■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(004-2)

第四章 ダイナミックな発展の端緒(承前)

1.1820年 – 新生ウッチのスタート

ウッチを産業中心地に再編成するという計画のうち初期のものは、地域社会の中枢からあらわれた。すでに1815年に、ウッチ市長Szczawinski(シチャヴィンスキ)が上層部に具申している。しかし、一連の決定(写真28)がポーランド立憲王国総督によって発せられたのはようやく1820年9月18日のことで、1820年7月にRemwielinski(レンヴェリンスキ)が騎馬でこの地域を視察し、その結果が精査された後のことであった。その決定に基づき、紡織関連の集落がウッチに生まれることになる。ウッチのみならず、マゾフシェ県に属するDabie nad Nerem(ドンビェ・ナド・ネレン)、Gostynin(ゴスティニン)、Przedecz(プシェデチ)、Zgierz(ズギェシ)にも同様の集落が生まれることになった。

<ウッチ以外にも、マゾフシェ県に属する以下の都市も産業都市に指定された>


(写真24)ズギェシ


(写真25)ゴスティニン


(写真26)プシェデチ


(写真27)ドンビェ・ナド・ネレン

前述したレンヴェリンスキは視察後に報告書を作成したが、その中で当時重要とされた以下のような産業立地条件を挙げて、ウッチに紡織関連の集落を開設する旨の決定を下すべきであるとしている。

ー ウッチの特徴である市後背地に広大な市有地が存在すること;
ー 水量豊かで流れの早い川や小川があり、また既存の揚水装置や、撹拌、圧縮、染色を行う施設への転用が容易な水車なども存在していて、水利条件に恵まれていること;
ー 建設資材、特に木材やレンガなどを安価で調達することが容易であること;
ー 街道沿いに立地していること;
ー すでに入植している入植者や手工業者、とりわけガラス職人、紡織工などが存在していること;
ー それまで発展が遅れていた地域の振興を目指せること

以下、1820年に作成されたレンヴェリンスキの前述報告書の一部を紹介しよう。

(。。。。)ウッチ市。ズギェシと同じくピョートルクフ街道沿いにあるが別の川に面していて、深い森に包まれた、そしてそのおかげで利益を生み出しそうなウッチ市を訪れた。三年前、川の水嵩が増し、ほぼ市中にあった水門付きの政府管轄水車が流されてしまう事態が発生したが、その同じ場所に良質の撹拌施設やレンガ工場を建てることができるだろうし、手作業で建設作業につく人々に価格価値がない近隣の直轄森から運ばれる木材を無料で供給することができる(。。。。)

レンヴェリンスキは早くも三年後、新市街に集落が建設されていること、Grobelny(グロベルヌィ)水車があった場所に撹拌施設が建設され始めたことを報告している。


(写真28)決定

<歴史百科編者によるコメント>
ポーランド立憲王国では、Staropolski(スタロポルスキ)工業地帯を除き、農業が主体だった。とりわけ、ラシャや亜麻布を用いた繊維製品の不足は顕著であり、そこから産業のこの部門(繊維部門)の優先順位が高くなったのである。。。。。繊維製品の不足は、ポーランド立憲王国がいわゆるヴェルコポルスカの繊維工業地帯から切り離されことも原因となり、ポーランド中央部が必然的に消費市場となった。ポーランド立憲王国の農村では小物の繊維製品に特化されたが、ラシャその他の繊維製品の需要を満たすことができないほどであった。内需(軍用、民生用)の他に、繊維産業の発展に好条件をもたらす重要な要因になったのは、1821年にロシアとの協定が締結され特恵関税が導入されたことにより、ロシア帝国への輸出の可能性が増大したことであった。また中国向けラシャ製品の輸出に対するプロイセンへの優遇措置が撤廃されたことも大きく影響した。


(写真29)オスカー・フラットの記述から


(写真30)ザヨンチェク公、ナポレオンの敗北後ロシア皇帝アレクサンドルI世からポーランド立憲王国の総督に任命される、在位1815−1826


(写真31)ドゥルツキ=ルベツキ公、ポーランドの政治家、1821−1830ポーランド立憲王国財産相


(写真32)モストフスキ伯爵(1766−1842)、ポーランド立憲王国内務相

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考)
特になし
(了)

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