■日々つれづれ(2018-09-13)ーブズーラ川

日本語の個人レッスンを授けていた中学生の男の子が、この9月から高校に上がり、学校の授業に集中したいということで日本語のレッスンを中断すると伝えてきた。9月はこの授業だけを予定していたので、いきおい今月も夏季休暇の続きをすることになった。

若干拍子抜けの感もあるが、ポジティブに考えれば自分が使える時間がまたできた訳で、早速前回の投稿で宿題になっていた、ズギェシを流れるブズーラ(Bzura)川の探索をしてきた。地図を眺めることを厭わない方は、以下では前回の投稿にある地図かグーグルマップを参照して頂ければと思う。

いつものように6番のバスに乗る。定期券はウッチ市の境界を超えると無効なので、ズギェシに入る時に別途切符を買わなければならない。筆者はスマートフォンで処理するが、紙の切符を利用している人もまだ多く、境界があるバスストップで検札する人々をよく見かける。

前回はズギェシのバスターミナル迄乗ったが、今回は途中で下車して、先ずコンスタンティヌフカ通りに掛かる川の「名残り」を見届けることにする。地図を見ると分かるが、ズギェシの街を走る主要道路である国道91号線(旧1号線)を境にして西側にブズーラ川の一部が走っている(流れている)。

以前ウッチを流れるヤーシェン川を探索した際と同様、地図を頼りにコンスタンティヌフカ通りのそれらしい場所まで進むと、確かに小川が流れているのが確認できる。但しささやかな流れは叢の陰に隠れ、普通に歩いていては恐らく見落としてしまうであろう。注意深い人なら、橋が掛かっているのでその下に流れがあるであろうくらいは想像するかもしれないが。ということで、第一の目的は達成。上述の小川を何枚か写真に収め、そのままコンスタンティヌフカ通りを進んで、カトリック教会を横目に見ながら街の中心に出る。

話題は少し脇道にそれるが、ウッチは、西のドイツと東のベラルーシとを結ぶ鉄道の幹線から少し南に外れており、西から鉄道で移動してくる際は、このズギェシを通って更にその先にあるクトゥノという駅が最寄り駅になる。ベルリンなどからウッチに来る場合、クトゥノで乗り換えて鉄道で来ることも可能だが、地元の人達は乗用車かクトゥノ・ウッチ間を走るミニバスで移動することが多い。その場合通常はこのズギェシの市内を通り抜ける。目印は上述のカトリック教会と国道91号線を挟んで反対側にあるマック。特定の商業施設の宣伝まがいは好ましくないが、ここはご容赦願うことにしたい。ということで、今回はマックでコーヒーブレイク。

コーヒーを飲んで一休みしたあと、今度は川の途切れた先の部分の探索に移る。マックを出て裏通りを少し行くとそれらしい場所がある。その先の市営(恐らく)の貯水池に繋がっているせいか、前述の小川よりは若干整備されている。流石に舗装はされていないが、両岸は散歩道になっていて、バギーを押す幼児を連れた母親が散歩していた。貯水池はポーランドの英雄タデウシ・コシチューシコの名が冠されている。

この貯水池に至る前述の短い水流が川と名付けられるとして、実はこの川は貯水池を経て更に先につながっている。地図を少し拡大してウッチ市域を含めた上で改めて眺めると分かるが、最終的にはウッチ・ワゲヴニキ地区のアルトゥルーヴェク公園に至っている。当ブログのメインテーマはウッチの歴史を探っていくことであるが、川という視点で見ていくとウッチの外に出ていかざるを得ない。前回と今回の投稿はその最初の試みということになるであろうか。

(了)

■日々つれづれ(2018-08-22)ーウッチの川について

本投稿は3月以降サブテーマにしてきた「ウッチの川」に関するまとめ編。メインのテーマである歴史百科第3巻の翻訳の第五章に、ウッチの名所であるピョートルコフスカ通りのいわば誕生物語とでも言える記述があり、これを自分でも辿ってみようと思ったのが発端のサブテーマである。投稿と言っても公開論文の翻訳であるが、「ウッチの川」の歴史を概観する上で大いに参考になるので、抄訳ながら紹介する。

参考記事1:■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど(ここ)
参考記事2:■日々つれづれ(2018-08-09)ー川のことなど(ここ)

当該論文は次のような構成になっている。

1.導入
2.参考文献とその利用に当たっての価値評価(付:総合地図)
3.現行ウッチ市域に14世紀から20世紀半ば迄に存在した水車
4.結語と注記

論文の主要部分は「3.現行ウッチ市域に14世紀から20世紀半ば迄に存在した水車」で、具体的な水車の由来などが記述されている。本投稿では、論文の主要部分の訳は別の機会に譲り、「1.導入」と、「4.結語」の最初の部分を翻訳して紹介する。また、2.に付された地図は、往時の状況をざっと掴む上で参考になるので併せ付しておく。

