■ 梅田芳穂さんとウッチ(その3ー最終回)

■ 梅田芳穂さんとウッチ
■ 梅田芳穂さんとウッチ(その2)

ウッチにおける梅田芳穂さんをテーマにしたシリーズの投稿も今回で3回目。手元にある資料の紹介は一段落するし、ひとまず今回で区切りを付けておくことにする。ただし、ブログのカテゴリー(大きなテーマの一つ)として残しておくので、機会があれば続編を投稿していこうと思っている。

梅田さんは筆者よりも4歳年上で、筆者がポーランドに移住する30年も前にポーランドに移り住まれている。この30年間のうち、特に1981年12月13日の戒厳令発令の後に国外追放措置(1982年?)を受け、その後に永住権を回復するまでの約10年間を、自分が経験していたことと照らし合わせながら最初に考えてみたい。

この10年間は、梅田さんにとっても筆者にとってもほぼ人生の30代に相当する。梅田さんにとっては家族との離別を強要された失意の時期であったと言えるであろうか。一方で筆者は、時期は少しずれるが、ポーランド人と知り合い結婚して家族を形成するとともに、本格的な職業人生を経験した時期であった。梅田さんと初めてお会いするのもこの頃である。

しかし、自分の回想はこの位にしておこう。梅田さんのウッチ時代に話しを戻す。梅田さんがウッチ時代に寄宿していたヤジジェフスキ家のキンガさんからお借りした本の中に、梅田さんについての本格的な伝記『Wolny agent Umeda i druga Japonia』(Anna Nasilowka著)がある。ただし、ポーランド語である。

梅田さんほどの著名な活動家であれば日本語による伝記の企画があっても不思議ではないが、ネットでチェックした限りでは、実際に出版された日本語による伝記はまだのようである。となるとやはり、上述の伝記を紐解くより手がないのかなと思う。ポーランド語の大部な本で、全文に目を通すとなるとかなりの作業になるのであるが、本ブログの主題であるウッチに係る部分だけでもと思い拾い読みを始めた。

まず目次を眺めてみる。全文を読み通している訳ではないので確定的なことは言えないが、叙述は編年体になっているようだ。さて順にたどっていくと、中ほどに「1963-1970:Yoshiho – ウッチとザコパネ」という章がある(第五章)。梅田さんのポーランド到着は1963年のことだから、この章が自分が読みたい部分ということになる。

章の初めに梅田さん自身が語られたご自身の家族のことについての記述がある。筆者は直接面識がないが、古くからポーランドに住んでおられる日本人としてしばしば耳にする鴨治晃次画伯のことなど、興味深い記述に溢れている。この記述によれば、画伯は梅田さんの従兄弟に当たり、梅田さんの父君梅田良忠博士をしばしば訪問し、欧州美術に大きな関心を示していたそうだ。そして、1958年(59年?)にポーランドに移住している。1935年生まれだそうだから、20代前半でポーランド移住をされたことになる。画伯についてはポーランド語版ながらウィキペディアにも個別の項がある(ここ)

梅田良忠博士が亡くなった1961年12月から半年ほど経って、芳穂さんは母上から、博士の遺言で遺された男子二人のうち一人がポーランドに行くことになっていると告げられる。活動的な性格の男の子であった芳穂さんは、自分が故父君の意志を次ぐことをほとんど迷うことなく決めたそうである。

成人してはるか経ってからの10代の頃の記憶は、その後の経験で無意識の内に誇張されていることがよくあるが、後年母君も芳穂さん自身が決めたことと受けあっているそうであるから、よほど意識的な決断であったのであろう。

芳穂さん自身、故父君の意志はひょっとしたら息子のうちのどちらかがポーランドに留学するということであったのかもしれないと回想している。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。とにかく、結果として父君の早すぎたかもしれない逝去はその後の芳穂さんによるドラマを生み出した。

次いで、ヤジジェフスキ家で芳穂さんを受け入れることになった経緯が回想されている。芳穂さんは、父君は最初から受け入れ先はヤジジェフスキ教授と決めていたようだと回想している。一方、ヤジジェフスキ家の子供達の一人で前掲書でしばしば引用されているエヴァさんは、間接的ながらも自分達一家が最終的に受け入れを決断させるような書き方で受け入れ先の探索を依頼されていたと回想している。

筆者は1993年末にポーランドに移住してきたが、移住に当たっては様々な書類の準備が必要であり、随分と走り回された。これに先立つこと30年前の1963年当時の状況がどのようであったかは容易に想像がつく。とにかく準備が整い、芳穂さんは1963年7月にナホトカに向けて横浜港を出発した。筆者も、1978年6月に観光旅行ながら同じ航路で横浜ーナホトカ間の船旅を経験しているが、当時日本からソ連に入るには航路でまずナホトカにというのが普通であった。

この後に、偶然同じ船に同行した日本人女性に関する逸話が記述されているがここでは省略する。とにかくポーランドになんとか到着した芳穂さんは、ポーランドでの最終目的地であるウッチのヤジジェフスキ家に向うが、その前にワルシャワに短期間滞在する。ワルシャワでは前述の鴨治晃次画伯とも会う機会があり、同画伯がウッチのヤジジェフスキ家の住まいまで芳穂さんを送り届けたようである。

「ウッチに移動した小旅行のこともよく覚えている。列車で3時間ほどの旅程だった。ヤジジェフスキ教授の家はとても大きく、広さは100平方メートルはあった。まずヤジジェフスキ教授が出迎えてくれたが、その時の会話は英語でしたように思う。家にはおばあちゃん達の他には誰もおらず、教授の子供達は、ヤジジェフスキ教授が指導する発掘現場を兼ねた夏季休暇先に出払っていた。その日ウッチの家で寝たのかどうか、もうよく覚えていない。多分翌日だったと思うが、ストブニッツァというところにある発掘キャンプに連れて行かれた。ストブニッツァは、スレユフの南30キロほどのところのピリッツァ河畔にあった。砂の高い土手の上に鳥達が巣を作っていた。」(前掲書185頁に記載された梅田芳穂さん自身の回想から)

以上、『Wolny agent Umeda i druga Japonia』からごくごく一部分を拾い読みしてきた。ここまでの内容でちょうど最初の投稿(ここ)につながっていく。ポーランドに到着してから、ワルシャワに移って本格的な活動を始めるまでの、ウッチでの梅田さんの生活について日本語で紹介するというのがこの3回の投稿の目的であった。ここで一区切りとしておきたい。

(参考)
Anna Nasiłowska, “Wolny agent Umeda i druga Japonia.”, Wyd. Premium Robert Skrobisz, przy współpracy Algo Sp. z o.o., 2013, ​ISBN 978-8389683-72-4
本投稿では、原著の断片を翻訳しブログに記載することにつき著者から許可を得た上で紹介させて頂いている。​

(了)

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