■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-1)

第四章 ダイナミックな発展の端緒

ウッチ市はナポレオン時代末期にすでに経済発展の端緒を示し、その後ロシア領ポーランド王国(ポーランド立憲王国)政府の産業プログラムによって本格的に鼓舞されていくことになる。


(写真20) 1815年のウィーン会議の討議風景

1815年のウィーン会議の結果として生まれたポーランド立憲王国の存立の初年々、現ウッチの領域にあった集落群は非常に過密化していた。整理すれば以下のようになる。

(1) 村落: Baluty(バウーティ)、 Brus(ブルス)、 Chocianowice(ホチャノヴィッツェ)、 Chojny(ホイヌィ)、 Kaly(カーウィ)、 Lagiewniki(ワゲェヴニキ)、 Modrzew(モドゥジェフ)、 Moskule(モスクーレ)、 Radogoszcz(ラドゴシチ)、 Retkinia(レトキーニャ)、 Rogi(ローギ)、 Rokicie(ロキーチェ)、 Sikawa(シカーヴァ)、 Stoki(ストーキ)、 Widzew(ヴィーゼフ)、 Wolka(ブルカ)、 Zarzew(ザジェフ)、 Zlotno(ズウォトノ)

(2) 分農場: Jagodnica(ヤゴドニッツァ)、 Ruda(ルーダ)、 Stara Wies(スターラ・ビェシ)、 Wojtostwo Lodzkie(ヴォイトストヴォ・ウッツキェ)

(3) 製粉所部落: Chachuła(ハフーワ)、 Charzew(ハージェフ)、 Kalski(カールスキ)、 Ksiezy(クシェンジィ)、 Lamus(ラームス)、 Miejski-Mania(ミェイスキ・マーニャ)、 Pabianka(パビアンカ)、 Rokicki(ロキーツキ)、 Urban(ウルバン)、 Wiskicki(ヴィスキツキ)、 Wojtowski(ヴォイトフスキ)のKulam-Pila(クラム・ピーワ)

(4) 1782-1795年に入植された有料の「オランダ人」入植地: Antoniew(アントニェフ)、 Dabrowa(ドンブローヴァ)、 Grabieniec(グラビェーネッツ)、 Henrykow(ヘンリクフ)、 Janow(ヤーヌフ)及びZabieniec(ジャビェーニェッツ)

(5) プロイセン時代の通常の入植地: Augustow(アウグストゥフ)及びOlechow(オレフフ)、並びに後に有料入植地となるLagiewniki Male(ワゲヴニキ・マーウェ)、Moskule Male(モスクーレ・マーウェ)

(6) その他の部落:
森林部落後の農業部落: Karkoszka(カルコーシカ)、Zarzewek(ザジェーヴェク);
森林管理部落:Koziny(コジーヌィ);
いわゆる手工業者部落:Budy Sikawskie(ブーディ・シカフスキェ);
ガラス工場部落:Huta Chojenska(フタ・ホイェンスカ)、Huta Rogowska(フタ・ロゴフスカ);
農・手工業部落:Kowalszczyzna(コヴァルシチズナ)など。

1820年代初頭の現在のウッチの領域全体で小都市を除く56の様々な形態の部落があり、戸数は783戸、人口は6700人であった。ウッチだけでは、戸数97戸、人口939人であった。ポーランド立憲王国が成立したあと区分変更があり、ズギェシ郡がマゾフシェ県ウェンチッツァ州に組み込まれた。

カリシ県の領域にあった全ての集落は、政府直轄区Pabianice(パビアニッツェ)に属すことになった。現在のウッチの領域にある他の部分では、直轄区Laznow(ワズヌフ)の領有になっていたウッチ周縁部の諸部落だけが政府直轄となった。ウッチ市の中心部を除いて直轄区から外れたのは、Wolka(ブウカ)、Widzew(ヴィーゼフ)及びZarzew(ザージェフ)、Augustow(アウグストゥフ)、Stara Wies(スターラ・ビェシ)及びWojtostwo(ヴィトストヴォ)、Mania(マーニャ)、Lamus(ラムス)、Kulam-Pila(クーラム・ピーワ)、Ksiezy Mlyn(クシェンジィ・ムウィン)及びWojtowski Mlyn(ヴィトストヴォ・ムウィン)、Koziny(コジヌィ)、Podlodz(ポッドウッチ)及びLodka(ウートゥカ)、Karkoszka(カルコーシカ)及びZarzewek(ザジェーヴェク)であった。.

ウッチ周縁部は、直接ウッチに接する地域で、都市・産業計画事業が行われる領域に割当てられた。現在のウッチに相当する領域の諸部落は複数の異なる教会教区に属し、これが地域活動の重要な中心となった。最大の教会教区はウッチ教区で、東部地区はMileszki(ミレーシキ)教区に、北部の諸部落はZgierz及びDobra(ドブラ)教区に、Zlotno(ズウォトノ)とJagodnica(ヤゴドニッツァ)はKazimierz(カジミェシ)教区に、そして西南部の諸部落はPabianice(パビアニッツェ)教区に属した。



(写真21と22) 1577年から使われてきた印章を1817年のSzczawinski(シチャヴィンスキ)市長の文書に見ることができる、以降はロシアの双頭の鷲の紋章が使われるようになり、20世紀になるまでウッチの紋章は姿を消していた


(写真23) ウッチがロシア領となったあとの境界地図

(訳者注記)

(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし

(了)

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