。。。

「歴史地図に基づくウッチ市域内に存在した水車の配置に関する研究」

1.導入

地域社会への意識が高まり、私達が住む近郊地域の地理的な環境の変化や歴史への関心が増大している。その結果として、既に歴史、文化、社会の変化に関する様々な啓蒙的な記事や学術的な論文が発表されている。ここ数年ウッチ大学水文学・水管理実験室によって行われているウッチ地方の水車の位置に関する研究もこの流れに位置づけられるであろう。その主要な目的は、ウッチが産業地帯として発展することに寄与した河川が、原初に有していたエネルギー・ポテンシャルの特定である。

産業化する以前の現在のウッチ市域には流れの早い小川がたくさんあり、そのために水力を利用した様々な設備が作られていた。そうした設備は、穀物の粉挽きはもとより、製材、縮絨(毛織物の仕上げ工程の一つ)、皮革なめし、そして樹皮粉砕等に利用された。産業化の初期には、水車の車輪を使い水を汲み上げる水力は、概して織物の圧延、糊付け、機織りの設備に必要な動力として使われていた。

現行ウッチ市域に最初の水車が現れたのは14世紀半ばと記録されている。そして、ヴウォツワヴェク司教区内の水車網が拡充されていくのに伴い、その数は18世紀から19世紀に移る頃迄に段階的に増えていった。こうした水車にはお手本があった。それは、1145年にウェンチッツァのBzura川沿いに作られ、このタイプの構造物ではポーランド最古のものとされている水車で、みなこれに似せて作られた。16世紀に提出された申請書によれば、それは3輪の水車であったようである。その後の数年におけるウッチ市域の水車の実数は変動した。修理が必要になったり、また火事で焼失したり、水害で壊れたり水に流されたりした水車があったためである。

それまでは農村の小都市であったウッチの歴史における転換点は、マゾフシェ県委員会議長(現在の県知事に相当)のライムンド・レンビェリンスキが視察を実施した1820年である。レンビェリンスキは、繊維産業に最適な場所を探していた。ウッチが選ばれたのは、立地条件がよい(立憲王国の境界に近い)、森林が豊富で粘土層に位置する(良好な建設資材がある)、そして機織り装置の動力源に適した流れの早い小川が多数あることがその理由であった。後に、正にそうした小川沿いに、シュライバー、グロフマン、ゲーエルといった人々の巨大な紡織工場が作られていき、一方それらの流域では都市が急速に発展していくのである。その当時あったウッチの川は、流路が幾度となく変更され、また技術的な必要に応じ堤防や遊水池が作られていった。

産業の発展に伴い、大半の水車は本来の機能を失っていった。農作物の加工という機能は、機織り機の動力としての機能に席を譲った。ただしこれも、短期間で様変わりしていく。1829年、マゾフシェ県のウッチで紡織業に携わる大規模事業者は例外なく水力を利用した部分的機械化に移行していた。例を挙げれば、コピーシュの工場では2輪の水力駆動機械が稼働し、ランゲ、ヴェンディシュ、ルンドゼーエル、ポテンパといった人々の工場でも、単輪の水力駆動機械が稼働していた。

蒸気機関が使われるようになると、エネルギー源としての水力の利用は衰退していき、相対的に利用価値が低下した河川は遊水池に姿を変えていった。こうして、かつての水車とこれに伴う水力は、大規模産業の端緒となったのである。現在、こうした水力設備の殆どはその痕跡を留めていない。とはいえ、古地図や古文書の上では今も存在し続けている。この小論は、現在のウッチ市域内において、水力を利用した設備の配置と、それらが機能していた期間を総合的に特定することを試みたものである。そうした設備は相当数に上っており、かつて存在した河川が大きなエネルギー的ポテンシャルを持っていたことを示している。小論はまた、この地域で水がどう扱われていたかを明らかにする契機ともなり得るであろう。

(「2.」及び「3.」は省略)

4.結語

現行のウッチ市域を流れる川には、時期は様々であるが、水車が少なくとも26台存在していた。そうした水車の脇を流れていた川のうち水力としての利用価値が最も高かったのは、ヤーシェン川であった。支流も含めると11台の水車が水力を提供していた。高低差が著しく、流域は土手を形成するのに容易な谷間になっていたことがその理由であったことは疑いをいれない。一方、当時はシュラフタ(ポーランド貴族)の所有地で産業ウッチの発展に直接は関与しなかったソコウフカ川については、殆ど資料がなく詳細は不明である。3番目の川はウトゥカ川で、そこに掛かる水車は現行ウッチ市域内にあった。ただ、その流域は徹底的に改造されたため、現在当時の姿形を目にすることはない。(以下略)

