■日々つれづれ(2017-05-31)

今回の投稿は、イラスト付き歴史百科の翻訳という当ブログのメイン・テーマにちなむ投稿である。以前、同様の趣旨で現在少しづつ翻訳している歴史百科第三巻の目次を概観した投稿をアップしているが(ここ)、今回は、最終目標である第五巻までの内容を概観するということで、編者のGrzegorczyk氏による各巻の巻頭言を改めて通して見てみることにする。第三巻については今年中に翻訳のめどをつけようと頑張っているが、第四巻、第五巻となると、そもそも翻訳が成るのかどうか正直覚束ないところもあって、ここで一度全体を見通しておこうというのが本投稿のきっかけである。

(第三巻)当巻で対象となる時期は、ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間であるが、ウッチ市の発展に決定的に関与するのはそのうちの数年間である。プロイセン領時代でも、ワルシャワ公国時代でも、小農村に新たな息吹の表れはまだなかった。当時は、Zgierz(ズギェーシ)とStrykow(ストゥリクフ)の近くに横たわる農村という扱いだった。動き始めたのは、いわゆるポーランド立憲王国時代に入ってからである。事実上5年間でウッチ市の将来の運命が決定された。この時期にウッチ市の基礎ができ、その発展の主要な方向性が示された。ちなみに、1820年にマゾフシェ県委員会の長Rajmund Rembielinski(ライムンド・レンビェリンスキ)がウッチに姿を現した時の人口は800人ほどで、現在の旧市街に相当する地区の世帯数は120だった。ウッチには1822年まで外国人の手工業者や工場主は見当たらなかったが、その5年後ウッチにはまったく新たな状況が出現していた。旧市街は拡張されて新市街が生まれ、また市南部にはLodka(ウトゥカ)と呼ばれる居住区が誕生した。後者にはドイツ、チェコ、シロンスク、そしてヴェルコポルスカからの植民者が引き入れられ、1820年代の終わり頃には約5千人がウッチに入植していた。新市街には織物業に従事する人々が、Lodka居住区には亜麻織物や綿織物に従事する女工を含む職工達が入植した。また元の旧市街にはユダヤ人街が生まれた。こうして、主としてRajmund Rembielinskiの働きで、ほんの数年間で新たなウッチ市が誕生した。我々は、彼の記念碑を建ててもよい程の功績をRembielinskiに負っていると言えよう。

(第四巻)当巻の巻頭言では、19世紀後半のウッチにおける出来事の目撃者であるOskar Flattの記述、すなわち1853年に発行された同氏の著書『ウッチ市について』から引用させて頂くことにする。同書は数度にわたりリプリントされているが、にもかかわらず広く知られているとは言えない。同書は我がウッチ市について書かれた最初の書であるし、その記述に触れることは意味あることと思う。Oskar Flattは書いている。「国中見回してもウッチ市ほど産業の恩恵を受けている都市はないのではないだろうか。産業のおかげで、完璧な忘却と虚無から、発展と富の蓄積がこれほどの水準にまで高められた都市、突如として産業による活力が現れ出た都市、一言で言えば典型的な産業都市以上の都市。。。。ウッチは綿織物産業で我々の先頭に立っており、その発展自体と、その当初からその後の過去30年間にその産業活力が示した弛まず変化するテンポによって、特別な注目を浴びている。」

(第五巻)本巻ではいよいよ19世紀後半の時期に入る。この時期にウッチ市はダイナミックな発展を遂げ、ウッチ市には織物産業の一大センターが建設された。もちろん、これまでの巻で記述されてきた出来事や事実でも明らかなように、変化の速度とダイナミズムが記録的なものであったとはいえ、すべてが一時に成ったわけではない。確かに、18世紀末から19世紀半ばにかけてウッチ市の人口は100倍に跳ね上がった。それでも、当時のウッチ市の人口は小都市に数えられる規模の約2万人に過ぎなかった。その後10年毎に平均2倍の速度で人口が増えていく。1860年代には4万人、1870年台には8万人という具合で、世紀の境目には30万人超に達した。人口の増加が5千人から1万人の規模であるうちは都市のステータスに実質的な変化はない。しかし、増加が数万人から数十万人の規模となるとそれは質的な変貌を意味し、ウッチ市は小都市から大都市に移行した。さらに言えば、わずか30年から40年の間にウッチ市は大工業都市に変貌した。これは言うまでもなく特筆すべき現象である。そして、まさにこの変化の第一波は本巻で扱う1860年代になされたのである。それは何よりも、ウッチ市の絶え間ない拡大と産業の機械化であり、製造部門における大工場の出現であり、Karol Scheiblerを頂点とするウッチ・ブルジョアジーの発生であった。同時にそれはまた、社会不安と暴動の時代であり、愛国的蜂起の時代でもあった。しかし、こうした事件でブレーキは掛かったものの、ウッチ市という巨大な機械は活動を止めることはなかった。本巻では、いわゆる大ウッチ市建設の歴史が引き続き記述されていく。それは、巨大な運命と資本の都市、なによりも苦難な労働に従事する都市の、生き残りをかけた闘いの歴史であった。「Piotrkowska 104」 編集長Arkadiusz Grzegorczyk

上記のうち第三巻と第五巻の巻頭言については再掲であるが、第四巻の巻頭言は今回翻訳したものである。その過程で、このイラスト付き歴史百科の基本文献にも挙げられかつしばしば引用されているOskar Flattの著書を電子版で手に入れることができたことは大きな収穫であった。

最後に、あまりきれいに撮れていないが、ピョートルコフスカ104番地の近影写真を以下載せて置く。イラスト付き歴史百科の編者であるGrzegorczyk氏のオフィスは、写真で見えている入り口から中庭に入って真っ直ぐ行った、市役所の建物のなかにある。この百科を日本語に翻訳してブログに載せることを快諾くださったGrzegorczyk氏にここで改めて感謝の意を表しておきたい。

(了)

カテゴリー: ポーランド・ウッチ, 日々つれづれ タグ: , パーマリンク