■旧ソ連とロシア語のことなど

人の手が加わったものなのかどうかの詮索はさておき、世界中に広まったウイルスの影響で、それまでとは全く異なる「世界」に住まざるを得なくなって半年強が経過した。第二次世界大戦後のいわゆる冷戦が、自滅とも言える旧ソ連の崩壊で終結し、全面核戦争のリスクもほぼなくなったと思っていた自分を取り巻く世界が、再び絶えざるリスクに覆われてしまった。どちらのリスクがより深刻かなどという比較はあまり意味がないが、強いて違いを挙げれば、今回のリスクの方が「日常性」を奪う度合いは大きいと言えるかも知れない。

自分が住んでいる地域の人達に日本語を教えるというリタイア後の仕事も、在宅のテレワークに変わってしまったし、バスやトラムなどの公共交通機関は原則利用しないと決めたので、付近を散歩したり、ちょっとした買い物をする時以外は自宅を出ることもなくなってしまった。こうした新しい「日常」の中で生活を始めて3ヶ月ほど経った頃、自分に残された時間はあまりない、ということにふと思い至った。それやこれやもあり、2年間店晒しにしておいたブログのコンセプトを全面的に見直して「新装開店」にした。

新装後のブログでは、プライベートな回想を公開している。公開するということは、読者を想定するということである。しかし、あくまで回想であるから、何かを主張するという意図はないし、度を越えた「告白」をする積りもない。それからさらに4ヶ月経った。その間、6月中に2回、7月に9回投稿している。1ヶ月半程の間に11回の投稿は、2年間ほったらかしにしていたことを考えれば、随分集中して綴ったものだと我ながら思う。その後また中断してしまうのであるが、今回の投稿はその期間中に起こったことに関連している。

新装直後の勢いでアップした投稿を読み返してみて改めて気付かされるのは、自分の人生には「言葉」との関わりという基調音が流れているということである。テレビや映画が、文章を読むという楽しみに取って代わることはなかったし、今でもそれは変わらない。高校時代も、大学の文学部に在籍していた当時も、決して優等生ではなかったが、「読む」という行為だけは途切れることがなかった。

書かれた言葉が、話される言葉に変わっていくのは、ロシア語と出会ってからである。きっかけは19世紀のロシア文学だったが、結局ロシア語が生活の糧を得るツールになった。この辺りのことについては、既に何度も書いているが、ロシア語というテーマでここで再び触れるのは、ベラルーシで起こった抗議行動と、ナゴルノ・カラバフを巡るアゼルバイジャンとアルメニアとの間で勃発した地域戦争という2つの出来事に触発されたからである。

といっても、研究者やメディアに登場するコメンテーターがするような論評を行うことがこの小文の目的ではない。前述したように、あくまでも自分の人生という横糸にキーワードとしてロシア語という「言葉」を据えた回想である。何故ロシア語か。それは、どちらの出来事も、現地に関する新鮮な情報を、ロシア語を介して、いながらにして入手することが出来るからである。現地語での情報もあるが、自分が理解できないニュースは当然「情報」にはならないので、こちらは参照程度である。

旧ソ連崩壊後に生まれた世代にはなかなかピンとこないかもしれないが、自分がロシア語を学んだ当時(ほぼ半世紀前のことになる)は、ロシア語話者は日本の隣国旧ソ連全域におり、旧東欧でもそれなりに通用した。ユーラシア大陸の大部分で利用価値があった言語だったのである。一方で、旧東欧圏の言語はロシア語を介して学ぶというのが当時は普通のプロセスで、自分もポーランド語はロシア語を介して習得した。その観点でも、ロシア語は重要な言語だったのである。

話しがやや横道に逸れるが、ここで「ソ連邦」という国について少しおさらいをしておこう。ごく大雑把に言えば、18世紀から20世紀初頭にかけての、現在中東欧と呼ばれるエリア(仮に、ドイツ、ポーランドの中欧、ウクライナ、ベラルーシ、それにバルト3国を含めた東欧としておく)は、いわゆるポーランド三国分割(1772-1795、主権回復は1918)に典型的に示されているように、プロイセン王国を前史かつ主体とする「ドイツ帝国(1701-1918)」とエカチェリーナII世後の「ロシア帝国(1762-1917)」の新興2帝国がその支配者であった。

共産主義思想はこの時期、このエリアで生まれる。そして、西ではなく東に版図を拡張していたロシア帝国で、ソ連という国家共産主義の国家が生まれていく。死滅するはずであった「国家」が、それも共産主義の衣をまとったソ連邦という国家が誕生する筋道を付けたのはレーニンであるが、その路線を具現化したのは言うまでもなくスターリンであった。国家共産主義の東進は、この時から始まる。

現在、ベラルーシやナゴルノ・カラバフで起きていることを理解するには、旧ソ連が成立する歴史的、思想的背景について知っておくことが肝要なので、簡単なスケッチを試みたが、柄でもない長講はこの位にして、話題を再び自分の経験に戻すことにしよう。