Pic-1

凡例
A:水車があった地点
B:現行のウッチ市を示す境界線
C:一級分水界(訳注:詳細はウィキペディアなどを参照)
D:産業化以前の河川系(推定)
E:現行の道路網

オリジナル:
1. 論文名:„Rozmieszczenie młynów wodnych na obszarze Łodzi w świetle wykorzystanych historycznych źródeł kartograficznych”
2.著者:
(1)Adam Bartnik, Pracownia Hydrologii i Gospodarki Wodnej Uniwersytetu Łódzkiego
(2)Dorota Bartnik, Biblioteka Uniwersytetu Łódzkiego
3.ソース:http://hydro.geo.uni.lodz.pl/uploads/file/pub_AB/2017_mlyny_Lodzi.pdf

(了)

■日々つれづれ(2018-08-09)ー川のことなど

今回の投稿は、「■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど」(ここ)の続編で、自由広場とは反対方向のピョートルコフスカ通りの端にちなむ川がテーマ。ブログのメインのテーマにしている「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の翻訳の方は相変わらず停滞したままだが、せめて前回の投稿で宿題にしていたサブテーマだけでも前に進めようということで、3時間ほど時間をかけて「散歩」してきた。散歩そのものは夏の旅行に出掛ける前に行っていたのであるが、その後日本各地で水害が発生して落ち着かぬ気持ちの中、未整理のままになっていた。今、夏の旅行も無事に終えたのを機会に短文にまとめてみた。

ブログを始めてから改めて認識したことであるが、ウッチは19世紀の繊維産業の興隆によって新興大都市の地位を得た一方で、かつての自然をずいぶん失ってきた。科学と環境破壊、自然との調和などというテーマは本ブログの主要テーマではないが、失われた自然を見直そうという市などの活動には共感を覚える。以下のビデオはそうした動きの一例である。当ブログのようなごく狭い領域を扱ったブログに目を留めて読んでくださる読者であれば、ポーランド語を解するか否かは別にして、ポーランドさらにウッチのような地方都市に少なくとも関心は抱いていらっしゃるであろう。ざっとでも眺めて頂けると有り難い。


<ウッチ市制作のプロモーション・ビデオ>

 

前回の投稿に記したように、「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の第五章にはピョートルコフスカ通り誕生の発端についての記述がある。

「ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。。。。近隣都市間をつなぐ、可能な限り直線の舗装道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあったカルチマに隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。」

第3巻の目次によれば、ピョートルコフスカ通りの本格的な誕生物語は第十一章(未訳)に詳述されているようであるが、この第五章で一先ずピョートルコフスカ通りの立地が決まった経緯が記されている。これによれば、通りの両端はいずれも川に掛けられた橋であったらしい。上に提示したビデオでも、主としてこのウトゥカ川とヤーシェン川が紹介されている。今回「散歩」の目的は、ウトゥカ川とは反対側にある(あった?)ヤーシェン川を確認することであった。

現在のピョートルコフスカ通りの半分、つまり自由広場からミツケーヴィッチ通りまではトラムが走らぬ通りになっている。時にタクシーが入ってきたり、リキシャと呼ばれる自転車と人力車の中間をいくような車両が通るが、基本は歩行者用の遊歩道。この区間をトラムで移動するには直ぐ横を走るザホードニャ通り迄移動すれば複数のトラムが利用できる。一方通りの残りの半分では、ミツケーヴィッチ通りにあるハブ・ステーションを経由して複数のトラムが走っている。今回は、ピョートルコフスカ通りの一方の端にある旧市街公園を抜けて、ショッピングセンターのマヌファクトゥーラの横から2番のトラムに乗り、独立広場で降りる。所要時間は30分弱。

<ハブ・ステーション>

かつては、途中のビャーワ・ファブリカ(白亜工場)から独立広場迄の辺りにはヤーシェン川が流れていたはずであるが、現在はその面影もない。川の名残りを目にするためには少し歩かなくてはならない。今回はガイドブックなどに頼らず、地図の表示を頼りに、現在も川の名残りをとどめていると思われる地点迄「探検」してみた。興味があれば、グーグルの地図で以下の記述を辿ってみるのも一興かも知れない。因みに、検索バーに入力する際はピョートルコフスカではなくピョトルコフスカのように長音記号を省いた方が良いようだ。

< 独立広場付近1>

< 独立広場付近2>

独立広場で降りたあと、進行方向に向かって100mほど行くと斜め右に折れるパビアニツカ通りがある。この通りを道なりに折れてしばらく行くとブルチャンスカ通りにぶつかる。戻るようなイメージで少し歩いてピェンクナ通りを左に折れると、確かにそれらしき「名残り」があった。

