■ 梅田芳穂さんとウッチ(その2)

梅田さんについては、ウッチにもゆかりの日本人ということで昨年七月に一度取り上げ(ここ)、すぐにでも続編を書くつもりでいたのであるが、すでに十ヶ月もたってしまった。昨年の投稿をアップした直後は、投稿の手がかりになったポーランド語の記事にある「語り手」のキンガさんに自分も直接会って話しを聞くつもりでいた。それが実現せぬまま今日まできてしまったのである。キンガさんは、筆者が住んでいる建物から2つほど先の建物に住んでおられ、近いが故にいつでも会えると思い延び延びになってしまったというのが実際のところなのかもしれない。

それが今日ようやく実現させることができた。事前の約束もせずに訪ねて行ったのであるが、暖かく迎えていただき、お菓子とお茶をご相伴させていただきながらの歓談となった。もとより、梅田さんの詳しい伝記を書くなどというような壮大な目的があるわけでもなく、聞き取りのための準備をしていたわけでもないので、新事実の発見というようなことはなかったが、前回投稿の元になった記事で回想されている梅田さんの思い出話を確認させていただくことができた。


キンガさんとそのご夫君

著作権のことを考えて前回の投稿には記事の翻訳は含めないようにしていたのであるが、今回キンガさんから直接当時の話しを聞くことができたし、以下にウッチの梅田さんに関する部分の拙訳を掲げておく。

「Yoshiho(梅田芳穂さんのこと)は1963年にワルシャワに到着しました。荷物の中には、亡くなったお父上(梅田良忠教授のこと)の遺灰の入った骨壷もありました。遺灰はポーランドにとの故人の希望があったのです。私達の両親はウッチでYoshihoを迎えることなっていたので、子供の私達がYoshihoに会ったのも、私達が休暇を過ごし、同時に発掘現場でもあったSzarpskoに行っていた両親が帰ってきたあとのことでした。」

「かわいい、色黒の、心なしかビクついた感じの、13歳の少年でした。ポーランド語もわからず英語もさほど得意ではなかったYoshihoは、すぐに私達の心を捉えてしまいました。この頃のことは彼にとって苦しいというよりも恐怖に似た体験だったのではないかと思いますが、陽気な性格で、エネルギーに溢れかつ行動派であったYoshihoは、それが表面に出てくることはあまりありませんでした。私達と一緒に松林を駆けまわり、Pilica川で水浴しといった具合です。Yoshihoがトンボ返りや反転をした時は私達を本当にびっくりさせたものです。自分の勇気や能力があることを誇示することに意を用いていたようで、私達をいつも冷や冷やさせていました。」

「私達の父は当初からYoshihoの教育に本腰を入れていました。Yoshihoに、Wieslaw Kotanskiのポ日辞書から毎日ポーランド語の単語を10づつ覚えるようにといつも要求していました。これを助けたのは、Yoshihoとほぼ同じ年頃の妹のEwaでした。Yoshihoはこの勉強にあまり熱心ではなく、そのせいか私達が初めて知った日本語の言葉は「禿げた頭」という言葉でした。Yoshihoは、私達の父が単語の習得具合を見にやってくると、父のことをこの日本語でしかも大声で呼んでいたからです。私達の父はこれが気に入っていて寛容でしたが、妥協はしませんでした。というのも、バカンスが終わるとYoshihoはウッチの高等学校で勉強を始めることが分かっていたからです。Yoshihoのお気に入りはStobnicaでのバカンスで、Pilica川や松林も気に入っていました。」

「Yoshioは、Sienkiewicz通りにあるウッチ第3高等学校で勉強を開始します。第1学年は教室で授業を聴いているだけでしたが、それでも少しづつ勉強に慣れていき、後には優等生になっていました。それでも学校では苦しい時期を体験したようです。私達の母はある日、学校から帰った彼が壁に向かって座り、何度も英語でNo Hope, No Hopeと繰り返しているところに出くわしています。幸いこれはまもなく過ぎ去り、Yoshihoはクラスの重要人物になっていきました。Yoshihoは、当時ポーランドではほとんど知られていなかった日本製音響製品を日本から持ってきていて、その頃流行りだったビートルズ、ローリングストーンズ、赤いギターといった音楽グループの曲を録音することができたこともその理由の一つでした。」オリジナル:Grazyna Przanowska 氏署名の記事「かわいい子には旅させろというが。。。。」(2003年、出所未詳)


ウッチ第三高校

キンガさんとご夫君の思い出話には、ポーランドに居を移した他の日本人の方々のことも話題に上った。その中には筆者も旧知の方の名前も挙がっている。改めて周りを見回してみると、ポーランドにゆかりの日本人の中で梅田さんと同世代の方々はすでのその二世が社会で活躍している。北米や西欧諸国とは比較にならないながらも、共産圏時代を知らない比較的若い人たちもどんどんポーランドにきているようだ。梅田さんのお子さんの一人でご息女のHanaさんも日本舞踊の世界で活躍されている。実は、別の投稿に書いた、ウッチ大学経済社会学部とYakumogotoクラブとの供催で行われている今年の日本デーでそのHanaさんも踊りを披露され、筆者も言葉をかわす機会を持った。もしかしたら、このことがキンガさんからの聞き取りを自分に思い切らせるきっかけになったのかもしれない。

(了)

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