■「私のドストエフスキー」スケッチ(3)

前々回投稿(■「私のドストエフスキー」(1))と前回の投稿(■「私のドストエフスキー」(2))では、現在ポーランドで生活している自分という視点で、青年時代に耽読したドストエフスキーを見直すという作業を試みた。必然的に、ドストエフスキーとポーランド人というテーマに傾いていき、長年感じていたことをひとまず確認することができた。ドストエフスキーは、ポーランド人に対して明白な「特別な」感情を抱いていたようである。

そして、過去2回の投稿の続きとして、「次回からは作品に即して感想を書いていく」と予告した。といっても、学術的な論文を考えていた訳ではなく、個人的な読書ノートのようなものにしようと思っていた。しかし、作品に当たるとなれば、一応「作品論」のような体裁を取る必要があると思い、手元資料とネットで入手できる範囲で、少しばかり研究者の方々の論考をチェックしてみた。具体的な出典はあえて示さないが、いくつかの発見があった。その最大のものは、自分が考えていたような結論をその中に見い出してしまったことである。当たり前過ぎる成り行きで、自分でも呆れてしまった(笑)。

そのうちのある論考によれば、ドストエフスキーの外国人に対する態度は、ポーランド人に対してだけでなく、フランス人などに対してもかなり偏った見方をしていたそうである。要は、作家の個性に基づく外国人に対する偏見があり、加えて、東西のキリスト教の歴史的な対立がその背景にあるということであった。ということで、予定を変更して、以下では自分なりの補足を試みることにする。

ペトラシェフスキー事件に連座してシベリアに流刑となり、そこで経験した4年間の流刑囚としての生活(最終的な判決は、懲役4年、刑期満了後一兵卒として4年間勤務)が、様々な意味でドストエフスキーの人生を大きく変えたことは間違いない。実際に刑期が満了したのは1854年2月であったが、概ね1850年年初から1853年末迄の丸4年間を流刑囚としてシベリアで過ごし、その時の経験をもとにして『死の家の記録』が書かれた。この作品には、ポーランド人Mがしばしば顔を出す。

つい最近読んだ光文社版の『死の家の記録』(古典新訳文庫、望月哲男訳)の注には、「(Mの)モデルはアレクサンデル・ミレツキAleksand(e)r Mirecki」とある。新潮文庫版の工藤精一郎訳でも、同様と思われる人物が挙げられている。このM氏について、ポーランド語で何か資料をと思って少しばかり歴史書やネット情報を当たってみたが、詳しいことはよく分からなかった。

ただ、先に触れたある研究者の方の解説から、同じ時期にシモン・トカジェフスキというポーランド人流刑囚がいたことを知り、その流れで「The Central and Eastern European Online Library」というデータベースに至った。英訳ながら、トカジェフスキが服役していた当時の監獄の様子が回想されていて興味深い資料である。先のミレツキも登場する。また、モラヴィアの作曲家ヤナーチェクが、『死の家の記録』を題材にして、『死者の家から』というオペラを書いていたことも、今回初めて知った。

ここでもう一度、ドストエフスキーが生きた時代(1821年-1881年)のポーランドに思いを馳せてみたい。1772年から3回に亘って行われた、ポーランド三国分割が最終的に確定するのは、1815年のウィーン会議以後である。因みに、現在のウッチに当たる地域は、この時から帝政ロシア領となり、以後飛躍的な発展を遂げる。ウッチよりも東のワルシャワは、既に帝政ロシア領となっていた。その後、1919年にポーランドが主権を回復するまで、二度の大きな「蜂起」が起こる。1830年-1831年の11月蜂起と1863年-1864年の1月蜂起がそれである。

1830年の11月蜂起は、同じ年にフランスで起こった7月革命に触発されたと言われている。フランスは、1789年に始まる大革命後の紆余曲折を経て、この7月革命で最終的に立憲君主国となった。また、この時代は、ショパンが生きた時代(1810年-1849年)でもあった。この時期のポーランドでは、フランスなどへ亡命する者や、シベリア送りとなった流刑囚がたくさんいた。ドストエフスキーがシベリアで実際に出会い、そして『死の家の記録』で描写されているポーランド人が、主に政治犯であった理由には、こうした時代背景があったのである。

ドストエフスキーは文句なしの偉大な作家である。多くの人と同様に、自分もドストエフスキーから多くのことを学んだ。学んだことの内容はそれぞれ異なるとしてもである。こんなことを、プライベートなブログとは言え、改めて書きつけるのは恥ずかしいくらいである。しかし、自分のための覚えという意味も込めて、印象に残ったエピソードを一つだけ記しておきたい。『カラマーゾフの兄弟』の一節である。