文学のロシア語ではなく、当時のソ連で実際に使われている実用的なロシア語を学ぶ決心をしたのは、大学を卒業して少し経った頃だった。そのために進んだ語学学校で最初に覚えさせられたのは、ソ連邦を構成する15の連邦構成共和国の名前とその首都名である。東・西シベリアと極東はロシア連邦に含まれていたが、それ以外は民族共和国に分かれていた。ソ連で制作された動画を見ながらナレーションを聞き取り、かつその内容を丸暗記するという作業であった。

スラブ系のウクライナとベロルシア、そしてモルダビア。中央アジアのウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、そしてやや別格のカザフスタン。コーカサスのグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン。そして沿バルトのエストニア、ラトビア、リトアニアである。因みに、政体としてのソ連邦の崩壊後に独立国となった各連邦構成共和国では名称が変更された国が複数あるが、ここでは当時のまま挙げておく。 

すでに述べたように、全ての連邦構成共和国で公用語はロシア語だった。ソ連邦では、公用語のロシア語の他に民族語が存在するということを自分が体験したのは、まだ二十代の頃に観光旅行で訪れたエストニア共和国が最初である。今から思えば、北方とはいえ欧州の一角に位置し、様々な歴史的経験を有する沿バルトの国で、民族意識、民族語への意識が高いのは、当然といえば当然であった。その後、商社で旧ソ連貿易に携わるようになり、様々な共和国や都市を訪れることになる。

ポーランドに移住する前、日本で商社勤めをしていた8年間、都合20回、旧ソ連もしくはCIS(独立国家共同体)に出張した。ソ連時代は、駐在員事務所があるモスクワが拠点となっていたので、20回のうちの大半は中継地となるモスクワにも滞在した。政体としてのソ連邦が1991年に崩壊し、バルト3国を除く12の旧連邦構成共和国によるCISとなった後は、モスクワを経由せずに直接地方都市に入ることが出来るようになり、極東の地方都市に何度も出張した。因みに、1991年は4回出張している。それまで閉鎖都市であったウラジオストックにも出張したが、当時は完全には開放されておらず、今思えば微妙な出張であった。

ロシア語と民族語ということを改めて意識することになったのは、ポーランド移住後に輸送会社の駐在員としてウズベキスタンのタシケントに駐在していた時である。当時、ウズベキスタンでは、ソ連邦崩壊後の民族化政策が既に進行しており、ロシア語を解さぬウズベク人の税務署員とやり取りをするという経験もした。法律の条文なども完全には民族語化されておらず、そういうメチャクチャな環境で仕事をした。

このように限られたささやかな経験であるが、それでも、エストニアとウズベキスタンでの2つの経験を通して、旧ソ連における民族問題の一端を垣間見たと言えるのではないかと思っている。そして、再び大風呂敷を広げ、「知識」としてあえて言うならば、実は旧ソ連の民族問題は15の連邦構成共和国の枠内で収まる訳ではなく、広大なロシア共和国内の少数民族群は言うに及ばず、中央アジアやコーカサスの各共和国内でも少数民族が住み、民族問題が存在している。

特に、中央アジアとコーカサスの旧連邦構成共和国の国境問題はスターリンによって人工的に作られたフシがあり、根が深い。まさに現在進行中のナゴルノ・カラバフ問題は、そうした複雑な国境問題の一つである。基本的には、アルメニアとアゼルバイジャンとの間の問題であるが、コーカサスのみならず中央アジアにも利権を持つトルコがこれに絡んできているので、更に複雑になっているようだ。ただ、正直言えば、この問題については、自分はうんぬん出来るような知識をあまり持ち合わせていない。とにかく、戦争が中央アジア地域に広がらないことを祈るだけである。

一方、ベラルーシの抗議行動については、居住国ポーランドの隣国ということもあり、直接的な関心を抱いて見守っている。通常、ベラルーシのみならずウクライナは、ロシアと同系統の民族とされている。言語的にも東スラブ語群というくくりで扱われているし、旧ソ連の連邦構成共和国であったために、当時は、表向きは別にして、これら3民族は政治的にも一つのグループとして扱われてきた。実は、ここにコーカサスや中央アジアとは異なる民族問題の根が潜んでいる。ここでは領土が問題なのではなく、微妙な潜在意識が問題である。そして、それは、ウクライナとベラルーシの側というよりは、むしろロシアの側にある。いや、ロシアと言うよりは、ロシア人と言ったほうがより正確だろう。