<ブルチャンスカ通り>

<ピェンクナ通り>

地図の正確さに感心すると同時に探検者の感動みたいな感覚が湧いてきて、思わず写真を撮る。川と言っても、日本の川のイメージとは随分かけ離れている。それでも、日本では江戸時代末期に当たる19世紀初めの当時は、それなりの水量があったのではないだろうか。上で紹介したウッチ市制作のビデオをもう一度再生し、こうしたことに思いを馳せることも有用かもしれない。

<川に降りる石段>

<川の名残り>

(了)

■日々つれづれ(2018-05-02)ーウッチ・ゲットー救出記念公園のこと

(関連記事:■ウッチ・ゲットー探訪)(ここ)
(関連記事:■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと)(ここ)

何気なく市の中心に出る気になり、途中ふっと思いついて前々回の投稿「■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど」(ここ)で触れた救出記念公園まで足を伸ばすことにした。同公園はウトゥカ川沿いに立地していて「川の形」を目にすることが出来るからである。着いた時には既に午後6時を回っていてエーデルマン記念対話(ダイアログ)・センター(ここ)は閉館していたが、二年前に初めて訪問した時にはできなかった公園内の散歩ができた。その際に翌日の5月1日にセンターのポドルスカ館長の案内で公園内を「散歩する」催しがあることを知り、翌日改めて出向いて催しに参加することにした。公園の全体図は同センターのホームページでも掲載されているが、Googleの地図を流用しており、リンクを貼るのは気が引けるので、ホームページから辿ってほしい。同サイトは英語版(メインページ上のメニューから「Suvivors’park->see on the map」を選択してクリック)も閲覧出来るようになっているので、容易く辿れると思う。

IMG_20180430_174317

(写真)ウトゥカ川

IMG_20180430_174950

(写真)対話センターの建物

救出記念公園の「救出」という言葉は、ウッチ・ゲットーからの救出の謂であり、救出というよりは「生還者」という言葉の方が相応しいかもしれない。悲惨を極めたウッチ・ゲットーを生き抜いて救出された人々を記念する公園ということである。ウッチ・ゲットーについては2016年8月に当ブログにもレポートの形で投稿している(冒頭の関連記事)。ウッチ・ゲットーそのものに関心を持たれる方はそちらの投稿をチェックして欲しい。その当時既に当該公園と対話センターを訪れていたが、その時は公園内をゆっくり見て回る機会がなかったので今回はいわば敗者復活戦である。センター館長のポドルスカさんは著名なジャーナリストで、同女史の履歴などはウィキペディアにもポーランド語ながら記事がある(ここ)。同女史とは今回が初対面になるが、100人近く集まった参加者の中で筆者が唯一のポーランド人以外の参加者ということで、幸い親しく話をする機会を得た。今回の「散歩の会」のような文化的な催しでは、ただのアジア系というだけでなく、さらに日本人であることが肯定的に評価されることが多い。スーパーで買い物をしたりする時はただの「黄色人種」にされてしまうのが常なのであるが。

IMG_20180430_174050

(写真)公園の銘板

さて当日5月1日の午後4時少し前に集合場所の対話センターの入口前に着くと、大半の参加者は既に集まってきていて、ガイド役のポドルスカ館長が館内から出てくるのを待っていた。まもなく、ポドルスカ館長が館内から出てきて参加者に対して歓迎の意を込めた挨拶を始めたが、思っていた以上の参加者数にやや嬉しい誤算という印象だった。ポーランドでも5月1日(レイバー・デイ)と同月3日(1791年5月3日憲法記念日)が国民の祝日で、狭間の2日も国旗の日と制定されており、現状公式には国民の祝日ではない労働日ではあるものの、いずれ3連休となって日本のゴールデン・ウィークのような大型連休になっていく可能性を秘めている。現在でも職場の都合で有給休暇が取れれば一週間以上の連休になる。従い、ポドルスカ館長がこの時期には遠出をする人が多く、ローカルのイベントに人は集まらないだろうと考えていたとしてもさほど不思議ではない。

ここから先は前述のサイトの公園全体図(地図)を見ながら読んで頂くと分かりやすいと思う。この日はセンターの建物の真下にあたる展望台からスタート。事前に順路が計画されている訳ではなく、「ガイドさん」のその時の気分で順路を決めて歩いていく気楽な散歩の会である。公園全体図の右下の方に見える渦巻き形をした場所にお気づきであろうか。文字通り渦巻状の小道を辿って上にあがるようになっている人工の「丘」で、その「頂上」がちょっとした展望台になっている。以下の写真2葉を見て頂くと分かるが、展望台にはヤン・カールスキの像を伴ったベンチが置かれている。もう一方の写真は、地図で言うと左方向に遠望したものである。ヤン・カールスキの名はテレビやラジオで耳にしたことがある程度で、本格的な事績は催しの後にウィキペディア(ここ)などで改めて勉強させて頂いた。ポーランド語ではあるが、ウィキペディア以外にも対話センターのサイトに様々な関連記事がある。そうした記事を拾い読みしているなかで、「人生の目的が自分のためだけではなく他者をも包含・転化した時点でそれはミッションと呼ばれる」という趣旨のコメントが目につき思わず共感した。カールスキの事績は、「ミッション」という表現が一番相応しいようである。