第二編第四章に「信仰の薄い貴婦人」という章がある。この章では、主人公たちの引き立て役の一人であるリザベータという娘の母親ホフラーコヴァ婦人と、ロシア正教会のゾシマ長老との対話が描かれている。実はかなり長いこと、この対話は、信仰にまつわるエピソードであると解釈していた。ドストエフスキーはロシア正教に深く帰依した人という理解を持っていたからである。

しかし、何度か読み直すうちに、別の解釈が出来ることに気付いた。米川正夫訳と原卓也訳とで訳文が異なることも理由の一つだったのかもしれない。以下、該当する部分を紹介する。ゾシマ長老が、ある医者から聞いた話しとして、くだんの母親に紹介する場面である。ここでは、米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社版)から引用する。

「その人が言うには、『私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を、ひとりひとり別なものとしてそれぞれに愛することが少のうなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、熱烈な考えに到達し、もし何かの機会で必要が生じたならば、まったく人類のため十字架をも背負いかねないほどの勢いであるが、そのくせだれとでも一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができぬ。それは経験で承知しておる。だれかちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者すら憎みおおせることができる。(中略)個々の人間にたいする憎悪が深くなるにつれて、人類全体にたいする愛はいよいよ熱烈になってくる』と」。

ここでは、信じるか信じないかという信仰の問題ではなく、理想主義=人類一般と現実=個々の人間ということが問題にされている。ここで作家が言おうとしたのは、理想と現実とは別のものであって、重なることはない、理想はあくまで目標であって現実そのものではない、そして人間はあくまで現実の側に立っている、そういうことではなかったかと自分は理解している。ドストエフスキーが著した膨大な作品群の中には、こうした深遠な思想を秘めた箇所がたくさんある。自分は、たまたまこの箇所に「引っ掛かった」ということであろうか。

しかし、その大作家も、一人の人としては、その時代の同時代人であって、それ以上ではなかった。ドストエフスキーが生きた時代は、フランス7月革命の根底に置かれていた様々な理想主義的思潮が、共産主義に追い越されつつあった時代であった。そして、欧州とアジアにまたがったロシアは、西欧の当時の最新の思想であった共産主義を移植しながら1917年の革命に向かって進んでいくことになる。それは、作家が考えた、或いは望んでいた方向ではなかった。作家の事実上の絶筆となった『作家の日記』1881年1月号に、作家の考え、思いを読み取ることが出来る。

同じ頃、アジアに位置する日本も、欧州文明の主体であった西欧の思想を受容する。但し、キリスト教の伝統がなかった日本では、まずキリスト教との格闘から始めなければならなかった。そして、余りにも雑な素描との謗りを敢えて覚悟して表現するなら、特急列車並みに、様々な思想のバリエーションを次々と受容していった。戦争に敗れたあとは、共産主義思想も急速に浸透した。ただし、その背景となる事情についてはここでは触れないでおく。

その恩恵に日本がどっぷりと浸かってきた欧州文明も、ここにきて機能不全に陥っていることが明らかになってきている。共産主義も、自由・平等・友愛で端的に示される理想主義も、そして進化理論も、この文脈で言えば、すべて欧州が発祥である。現代の日本の足元にはそうした欧州文明がある。このことを先ず謙虚に認めた上で、改めてこれと対決する時期に来ているのではないかと最近よく思う。そして、こうした考えに自分を導いてくれたのが、ドストエフスキーだったのかも知れないと。。。

(続)

■「私のドストエフスキー」スケッチ(1)

前回の投稿(■自分にとっての同時代史と現代史)では、生まれた時には過去にあったことで、かつ自分が生きていく過程で関与していく歴史、つまり同時代史と直接的に結びついている「現代史」ということについて考えてみた。過去にあった事柄の中で、今の自分がどのように関わっているのかということを意識しながら、自分の生を見直すという営みのいわば第一章である。

正直に言うと、「現代史」とそれ以前の「歴史」などという面倒くさい区分はせずに、過去にあったことはすべて「過去」でくくってしまうということも、もちろん可能である。むしろ、過去か非過去(瞬間としての現在と未来)だけで考える、生きていくことの方が普通なのだろう。それに、こんなことは言葉を弄んでいるだけという気もする。要は、自分のような人間は言葉の遊戯が好きな、ただの変わり者ということになるのかもしれない。まあ、他の人々に迷惑をかけさえしなければ、変わり者がいても構わないとは思うが。。。