前述したように、18世紀から20世紀初頭にかけて、中東欧エリアの支配者はドイツ帝国とロシア帝国であった。ソ連邦を「国家」として完成させたスターリンは、ロシア帝国の「後継者」というカードを有効に使った。特に、ベラルーシとウクライナは、民族国家としての経験がないか、あっても浅かったため、スターリンはこれらの2民族をロシアの「後継者」であるソ連邦内に取り込むことに成功した。勢い、ベラルーシ人とウクライナ人は、ロシア人の下にある下級民族の地位にとどめ置かれた。1991年に政体としてのソ連邦が崩壊したあとも、この構図は基本的に不変であったようだ。今度はロシアが、ロシアはソ連邦の「後継者」というカードを有効に使ったのである。

ウクライナは、6年前にユーロマイダン革命を成し遂げ、民族意識を覚醒させた。その後、宗教的にもロシアによる従属からの解放を実現させた。キエフ・ルーシの継承者という「意識」を事実上奪われてしまったロシア人にとって、精神的なショックは相当なものであったろうと想像される。それにも増して大きかったのは、ロシア人にとっても、ウクライナ人にとっても、潜在意識下にあった「ウクライナ人は下級民」が意識の表面に出てきてしまったことだ。良心的なロシア人にとって、このことは大きな棘になったはずである。

そして、今度はベラルーシである。今回の抗議行動の起点がいつなのかについては複数の捉え方が出来るだろうが、自分に引きつけて言えば、8月の9日と10日の擾乱ではなかったかと思う。ちょうど、バルト海沿岸の保養地に8月1日から2週間の予定で出掛けており、普段自宅ではほとんど見ないTVニュースを毎日のように見ていて、このニュースを目にすることになった。その後の様子については、twitterにレポートしているので、関心があればリンクで過去のツイートを参照していただければと思う。6年前のユーロマイダンとの違いを指摘するなら、現地からの動画を含む生の情報は、Facebookではなく主としてTelegram-kanalのチャンネル(複数)から入ってきたこと。インターネットTVでは、ロシア系のtvrainが活躍していた。ポーランド系のBelsatも、その他のメディアも、基本的にはベラルーシ語(?)での報道で、自分としてはtvrainの情報が一番役に立った。

自分にとっての、今回のベラルーシにおける抗議行動の意味は、折々twitterでつぶやいているが、まず触れておかねばならないのは、6年前のウクライナのケースとの違いである。8月11日に以下のようなツイートをアップしている。「ウクライナとベラルーシとの一番の違いは、6年前のこの歌の歌詞に端的に示されているように思う。良い悪いではなく、超えることが出来ぬ「歴史」の違い。一方で、若い世代の未知の可能性ということもある。自分が生きている間にその成果を目にすることが出来るか。」

その後、8月16日の時点で、こうツイートした。「民族国家としてのベラルーシが生まれつつある。同時に、一党独裁国家であった旧ソ連の一角がまた一つ崩れることになる。結局最後に残るのはどこか。中央アジアか、コーカサスか。少なくともスラブ系に関してはこれで確定する。」

翌日には続けて、「文字通りスターリン後の時代を生き、政体としてのソ連邦崩壊を経験し、宗教的な独立ウクライナを目の当たりにし、そして昨日は、民族国家ベラルーシの現実的な可能性を見た。今朝は、これまでの自分の人生をまとめておきたい気持ちで一杯。」と、個人的な感興を込めたツイートをアップしている。

その後の事態の推移について言えば、ルカシェンコが大統領宣誓式を強行した9月23日辺りから流れが変わったように思う。その頃から、チハノーフスカヤの動きがにわかに活発になったし、全国調整会議委員のコヴァリコヴァやラティシコもメディアに頻繁に登場するようになった。チハノーフスカヤは、恐らく、リトアニアとポーランドを行ったり来たりしていると思われる。一方、直近ではまず英国が政権側に対する個人制裁を決め、カナダや米国、そしてようやく欧州連合も制裁措置を決めている。制裁リストにルカシェンコを含めているのはトップを切った英国だけであるが、効果が期待できることに大きな変わりはないだろう。

最後に、視点をもう一度欧州からユーラシア大陸の中央に戻しておこう。ナゴルノ・カラバフ紛争が勃発したのは、ルカシェンコが、大統領宣誓式を強行した9月23日の直ぐ後の9月27日だった。ロシアは今でも、このエリアにおけるトルコ以上の利害関係者である。そのロシアでは、反体制派と目される、アレクセイ・ナヴァーリヌイの「暗殺未遂」事件があり、統一地方選挙があり、極東ハバロフスクでの抗議行動が続いており、ニージェニー・ノブゴロドでは内務省の横暴に抗議する焼身自殺事件が起きている。短期間のこれだけの動きで、ロシアも変革に向けて動き出すと判断するのは、あまりにも近視眼的、短絡的過ぎるだろうが、何かが動き始めている予感がする。

自分は、旧ソ連とロシア語に同伴する形で人生を送ってきた。そして、その過程で様々なサプライズを経験してきた。であれば、生きている間にさらなるサプライズを目にすることもひょっとしたらあるかも知れない。自分の個人的な関心に限定するのであれば、こうした予感も許されるのではないだろうか。

(了)

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