衛兵組織をめぐる争い

ワルシャワ公国時代、軍隊の補完組織である国民衛兵組織をめぐり、一部のウッチ市民と行政府との間で激しい争いが生じた。国民衛兵は戦時に市および周辺地域の秩序維持に当たることになっていた。この国民衛兵組織に、18歳から50歳までの男性が徴集され、自費もしくは市の費用で軍服と武器を整えることとされた。

1809年にオーストリアとの戦争が勃発すると、行政府は市長に対し、国民衛兵の然るべき支部をウッチ市に組織するよう指示を出した。装備は徴集された者達の拠出金によって購入された。市会評議員のPelzowskiとKuzielowiczを頭に仰いだウッチ市民の一団がこの義務に異を唱えたが、反抗は不発に終わり、首謀者達には制裁金が課された。その後かなりの時間が経過しかつ行政府側からの重ねての警告を経た後にようやく36名のウッチ市民から成る国民衛兵が組織された。1811年にはその数は53名に増え、その一部は1812年に域外にも送られた。ナポレオン軍が敗北した後ウッチの国民衛兵組織は消滅した。ウッチ市長は行政府に対し1815年に「そのような衛兵組織は存在しない」と報告している。


(写真17) ナポレオンによって興されたワルシャワ公国は希望を伴ったものであったが短命に終わった


(写真18) 現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに19世紀初頭Lodka(ウートゥカ)と呼ばれたささやかな部落が生まれた、後に際立った産業集落となるウッチはおそらくこの名から取られたものと考えられている

5.新たな部落の誕生

1815年以前もしくはワルシャワ公国が存在していた初期の時期、現在のウッチに当たる領域に新たな部落が生まれ、これらの部落にはポーランド人が入植した。 Grabieniec(グラビェーネッツ)、Henrykow(ヘンリクフ)、Gorki(グールキ)、Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)などで、Lodka(ウートゥカ)やKoziny(コジヌィ)もこれらの部落に含まれるであろう。

GrabieniecはZlotno(ズウォトゥノ)村とKaly(カーウィ)村に挟まれ、現在のSzczecinska(シチェチンスカ)通りとRabienska(ロンビェンスカ)通りに沿って広がる領域に散発的に家屋が存在していた。大きな村で、その住民の大半は周辺のガラス工場で働く人々であった。

HenrykowはJanow(ヤーヌフ)村、Widzew(ヴィーゼフ)村、Stoki(ストーキ)村に囲まれた小さな部落だった。わずか数戸を数えるのみでほぼ現在のHenrykowska(ヘンリコフスカ)通りに沿った領域にあった。Gorkiも同じく数戸を数えるのみの部落で、ほぼ現在のGorki Stare(グールキ・スターレ)に当たる領域にあった。

Kowalszczyznaは当初は単独の、後には2つの家屋からなる部落で、Dabrowa(ドンブローヴァ)の南に作られた。ほぼ現在のSlaska(シロンスカ)通りとZygmunt(ジグムント)通りが交差する辺りに位置していた。Lodka(ウートゥカ)と呼ばれた部落には当初わずかニ戸しか存在しなかった。部落は現在のOrla通りとPilsudski大通りに挟まれた辺りに位置していた。後の1827年にLesniewskiが作成した図があるが、おそらくはそこに示されているStrzelcとMarcychの林間コロニーがその場所であろうと考えられている。

一方、Kozinyは森番小屋一戸があったきりで場所を特定するのは容易ではないが、現在同じ名称をもつ集落にその場所を想定することが出来そうである。


(写真19) かつての市長兼警察長官ユゼフ・アウフシラグ

市の公式文書によると、1794年のウッチ市長はDrewnowicz(ドゥレヴノヴィチ)であった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により市長Drewnowiczが罷免され市会評議会が解散させられた後Sempftと呼ばれる人が警察長官に任命されたが、まもなくプロイセン軍の将校であったAufschlag(アウフシラグ)がその後を襲った。彼はウッチ市民に対して、無慈悲でかつずる賢く貪欲であったようで、名誉ある記憶を残していない。プロイセン支配のウッチでかなりの財産を積み上げた。前線の戦況が変わりナポレオン軍との戦闘でプロイセン軍が敗北した後、Aufschlagはウッチ市の新たな指導者であるJezewicz(イェゼーヴィチ)に権力を引き渡した。彼の名はまた、国民衛兵組織ウッチ支部の創設をめぐって市内に生じた争いにも結びつけられている。彼は辱めを受けたかつての警察長官として争いの先頭に立ち、このような指揮官のもとで活動の情熱は冷え込み、事実上国民衛兵組織は崩壊した。かつての警察長官であった彼自身は、新市長Szczwinski(シチヴィンスキ)の支持も得られず、ウッチからいづこともなく離れ去った。

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?

(了)

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