P1090008

(写真)カールスキのベンチ

P1090011

(写真)展望台からの遠望

ポドルスカ館長による興味深い説明を聞いた後展望台を降り、ちょうど上の2枚目の写真にあるようにウトゥカ川に向かって歩いていくと、途中に「生還者たちの記念樹」が広がっているのが分かる。ちょっと見た限りでは木そのものに番号札が付いているようでもなく、どの木が誰に属するものなのかよく分からない。筆者がポドルスカ館長の説明を聞き落としたのかも分からないが。ただ、植樹した生還者の名が番号と共に石版に記されて側道に敷き詰められており、少なくとも植樹した生還者の名前だけは確認できるようだ。進行方向からと逆方向からと2葉写真を掲げるので雰囲気は掴んでいただけると思う。

P1090013

P1090016

(写真)植樹者の銘板

さらに歩いていくとウトゥカ川に至り、川の向こう側に「正義の人々の石碑」(訳は仮訳、筆者の解釈は「ゲットーという現実に対して何らかの形で「正義」を貫いた人々」と理解する)が川に沿って建てられている。石碑には様々な人々の名前が銘板の形で嵌め込まれている。この石碑の配置は、いわゆるダビデの星の形を取っており、それは前述の公園全体図(航空写真版)でみるとはっきりする。石碑の前を流れる?ウトゥカ川の方に気を取られていたせいか、前日に公園をざっと見て回った時には気づかなかったことで、「散歩の会」の一番の成果かもしれないと思った。前日と頃合いもほとんど同じであったせいか、同じ男性が釣り糸を垂れていたのが面白かった。

P1090023

(写真)石碑の前で説明するポドルスカ館長

P1090022

(写真)釣りをするおじさん

来た時とは反対側の橋を渡ると、ジェゴタの碑が目に入る。「ジェゴタ」も催しの後にウィキペディア(ここ)などで改めて勉強させて頂いたことの一つである。

P1090027

(写真)ジェゴダの碑の前に立つポドルスカ館長

ジェゴダの碑に向かって左に進路を取りさらに歩くと分かれ道にぶつかる。これを右に折れて対話センターの建物に向かって歩いていくと「救出記念公園創設の碑」がある。

P1090028

(写真)碑の前で説明するポドルスカ館長

これでこの日の散歩の会は終了して解散。一部の参加者はさらにセンターの中に入って展示物などを見学した。

(了)

■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど

当地ウッチの人達に日本語を教えること、一方でウッチの歴史を日本語で紹介することの二つを自分の「仕事」と決めて日々を送っているが、今年はそのバランスを取ることを年始に目標として掲げた。昨年は、日本語を教えるという仕事に自分が何処まで対応できるか分からないまま見切り発車でいろいろな方面に手を伸ばし過ぎ、こちらの活動に偏り過ぎたからである。まだ十分に整理がついたわけではないが、ここにきて少しバランスを取り戻してきた。その分、ニつ目の活動であるウッチの歴史の翻訳紹介に時間が割けるようになり、第五章「旧市街の制定」の仮訳をようやく終えることができた。現在仮訳が済んでいる分のテキストはメニューの「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」から参照出来る。

目次だけで振り返ると、「第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺、第二章 プロイセン領時代のウッチ、第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ、第四章 ダイナミックな発展の端緒、第五章 旧市街の制定」までの仮訳が終わったことになる。残っているのは、「第六章 ダイナミックな発展、第七章 新市街の建設、第八章 最初の産業ブーム 1823-1824、第九章 新たな産業植民、第十章 三番目の市庁舎、第十一章 ピョートルコフスカ通りの誕生、付録 「ピョートルコフスカの乙女」伝説」である。このブログでも、「ピョートルコフスカ通り」を切り口にした投稿を時々アップしているが、歴史(の翻訳)に関してはその「誕生」にも至っていない。この第三巻の翻訳が曲がりなりにも目処がついたら、Rynkowskaさんの『ピョートルコフスカ通り』の紹介もおいおいしていきたいと思っているがまだまだ道半ば。

それでも、今回アップしたウッチ歴史百科第3巻の第五章にはこんな記述があり、多少は目標に近づいているのかなと思い少しホッとしている。「ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。。。。近隣都市間をつなぐ、可能な限り直線の舗装道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあったカルチマに隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。」

