■ウッチの川について

本投稿は3月以降サブテーマにしてきた「ウッチの川」に関するまとめ編。メインのテーマである歴史百科第3巻の翻訳の第五章に、ウッチの名所であるピョートルコフスカ通りのいわば誕生物語とでも言える記述があり、これを自分でも辿ってみようと思ったのが発端のサブテーマである。投稿と言っても公開論文の翻訳であるが、「ウッチの川」の歴史を概観する上で大いに参考になるので、抄訳ながら紹介する。

参考記事1:■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど(ここ)
参考記事2:■日々つれづれ(2018-08-09)ー川のことなど(ここ)

当該論文は次のような構成になっている。

1.導入
2.参考文献とその利用に当たっての価値評価(付:総合地図)
3.現行ウッチ市域に14世紀から20世紀半ば迄に存在した水車
4.結語と注記

論文の主要部分は「3.現行ウッチ市域に14世紀から20世紀半ば迄に存在した水車」で、具体的な水車の由来などが記述されている。本投稿では、論文の主要部分の訳は別の機会に譲り、「1.導入」と、「4.結語」の最初の部分を翻訳して紹介する。また、2.に付された地図は、往時の状況をざっと掴む上で参考になるので併せ付しておく。

。。。

「歴史地図に基づくウッチ市域内に存在した水車の配置に関する研究」

1.導入

地域社会への意識が高まり、私達が住む近郊地域の地理的な環境の変化や歴史への関心が増大している。その結果として、既に歴史、文化、社会の変化に関する様々な啓蒙的な記事や学術的な論文が発表されている。ここ数年ウッチ大学水文学・水管理実験室によって行われているウッチ地方の水車の位置に関する研究もこの流れに位置づけられるであろう。その主要な目的は、ウッチが産業地帯として発展することに寄与した河川が、原初に有していたエネルギー・ポテンシャルの特定である。

産業化する以前の現在のウッチ市域には流れの早い小川がたくさんあり、そのために水力を利用した様々な設備が作られていた。そうした設備は、穀物の粉挽きはもとより、製材、縮絨(毛織物の仕上げ工程の一つ)、皮革なめし、そして樹皮粉砕等に利用された。産業化の初期には、水車の車輪を使い水を汲み上げる水力は、概して織物の圧延、糊付け、機織りの設備に必要な動力として使われていた。

現行ウッチ市域に最初の水車が現れたのは14世紀半ばと記録されている。そして、ヴウォツワヴェク司教区内の水車網が拡充されていくのに伴い、その数は18世紀から19世紀に移る頃迄に段階的に増えていった。こうした水車にはお手本があった。それは、1145年にウェンチッツァのBzura川沿いに作られ、このタイプの構造物ではポーランド最古のものとされている水車で、みなこれに似せて作られた。16世紀に提出された申請書によれば、それは3輪の水車であったようである。その後の数年におけるウッチ市域の水車の実数は変動した。修理が必要になったり、また火事で焼失したり、水害で壊れたり水に流されたりした水車があったためである。

それまでは農村の小都市であったウッチの歴史における転換点は、マゾフシェ県委員会議長(現在の県知事に相当)のライムンド・レンビェリンスキが視察を実施した1820年である。レンビェリンスキは、繊維産業に最適な場所を探していた。ウッチが選ばれたのは、立地条件がよい(立憲王国の境界に近い)、森林が豊富で粘土層に位置する(良好な建設資材がある)、そして機織り装置の動力源に適した流れの早い小川が多数あることがその理由であった。後に、正にそうした小川沿いに、シュライバー、グロフマン、ゲーエルといった人々の巨大な紡織工場が作られていき、一方それらの流域では都市が急速に発展していくのである。その当時あったウッチの川は、流路が幾度となく変更され、また技術的な必要に応じ堤防や遊水池が作られていった。

産業の発展に伴い、大半の水車は本来の機能を失っていった。農作物の加工という機能は、機織り機の動力としての機能に席を譲った。ただしこれも、短期間で様変わりしていく。1829年、マゾフシェ県のウッチで紡織業に携わる大規模事業者は例外なく水力を利用した部分的機械化に移行していた。例を挙げれば、コピーシュの工場では2輪の水力駆動機械が稼働し、ランゲ、ヴェンディシュ、ルンドゼーエル、ポテンパといった人々の工場でも、単輪の水力駆動機械が稼働していた。

蒸気機関が使われるようになると、エネルギー源としての水力の利用は衰退していき、相対的に利用価値が低下した河川は遊水池に姿を変えていった。こうして、かつての水車とこれに伴う水力は、大規模産業の端緒となったのである。現在、こうした水力設備の殆どはその痕跡を留めていない。とはいえ、古地図や古文書の上では今も存在し続けている。この小論は、現在のウッチ市域内において、水力を利用した設備の配置と、それらが機能していた期間を総合的に特定することを試みたものである。そうした設備は相当数に上っており、かつて存在した河川が大きなエネルギー的ポテンシャルを持っていたことを示している。小論はまた、この地域で水がどう扱われていたかを明らかにする契機ともなり得るであろう。

(「2.」及び「3.」は省略)

4.結語

現行のウッチ市域を流れる川には、時期は様々であるが、水車が少なくとも26台存在していた。そうした水車の脇を流れていた川のうち水力としての利用価値が最も高かったのは、ヤーシェン川であった。支流も含めると11台の水車が水力を提供していた。高低差が著しく、流域は土手を形成するのに容易な谷間になっていたことがその理由であったことは疑いをいれない。一方、当時はシュラフタ(ポーランド貴族)の所有地で産業ウッチの発展に直接は関与しなかったソコウフカ川については、殆ど資料がなく詳細は不明である。3番目の川はウトゥカ川で、そこに掛かる水車は現行ウッチ市域内にあった。ただ、その流域は徹底的に改造されたため、現在当時の姿形を目にすることはない。(以下略)