つまらぬ前置きはこの辺にして。

前投稿で自分にとっての現代史はどのようなものだったのかというイメージが出来あがったので、そのイメージを自分が辿ってきた人生とのつながりで探っていく、というのが次の作業になる。いわば第二章である。今回は「私のドストエフスキー」、つまりドストエフスキーを自分が辿ってきた人生を通して見直していく。ただし、歴史を意識しながらということは、改めて強調しておく必要があるだろう。

初めて読んだ作品は、言うまでもなく『罪と罰』だった。誰の訳であったかは、もう覚えていない。二十歳になる前の頃だったと思う。最初の大学を中退し、改めて受験勉強をしながら大学再入学を目指していた頃である。その後アルバイト先の書店で、割引で買えることに惹かれて、ドストエフスキー全集を買い揃えたのであった。

前投稿の「準則」で計算すると、現代史100年プラス同時代史70年弱。つまり、今から170年程前まで遡る必要があるが、ここでは作家の生誕年等を考慮して、大胆に下駄を履かせることにする。今回参考にするのは、前述全集別巻に付された年表。この年表の末尾には「近田友一編」と書かれている。近田先生は、前にも書いた通り、自分がロシア語の手ほどきを受けた恩師である。先生には、件の全集を購入して数年後に出会ったことになる。

ドストエフスキーのことに触れる前に、どうしても記しておきたいことがある。今回改めて気付いたことであるが、年表の記述によると、作家の父の生家は、ウクライナのポドーリスク県にあったそうである。1789年生まれの作家の父ミハイルは、カーメネツ=ポドーリスキイの神学校に在籍していた。

同市は、現在のウクライナ西部の主要な都市の一つである。1793年の帝政ロシアによるポーランド第2次分割まではポーランド領だった。つまり、作家の父は、当時のポーランド領で生まれたことになる。著名な古城があり、自分も2009年に観光で訪れたことがある。

ただ、米川正夫さんの研究によると、ドストエフスキー家の祖先はポーランド人ではなくリトアニア人であったそうである。作家の娘のエーメ(リュボフィ)の回想がその根拠になっている。ちなみに、1569年のいわゆるルブリンの合同で、ポーランドとリトアニアは同君連合国家となっていた。

さて、ドストエフスキーの生年は1821年、兄のミハイルはその前年1820年に生まれている。つまり、来年2021年はドストエフスキー生誕200周年ということになる。これも今回気付いたことの一つ。生まれた場所は、モスクワのマリンスキ病院右の傍屋となっている。

自分は1978年に、博物館となっていた当該生家を訪れている。旧ソ連ブレジネフ時代の末期だった。観光といっても、独り歩きがままならない時代で、旅程に入っていないこの博物館まで、一人で地下鉄を利用して訪問した。うろ覚えの「夢想家」というロシア語の単語をひけらかして悦に入っていたことが、懐かしく思い出される。

ここで目をウッチに移そう。1815年のウィーン会議の結果として、ポーランドはポーランド立憲王国となり、ウッチはプロイセン領から、短期間のワルシャワ公国時代を経て、帝政ロシア領となっていた。1820年、産業都市ウッチ市の始祖とも言えるレンビェリンスキが、ウッチ周辺地域の視察を行う。作家は、この頃に生まれている。ドストエフスキーの生誕と、産業都市ウッチ誕生の礎となった事績とが、殆ど重なっているという事実は、自分にとって事実以上の重みがある。

5年後の1825年には、産業都市ウッチの基礎が出来ていた。現在翻訳中の、ウッチ歴史百科第3巻第8章にこの辺りの詳しい事情が記述されている。1825年といえば、ロシアではデカブリストの乱が起こった年である。デカブリストの乱は、ドストエフスキーの活動においても、縁浅からぬ事件の一つであった。

しかし、ここで一休みとしよう。一つの投稿があまり長くなると読みにくくなるので、以後の年々については、また次回ということにさせて頂く。このテーマの最初の投稿ということで、冒頭にグダグダと前置きを付したために、本題の分量が見劣りする投稿になった。悪しからずご容赦頂きたい。

(続)

■バウータ市場

今から約30年前のウッチと、現在のウッチとでは、ずいぶん趣が異なる。その30年は脱社会主義のポーランドが辿ってきた30年でもある。

ポーランドだけでなく、旧ソ連・東欧体制が崩れた象徴的な年となったのは1989年だった。普通は、冷戦終結の年という言い方をするのかもしれない。ポーランドでは、円卓会議そして自由選挙という流れがあった年だ。自分が移住した1994年当時は、新しい体制がまだ始まったばかりで、本格的に国の様相が変わるのは、2004年にポーランドなど10カ国が新たに欧州連合に加盟してからである。