ウッチの普通名詞としての意味は、白水社刊「ポーランド語辞典」によると「ボート、小船」である。一方、川の名前になっている、そしておそらく集落の名前にもなっているウトゥカはその指小形だが、先の白水社刊「ポーランド語辞典」によると意味は「ボート、小舟」となっている。辞書編纂者の隠れた思いが推察される訳語であるが、日本語ではほとんど同意義ということである。ひとまず、ウッチという市名の文字通りの意味は「小ふね」としておいて間違いはなさそうである。ただし、市名の由来となるとウッチ=小舟と単純に規定はできないようだ。ウッチ郷土史の基本文献の一つである『ウッチ ー 市史 第一巻』を繙くと市名の由来についての記述がある(57-60ページ)。要旨をつかむだけの目的で辞書を引かずにさっらと斜め読みしただけであるが、様々なテーゼはあるものの歴史的にこうという結論は出せないと記述されている。まあ、無理のないところでまとめると、当時は中小の河川がたくさん市中を流れていたようであるし、少なくとも河川に関連した名称として定着していったと考えてよいのではないかと思う。

(参考)かつてウッチに存在した、または現在も一部を目にすることが出来る河川の地図は以下のサイト”Dawne rzeki Lodzi” (ここ)に詳しい。リンクがうまく開かない場合もあると思うので、ダウンロードした地図を以下提示しておく。

ウッチを流れていた多くの河川は「かつての」もしくは部分的に残っている河川になってしまっている。こうした河川の跡を順に辿っていくというテーマは非常に興味をそそられるが、ひとまずこれからの投稿用に残しておくとして、前述の「ウトゥカ川流域のグロブラの水車があった」場所のあたりを少し探索してきたので、最後に紹介しておく。現在の教会広場から北向きにあるバウタ市場まではズギェルスカ通りの一部になっているが、逆に南向きにある旧市場を経て現在の自由広場まではノヴォミェイスカ(新市)通りとなっている。このノヴォミェイスカ通りを挟むようにして立地されているのがスタロミェイスキ(旧市)公園である。その西側部分の更に西端はザホードニャ(西)通りに面していて、通りを渡るとショッピング・センターのマヌファクトゥーラがある。さて、ウトゥカ川であるが、前述のサイトの地図で見るとちょうどマヌファクトゥーラがあるあたりを流れていたようである。そして、スタロミェイスキ(旧市)公園を通って今の救出記念公園(ウッチ・ゲットーからの「救出」の意)の方に流れていっている。ただし、マヌファクトゥーラからスタロミェイスキ公園のあたりでは川の流れは地下に入ってしまっている。写真で雰囲気がつかめるかどうか分からないが、いくつかスナップを撮ってきたので参照頂きたい。


(写真1)スタロミェイスキ公園の中に立っている表示版


(写真2)同公園内から臨んだザホードニャ通りとその先のショッピング・センターのマヌファクトゥーラ


(写真3)同公園内の様子


(写真4)地下を流れるウトゥカ川の流れ、実際に地下を流れている!


(写真5)その場所を示す案内板

(了)

■日々つれづれ(2018-01-09)ーウッチ歴史百科第3巻の翻訳のことなど

今年最初の投稿は、昨年最後の投稿(ここ)の続編となる。以下で、イラスト付ウッチ歴史百科第3巻の翻訳全体について整理をしておく。翻訳そのものも若干追加してある(ここ)

イラスト付ウッチ歴史百科第3巻の翻訳は、2016年8月から当ブログに断片的に掲載されている。現状第四章までの翻訳が終っている。因みに、翻訳投稿の開始から約半年後の2017年2月2日の投稿(ここ)では「第二章までしか日本語にできていない」と記しているから、同じ分量を訳すのにほぼ2倍の時間が掛かっていることになる。第3巻全体で見ると一年半で第3巻の約3分の一を翻訳していることになるから、このペースでいくと第3巻全体を訳了するのにあと3年掛かることになる計算だ。読者も想定できない翻訳を一人でコツコツとやっていることを勘案すれば、こんなものかもしれない。ひとまず訳了予定は2020年末ということにしておこう。

今自分が手がけているのはまさに歴史の翻訳である。文字通りの「歴史」であって「現代史」ではないことに留意したい。何を持って「現代史」とするのかは人それぞれだろう。仮に、自分がそこに生を持った時代の歩みと定義すれば、自分がどれだけその時代に関わっていると意識しているか、いわゆる歴史意識をどのように捉えるかでその人の現代史が決まってくる。因みに、自分はこんな風に考えている。現代人の寿命をごく大雑把に100歳と仮定して、自分が生まれる100年前に起こったこととその帰結は自分にとって「現代史」と考える。100年より前に起こった出来事は自分にとっては「歴史」とする。科学の信徒や学術に携わる人達からみれば何と大雑把なということになるのであろうが、こうして過去を振り返って見ると案外色々なことが見えてくる。「歴史」を少し紐解くだけで現代史の欺瞞がはっきりするし、またその欺瞞の背景も見えてくる。繰り返すが、以上は全く根拠のない私見である。

