■自分にとっての同時代史と現代史

冒頭からまた数字遊びでは、先を読む気を削いでしまう恐れがあることをあえて承知で書くなら(仮に読者がいるとしてではあるが)、実は歴史についても数字遊びをやって楽しんでいる。もちろん、学術的な理論を構築などという大それたことは考えておらず、文字通りの「遊び」である。

生まれてからの世界の一連の動きを「同時代史」と呼ぶことに、言葉の使い方として異議を挟む人は少ないと思うが、生まれる以前の歴史となると様々な見解があると思う。ただ、自分の生と深く結びついた「現代史」とそれ以前の文字通りの「歴史」とに大きく2分することについては、概ね賛同して頂けるのではないだろうか。問題は、現代史というくくりでどこまで遡れるのかということだ。

今、現代史の形容として「自分の生と深く結びついた」と書いた。別の表現をすれば、現代史として捉えられる事柄とは、好き嫌いを超えて、無条件で受け入れざるを得ない、自分の生の前提条件のような事柄ということである。あるいは、起こったことの結果が、否定を拒むほど根強く残っている、そうした事柄のことである。少なくとも、自分はそう考えている。

さて、ここで数字遊びが登場することになるのであるが、哲学史によく出てくるフランス生まれの哲学者に倣い、当座の準則、仮の原則を立てて、それがどこまで妥当性があるのかを探っていく。いろいろ考えていても切りがないので、思い切って、生まれる前の100年間を仮に現代史と考えてみることにする。

まず日本史でいうと、1853年-1854年にいわゆる黒船来航があった。日本が欧州文明との対決を迫られた象徴的な事件だ。以後、明治維新までの期間をさして「幕末」と呼称されている。言葉の定義はさておき、自分の生の前提条件となる日本現代史は、先の準則に従えば、日本が欧州文明との対決を迫られ、受容を決意し、興亡を経験した100年間ということになる。

この100年間を更に探索していけば、自分の生を回想する上で様々な発見が出てくるのであろうが、20代の初めに選択した人生の課題は、明治の先人達が苦闘した、欧州文明とは何なのかを追求するということであった。もちろん、当時はそれほど明確な意識を持っていた訳ではない。今から思えばということである。一つ付け加えておくなら、仏教という切り口ではあるが、欧州文明の受容と興亡の歴史を追求するという選択肢も実は当時あった。しかし、残念ながら人生は一度きり。やり直しという選択肢はない。

ということで、欧州に目が向いていったのであるが、日本による欧州文明の受容と興亡の歴史に深く関わったアメリカ合衆国には、なぜかあまり関心を抱かなかった。黒船のペリーにしても、GHQのマッカーサーにしても、国としての相手は同じアメリカ合衆国である。しかし、自分の関心は、もっぱら欧州本体に向いていた。ただし、当時の壁の向こう側の地域に。最初はロシア、そしてポーランドにというように。

前回の投稿(■ロシア語からポーランド語へ)で書いたように、前半生のキーワードはロシア(当時はソ連)、ロシア語である。そして、ドストエフスキー。まず、ロシア及びその周辺でこの時期にどのような事柄があったのかを辿っていくことにしよう。歴史年表からの抜書であるが、改めて書き出してみると意外な発見がある。参考にするのは、山川出版社刊『世界各国史4ロシア史(新版)』(1979年)の年表である。本書は、某社の依頼で新刊短評を書き、何某かの稿料を初めて頂いた、自分にとっては夢多き青年時代の、想い出深い一冊である。

。。。(1846年ドストエフスキー『貧しき人々』。)1853年クリミア戦争(-1856年)。1861年農奴解放令。1863年-1864年ポーランド立憲王国(実質ロシアの属国)1月蜂起、チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』。1866年ドストエフスキー『罪と罰』。1870年第一インターナショナル・ロシア支部設立。1872年マルクス『資本論』最初の露語訳。1877年露土戦争(-1878年)。1880年冬宮爆破事件、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。1881年アレクサンドル2世暗殺、ドストエーフスキー死去。

1885年プレハーノフ『われらの見解の相違』。1887年アレクサンドル3世暗殺未遂(ポーランドのピウスツキ兄弟も連座、流刑)。1891年大津事件。1898年ロシア社会民主労働党(後のソ連共産党につながる)、ミンスクで第1回大会。1899年レーニン『ロシア資本主義の発達』。1903年ロシア社会民主労働党第2回大会、ボリシェビキとメンシェビキに分裂。1904年日露戦争。1905年「1905年革命」。1912年第1次バルカン戦争。1913年第2次バルカン戦争。

1914年「第一次世界大戦」(-1918年)。1917年「二月革命」、そして「十月革命」。1918年ブレスト講和条約調印、「シベリア出兵」。1919年コミンテルン第1回大会。1920年コミンテルン第2回大会、ポーランド・ソビエト戦争(-1921年)。1921年コミンテルン第3回大会。1922年コミンテルン第4回大会、ソ連邦(ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国、ザカフカースの各共和国)成立。

1924年レーニン死去、スターリンの「一国社会主義論」、コミンテルン第5回大会。1926年スターリン『レーニン主義の諸問題』。1928年コミンテルン第6回大会、ソ連邦第1次五カ年計画。1929年世界恐慌始まる。1935年コミンテルン第7回大会(最後の大会)。1939年「ノモンハン事件」、独ソ不可侵条約、ポーランド分割。1940年バルト3国ソ連編入。1941年独ソ戦開戦。1945年ソ連軍、ポーランドなどへ進攻、ポツダム会談。1948年ベルリン封鎖(-1949年)。1950年朝鮮戦争(-1953年)。1953年朝鮮戦争停戦協定、スターリン死去。。。

この100年の動きを自分なりにあえて短く整理するなら、それは、欧州の理想主義思想の一つであった共産主義ないし社会主義が、発祥地ではなく東に寄った帝政ロシアに移植され、「思想」が「国家」の形をなしていく過程、歴史である。ドストエフスキーも、この過程の中で作品を生み出していった。そして、好きとか嫌いとかではなく、その歴史の紛れもない結果が、生まれた時に自分を取り巻いていたのである。

ということで、この準則もそれなりに一つのイメージを与えてくれることが分かった。ただ、ドストエフスキーについては、処女作を起点にするにしても、準則から少しずれてしまうし、作家の生涯ということで捉えるなら、更にスケールを過去にずらさねばならない。よって、今回の準則とは別に、機会を改め回想しようと思う。できれば、ドストエフスキーの作品に現れるポーランド人というようなテーマでまとめられればと考えている。また、100年のロシアの歴史の中に見え隠れしているポーランドの歴史についても、追ってまとめてみようと思っている。

(了)

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