身の回りのことを思い起こしてみると、税法など直接生活に関わる法律がずいぶん変わり、デノミもあった。通貨のゼロが4つも切り取られ、しばらくは頭の中で換算が必要だった。欧州連合加盟までの間は、仕事に関わる分野でも法律の変更にずいぶん悩まされた。もっとも、そのおかげで日系企業で仕事をさせてもらえたという側面もあるのであるが。今は、現地の言葉であるポーランド語が出来る日本人というだけでは、なかなか仕事が見つからないようだ。

話しをウッチに戻すと、ウッチの「顔」になっているショッピングセンターのマヌファクトゥーラ(Manufaktura)がオープンしたのは2006年(*)、地元の人々の生活に今でも欠かせないバウータ市場に、露店ではないパサージュが出来たのは2009年だった(*)。いずれも欧州連合加盟後のことである。二つともウッチの歴史に深く関わっているが、今日のテーマはバウータ市場。(*:公式HPによる)

郷土史に関するポーランド人向けの啓蒙的な動画はたくさんあるが、日本語で紹介しても良いかなと思える動画があったので、まずこの動画を紹介する。オリジナルの作者は、音楽家のトマシュ・ゴウェンビェフスキさん。作者にお願いして、日本語の字幕が表示されるようにして頂いた。翻訳はおおよその意味が通じればよいというレベルでやっつけてあるので悪しからずご了承をお願いする。

冒頭に、「19世紀中葉のウッチ市郊外。バウータ地区はこの頃に飛躍的に発展した。  」とある。19世紀中葉、つまり1850年前後ということである。ポーランドは、1830年の11月蜂起(-1831年)の失敗後、ロシアの属国に成り下がっていた。動画の冒頭はそうした背景があって述べられている。

時代は1915年に飛ぶ。第一次世界大戦(1914年ー1918年)のさなかの時代だ。ポーランドは、ドイツとロシアとの間の「戦闘地」になっていた。戦史の詳細は、専門の研究者の研究に任せるとして、とにかく1915年のウッチはドイツ人の手中にあったようである。

時代はさらに飛んで、第二次世界大戦中のドイツによる占領下の時代に移る。このブログでも、ウッチ・ゲットーについては過去に複数記事にしているが(■ウッチ・ゲットー探訪■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと■ウッチ・ゲットー救出記念公園のこと)、この時期のことを扱う際には、どうしても避けて通れないテーマである。今日のテーマであるバウータ市場はその中心的な場所であった。ゴウェンビェフスキさんのこの動画でも、当然ゲットーのことが触れられている。

概して、18世紀末の「第3次分割」から、19世紀を通して、20世紀初頭の主権回復に至るポーランドの歴史は、実に波乱に満ちている。通常、この時期の歴史は、主役であるドイツやロシアの側から記述されることが多いが、視点を変えてポーランドからみたドイツやロシアを研究したら面白いかもしれない。当ブログでも、ウッチ郷土史という視点で、こうした時期の歴史の一端を翻訳・紹介している(■ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完))。

さて、この動画を紹介しようと思ったのは、ウッチの歴史の概略が辿れることが一つの理由であった。が、実はそれにも増して、作者の結語とも言える最後の部分に共感したというのが本音の理由である。今は我が家でも、買い物の大半はハイパーマーケットで処理するが、野菜や果物は出来るだけバウータ市場に出かけて調達する。バウータ市場といってももっぱら露店の方。それは、新鮮だからである。パサージュが出来た今でも、これは変わらない。バウータ市場の歴史的な意味はもちろん重要であるが、それは同時に自分の生活に直接結びついた場所でもある。歴史好きは、現在そこに住み生活している人々のことを忘れがちであるが、自戒をこめてこのことを思い起こしておきたい。

(了)

■ブログ新装開店のこと

5年前にこのブログを始めた時の基本的なアイデアは、終の住み処と決めている地元ウッチの諸々を、日本語で紹介するということであった。ただ一方で、第二の人生におけるもう一つの仕事として、日本のことをウッチの人達に紹介するということも企図していた。実際まもなく、にわか日本語教師として日本語を教えることになり、現在に至っている。

こうして、「二足のわらじ」で動き始めた第二の人生であったが、そのうちこの2つ目の仕事が主な活動になり、ブログは「開店休業」というジレンマに陥ってしまう。折々、この状況を解消して本来の姿に戻そうと試みてはきた。しかし、状況は改善せず、結局ブログの方は最後の投稿から2年近く経ってしまった。