さて、本題のウッチ歴史百科第3巻に話題を戻そう。この第3巻の目次については前述の2017年2月2日投稿に仮訳しておいたのでそちらを参照頂くとして、一点だけ確認しておくと、そこで叙述されている時期は「ポーランド第3次分割(1795年)から19世紀の20年代半ばまでの約30年間」(編者による「巻頭言」)である。主権喪失が確定した分割時代当初の30年間でもある。主権回復はそこからさらに約100年後のことだ。この100年間はウッチに限定して言えば、実質帝政ロシア領の立憲王国時代であったが、この第3巻で扱われている時期はその少し前、1830年のカデット革命(日本語では「11月蜂起」)の失敗以後ロシア支配が固定化する少し前の、比較的緩やかな支配の時期を対象にしている。このわずかな時期にウッチは、プロイセン領、ナポレオンのワルシャワ公国領、そして帝政ロシア領と、大きな支配者の変遷を経験した。

昨年2017年はロシアの社会主義革命100周年であったが、今年は日本の明治維新150周年、当地ポーランドではいわゆる三国分割からの独立回復100周年となる。数字遊びの延長で敢えて付け加えるなら、今年は自分の年齢も満65歳となり、いわば第二の人生元年。元年といっても、当ブログの開設を含め2-3年前から前倒しに事前準備をしてきているのでいきなり何か新しいことが始まるという訳ではないが、それでも区切りは区切り。気持ちを新たにするという意味合いは有る。

前述の2017年2月の投稿では末尾に以下のように記した。この思いは変わるどころか益々強くなってきている。年の初めにあたり再掲しておくことは無駄ではないだろう。

「『ウッチの歴史』を通していわゆるポーランド三国分割後のポーランドの状況や、社会主義の発祥とその後のロシア革命との関わりが透けて見えてくる。分割前までのクラクフや第二次世界大戦後のワルシャワの影に隠れてほとんど紹介されないウッチであるが、手前味噌を承知で言えば、ウッチはクラクフとワルシャワに次いでポーランドの歴史において重要な役割を果たした第三の都市であると言えるように思う。公式なウッチの紹介文でもこうした解釈というか視点は見受けられない。現在の首都ワルシャワの視点で作られた紹介文と言ってしまえばそれまでだが、繊維産業の興隆で急速に発展し、そして斜陽化した街というのがウッチを紹介する時の全てのようである。」

(了)

■ 梅田芳穂さんとウッチ(その3ー最終回)

■ 梅田芳穂さんとウッチ
■ 梅田芳穂さんとウッチ(その2)

ウッチにおける梅田芳穂さんをテーマにしたシリーズの投稿も今回で3回目。手元にある資料の紹介は一段落するし、ひとまず今回で区切りを付けておくことにする。ただし、ブログのカテゴリー(大きなテーマの一つ)として残しておくので、機会があれば続編を投稿していこうと思っている。

梅田さんは筆者よりも4歳年上で、筆者がポーランドに移住する30年も前にポーランドに移り住まれている。この30年間のうち、特に1981年12月13日の戒厳令発令の後に国外追放措置(1982年?)を受け、その後に永住権を回復するまでの約10年間を、自分が経験していたことと照らし合わせながら最初に考えてみたい。

この10年間は、梅田さんにとっても筆者にとってもほぼ人生の30代に相当する。梅田さんにとっては家族との離別を強要された失意の時期であったと言えるであろうか。一方で筆者は、時期は少しずれるが、ポーランド人と知り合い結婚して家族を形成するとともに、本格的な職業人生を経験した時期であった。梅田さんと初めてお会いするのもこの頃である。

しかし、自分の回想はこの位にしておこう。梅田さんのウッチ時代に話しを戻す。梅田さんがウッチ時代に寄宿していたヤジジェフスキ家のキンガさんからお借りした本の中に、梅田さんについての本格的な伝記『Wolny agent Umeda i druga Japonia』(Anna Nasilowka著)がある。ただし、ポーランド語である。

梅田さんほどの著名な活動家であれば日本語による伝記の企画があっても不思議ではないが、ネットでチェックした限りでは、実際に出版された日本語による伝記はまだのようである。となるとやはり、上述の伝記を紐解くより手がないのかなと思う。ポーランド語の大部な本で、全文に目を通すとなるとかなりの作業になるのであるが、本ブログの主題であるウッチに係る部分だけでもと思い拾い読みを始めた。

