■日々つれづれ(2018-08-09)ー川のことなど

今回の投稿は、「■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど」(ここ)の続編で、自由広場とは反対方向のピョートルコフスカ通りの端にちなむ川がテーマ。ブログのメインのテーマにしている「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の翻訳の方は相変わらず停滞したままだが、せめて前回の投稿で宿題にしていたサブテーマだけでも前に進めようということで、3時間ほど時間をかけて「散歩」してきた。散歩そのものは夏の旅行に出掛ける前に行っていたのであるが、その後日本各地で水害が発生して落ち着かぬ気持ちの中、未整理のままになっていた。今、夏の旅行も無事に終えたのを機会に短文にまとめてみた。

ブログを始めてから改めて認識したことであるが、ウッチは19世紀の繊維産業の興隆によって新興大都市の地位を得た一方で、かつての自然をずいぶん失ってきた。科学と環境破壊、自然との調和などというテーマは本ブログの主要テーマではないが、失われた自然を見直そうという市などの活動には共感を覚える。以下のビデオはそうした動きの一例である。当ブログのようなごく狭い領域を扱ったブログに目を留めて読んでくださる読者であれば、ポーランド語を解するか否かは別にして、ポーランドさらにウッチのような地方都市に少なくとも関心は抱いていらっしゃるであろう。ざっとでも眺めて頂けると有り難い。


<ウッチ市制作のプロモーション・ビデオ>

 

前回の投稿に記したように、「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の第五章にはピョートルコフスカ通り誕生の発端についての記述がある。

「ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。。。。近隣都市間をつなぐ、可能な限り直線の舗装道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあったカルチマに隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。」

第3巻の目次によれば、ピョートルコフスカ通りの本格的な誕生物語は第十一章(未訳)に詳述されているようであるが、この第五章で一先ずピョートルコフスカ通りの立地が決まった経緯が記されている。これによれば、通りの両端はいずれも川に掛けられた橋であったらしい。上に提示したビデオでも、主としてこのウトゥカ川とヤーシェン川が紹介されている。今回「散歩」の目的は、ウトゥカ川とは反対側にある(あった?)ヤーシェン川を確認することであった。

現在のピョートルコフスカ通りの半分、つまり自由広場からミツケーヴィッチ通りまではトラムが走らぬ通りになっている。時にタクシーが入ってきたり、リキシャと呼ばれる自転車と人力車の中間をいくような車両が通るが、基本は歩行者用の遊歩道。この区間をトラムで移動するには直ぐ横を走るザホードニャ通り迄移動すれば複数のトラムが利用できる。一方通りの残りの半分では、ミツケーヴィッチ通りにあるハブ・ステーションを経由して複数のトラムが走っている。今回は、ピョートルコフスカ通りの一方の端にある旧市街公園を抜けて、ショッピングセンターのマヌファクトゥーラの横から2番のトラムに乗り、独立広場で降りる。所要時間は30分弱。

<ハブ・ステーション>

かつては、途中のビャーワ・ファブリカ(白亜工場)から独立広場迄の辺りにはヤーシェン川が流れていたはずであるが、現在はその面影もない。川の名残りを目にするためには少し歩かなくてはならない。今回はガイドブックなどに頼らず、地図の表示を頼りに、現在も川の名残りをとどめていると思われる地点迄「探検」してみた。興味があれば、グーグルの地図で以下の記述を辿ってみるのも一興かも知れない。因みに、検索バーに入力する際はピョートルコフスカではなくピョトルコフスカのように長音記号を省いた方が良いようだ。

< 独立広場付近1>

< 独立広場付近2>

独立広場で降りたあと、進行方向に向かって100mほど行くと斜め右に折れるパビアニツカ通りがある。この通りを道なりに折れてしばらく行くとブルチャンスカ通りにぶつかる。戻るようなイメージで少し歩いてピェンクナ通りを左に折れると、確かにそれらしき「名残り」があった。

<ブルチャンスカ通り>

<ピェンクナ通り>

地図の正確さに感心すると同時に探検者の感動みたいな感覚が湧いてきて、思わず写真を撮る。川と言っても、日本の川のイメージとは随分かけ離れている。それでも、日本では江戸時代末期に当たる19世紀初めの当時は、それなりの水量があったのではないだろうか。上で紹介したウッチ市制作のビデオをもう一度再生し、こうしたことに思いを馳せることも有用かもしれない。

<川に降りる石段>

<川の名残り>

(了)

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