一時は、この日本語教師としての仕事が、企業時代と同じような「仕事」として流れていくかに見えた。しかし、昨今の環境激変で仕事そのものの根本的な変更を迫られ、その対応に追われることになった。そして、このことが前述のジレンマ解消という課題に、再び取り組む契機になった。皮肉と言えば皮肉なことではある。

まず気付いたことは、ウッチの「諸々」を紹介するというのは、自分が目指すようなブログのテーマとしては、風呂敷を広げ過ぎということだった。もちろん、そうした日々の思いをつづることが主体のブログはネットに溢れている。当ブログも一時期似たような流れに傾いていたことがあった。しかし、今回の環境激変で、自分に与えられた時間には限りがあるということに改めて気付かされる。

ということで、「諸々」という看板は取り下げて、ブログの本来の目的である、ウッチの歴史を日本語で読めるようにすることに注力することにした。過去の投稿も観光案内的な内容の投稿は新装バージョンから外した。とはいえ、翻訳だけではブログにならないので、ウッチと自分との関わりということに限定して、思うことなどをこれからもつづっていこうと思う。

(了)

■ブズーラ川

日本語の個人レッスンを授けていた中学生の男の子が、この9月から高校に上がり、学校の授業に集中したいということで日本語のレッスンを中断すると伝えてきた。9月はこの授業だけを予定していたので、いきおい今月も夏季休暇の続きをすることになった。

若干拍子抜けの感もあるが、ポジティブに考えれば自分が使える時間がまたできた訳で、早速前回の投稿で宿題になっていた、ズギェシを流れるブズーラ(Bzura)川の探索をしてきた。地図を眺めることを厭わない方は、以下では前回の投稿にある地図かグーグルマップを参照して頂ければと思う。

いつものように6番のバスに乗る。定期券はウッチ市の境界を超えると無効なので、ズギェシに入る時に別途切符を買わなければならない。筆者はスマートフォンで処理するが、紙の切符を利用している人もまだ多く、境界があるバスストップで検札する人々をよく見かける。

前回はズギェシのバスターミナル迄乗ったが、今回は途中で下車して、先ずコンスタンティヌフカ通りに掛かる川の「名残り」を見届けることにする。地図を見ると分かるが、ズギェシの街を走る主要道路である国道91号線(旧1号線)を境にして西側にブズーラ川の一部が走っている(流れている)。

以前ウッチを流れるヤーシェン川を探索した際と同様、地図を頼りにコンスタンティヌフカ通りのそれらしい場所まで進むと、確かに小川が流れているのが確認できる。但しささやかな流れは叢の陰に隠れ、普通に歩いていては恐らく見落としてしまうであろう。注意深い人なら、橋が掛かっているのでその下に流れがあるであろうくらいは想像するかもしれないが。ということで、第一の目的は達成。上述の小川を何枚か写真に収め、そのままコンスタンティヌフカ通りを進んで、カトリック教会を横目に見ながら街の中心に出る。

話題は少し脇道にそれるが、ウッチは、西のドイツと東のベラルーシとを結ぶ鉄道の幹線から少し南に外れており、西から鉄道で移動してくる際は、このズギェシを通って更にその先にあるクトゥノという駅が最寄り駅になる。ベルリンなどからウッチに来る場合、クトゥノで乗り換えて鉄道で来ることも可能だが、地元の人達は乗用車かクトゥノ・ウッチ間を走るミニバスで移動することが多い。その場合通常はこのズギェシの市内を通り抜ける。目印は上述のカトリック教会と国道91号線を挟んで反対側にあるマック。特定の商業施設の宣伝まがいは好ましくないが、ここはご容赦願うことにしたい。ということで、今回はマックでコーヒーブレイク。

コーヒーを飲んで一休みしたあと、今度は川の途切れた先の部分の探索に移る。マックを出て裏通りを少し行くとそれらしい場所がある。その先の市営(恐らく)の貯水池に繋がっているせいか、前述の小川よりは若干整備されている。流石に舗装はされていないが、両岸は散歩道になっていて、バギーを押す幼児を連れた母親が散歩していた。貯水池はポーランドの英雄タデウシ・コシチューシコの名が冠されている。

この貯水池に至る前述の短い水流が川と名付けられるとして、実はこの川は貯水池を経て更に先につながっている。地図を少し拡大してウッチ市域を含めた上で改めて眺めると分かるが、最終的にはウッチ・ワゲヴニキ地区のアルトゥルーヴェク公園に至っている。当ブログのメインテーマはウッチの歴史を探っていくことであるが、川という視点で見ていくとウッチの外に出ていかざるを得ない。前回と今回の投稿はその最初の試みということになるであろうか。

(了)