まず目次を眺めてみる。全文を読み通している訳ではないので確定的なことは言えないが、叙述は編年体になっているようだ。さて順にたどっていくと、中ほどに「1963-1970:Yoshiho – ウッチとザコパネ」という章がある(第五章)。梅田さんのポーランド到着は1963年のことだから、この章が自分が読みたい部分ということになる。

章の初めに梅田さん自身が語られたご自身の家族のことについての記述がある。筆者は直接面識がないが、古くからポーランドに住んでおられる日本人としてしばしば耳にする鴨治晃次画伯のことなど、興味深い記述に溢れている。この記述によれば、画伯は梅田さんの従兄弟に当たり、梅田さんの父君梅田良忠博士をしばしば訪問し、欧州美術に大きな関心を示していたそうだ。そして、1958年(59年?)にポーランドに移住している。1935年生まれだそうだから、20代前半でポーランド移住をされたことになる。画伯についてはポーランド語版ながらウィキペディアにも個別の項がある(ここ)

梅田良忠博士が亡くなった1961年12月から半年ほど経って、芳穂さんは母上から、博士の遺言で遺された男子二人のうち一人がポーランドに行くことになっていると告げられる。活動的な性格の男の子であった芳穂さんは、自分が故父君の意志を次ぐことをほとんど迷うことなく決めたそうである。

成人してはるか経ってからの10代の頃の記憶は、その後の経験で無意識の内に誇張されていることがよくあるが、後年母君も芳穂さん自身が決めたことと受けあっているそうであるから、よほど意識的な決断であったのであろう。

芳穂さん自身、故父君の意志はひょっとしたら息子のうちのどちらかがポーランドに留学するということであったのかもしれないと回想している。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。とにかく、結果として父君の早すぎたかもしれない逝去はその後の芳穂さんによるドラマを生み出した。

次いで、ヤジジェフスキ家で芳穂さんを受け入れることになった経緯が回想されている。芳穂さんは、父君は最初から受け入れ先はヤジジェフスキ教授と決めていたようだと回想している。一方、ヤジジェフスキ家の子供達の一人で前掲書でしばしば引用されているエヴァさんは、間接的ながらも自分達一家が最終的に受け入れを決断させるような書き方で受け入れ先の探索を依頼されていたと回想している。

筆者は1993年末にポーランドに移住してきたが、移住に当たっては様々な書類の準備が必要であり、随分と走り回された。これに先立つこと30年前の1963年当時の状況がどのようであったかは容易に想像がつく。とにかく準備が整い、芳穂さんは1963年7月にナホトカに向けて横浜港を出発した。筆者も、1978年6月に観光旅行ながら同じ航路で横浜ーナホトカ間の船旅を経験しているが、当時日本からソ連に入るには航路でまずナホトカにというのが普通であった。

この後に、偶然同じ船に同行した日本人女性に関する逸話が記述されているがここでは省略する。とにかくポーランドになんとか到着した芳穂さんは、ポーランドでの最終目的地であるウッチのヤジジェフスキ家に向うが、その前にワルシャワに短期間滞在する。ワルシャワでは前述の鴨治晃次画伯とも会う機会があり、同画伯がウッチのヤジジェフスキ家の住まいまで芳穂さんを送り届けたようである。

「ウッチに移動した小旅行のこともよく覚えている。列車で3時間ほどの旅程だった。ヤジジェフスキ教授の家はとても大きく、広さは100平方メートルはあった。まずヤジジェフスキ教授が出迎えてくれたが、その時の会話は英語でしたように思う。家にはおばあちゃん達の他には誰もおらず、教授の子供達は、ヤジジェフスキ教授が指導する発掘現場を兼ねた夏季休暇先に出払っていた。その日ウッチの家で寝たのかどうか、もうよく覚えていない。多分翌日だったと思うが、ストブニッツァというところにある発掘キャンプに連れて行かれた。ストブニッツァは、スレユフの南30キロほどのところのピリッツァ河畔にあった。砂の高い土手の上に鳥達が巣を作っていた。」(前掲書185頁に記載された梅田芳穂さん自身の回想から)

以上、『Wolny agent Umeda i druga Japonia』からごくごく一部分を拾い読みしてきた。ここまでの内容でちょうど最初の投稿(ここ)につながっていく。ポーランドに到着してから、ワルシャワに移って本格的な活動を始めるまでの、ウッチでの梅田さんの生活について日本語で紹介するというのがこの3回の投稿の目的であった。ここで一区切りとしておきたい。

(参考)
Anna Nasiłowska, “Wolny agent Umeda i druga Japonia.”, Wyd. Premium Robert Skrobisz, przy współpracy Algo Sp. z o.o., 2013, ​ISBN 978-8389683-72-4
本投稿では、原著の断片を翻訳しブログに記載することにつき著者から許可を得た上で紹介させて頂いている。​

(了)