Pic-1

凡例
A:水車があった地点
B:現行のウッチ市を示す境界線
C:一級分水界(訳注:詳細はウィキペディアなどを参照)
D:産業化以前の河川系(推定)
E:現行の道路網

オリジナル:
1. 論文名:„Rozmieszczenie młynów wodnych na obszarze Łodzi w świetle wykorzystanych historycznych źródeł kartograficznych”
2.著者:
(1)Adam Bartnik, Pracownia Hydrologii i Gospodarki Wodnej Uniwersytetu Łódzkiego
(2)Dorota Bartnik, Biblioteka Uniwersytetu Łódzkiego
3.ソース:http://hydro.geo.uni.lodz.pl/uploads/file/pub_AB/2017_mlyny_Lodzi.pdf

(了)

■川のことなど

今回の投稿は、「■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど」(ここ)の続編で、自由広場とは反対方向のピョートルコフスカ通りの端にちなむ川がテーマ。ブログのメインのテーマにしている「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の翻訳の方は相変わらず停滞したままだが、せめて前回の投稿で宿題にしていたサブテーマだけでも前に進めようということで、3時間ほど時間をかけて「散歩」してきた。散歩そのものは夏の旅行に出掛ける前に行っていたのであるが、その後日本各地で水害が発生して落ち着かぬ気持ちの中、未整理のままになっていた。今、夏の旅行も無事に終えたのを機会に短文にまとめてみた。

ブログを始めてから改めて認識したことであるが、ウッチは19世紀の繊維産業の興隆によって新興大都市の地位を得た一方で、かつての自然をずいぶん失ってきた。科学と環境破壊、自然との調和などというテーマは本ブログの主要テーマではないが、失われた自然を見直そうという市などの活動には共感を覚える。以下のビデオはそうした動きの一例である。当ブログのようなごく狭い領域を扱ったブログに目を留めて読んでくださる読者であれば、ポーランド語を解するか否かは別にして、ポーランドさらにウッチのような地方都市に少なくとも関心は抱いていらっしゃるであろう。ざっとでも眺めて頂けると有り難い。


<ウッチ市制作のプロモーション・ビデオ>

前回の投稿に記したように、「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」の第五章にはピョートルコフスカ通り誕生の発端についての記述がある。

「ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。。。。近隣都市間をつなぐ、可能な限り直線の舗装道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあったカルチマに隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。」

第3巻の目次によれば、ピョートルコフスカ通りの本格的な誕生物語は第十一章(未訳)に詳述されているようであるが、この第五章で一先ずピョートルコフスカ通りの立地が決まった経緯が記されている。これによれば、通りの両端はいずれも川に掛けられた橋であったらしい。上に提示したビデオでも、主としてこのウトゥカ川とヤーシェン川が紹介されている。今回「散歩」の目的は、ウトゥカ川とは反対側にある(あった?)ヤーシェン川を確認することであった。

現在のピョートルコフスカ通りの半分、つまり自由広場からミツケーヴィッチ通りまではトラムが走らぬ通りになっている。時にタクシーが入ってきたり、リキシャと呼ばれる自転車と人力車の中間をいくような車両が通るが、基本は歩行者用の遊歩道。この区間をトラムで移動するには直ぐ横を走るザホードニャ通り迄移動すれば複数のトラムが利用できる。一方通りの残りの半分では、ミツケーヴィッチ通りにあるハブ・ステーションを経由して複数のトラムが走っている。今回は、ピョートルコフスカ通りの一方の端にある旧市街公園を抜けて、ショッピングセンターのマヌファクトゥーラの横から2番のトラムに乗り、独立広場で降りる。所要時間は30分弱。

<ハブ・ステーション>

かつては、途中のビャーワ・ファブリカ(白亜工場)から独立広場迄の辺りにはヤーシェン川が流れていたはずであるが、現在はその面影もない。川の名残りを目にするためには少し歩かなくてはならない。今回はガイドブックなどに頼らず、地図の表示を頼りに、現在も川の名残りをとどめていると思われる地点迄「探検」してみた。興味があれば、グーグルの地図で以下の記述を辿ってみるのも一興かも知れない。因みに、検索バーに入力する際はピョートルコフスカではなくピョトルコフスカのように長音記号を省いた方が良いようだ。

< 独立広場付近1>

< 独立広場付近2>

独立広場で降りたあと、進行方向に向かって100mほど行くと斜め右に折れるパビアニツカ通りがある。この通りを道なりに折れてしばらく行くとブルチャンスカ通りにぶつかる。戻るようなイメージで少し歩いてピェンクナ通りを左に折れると、確かにそれらしき「名残り」があった。

<ブルチャンスカ通り>

<ピェンクナ通り>

地図の正確さに感心すると同時に探検者の感動みたいな感覚が湧いてきて、思わず写真を撮る。川と言っても、日本の川のイメージとは随分かけ離れている。それでも、日本では江戸時代末期に当たる19世紀初めの当時は、それなりの水量があったのではないだろうか。上で紹介したウッチ市制作のビデオをもう一度再生し、こうしたことに思いを馳せることも有用かもしれない。

<川に降りる石段>

<川の名残り>

(了)

■ウッチ・ゲットー救出記念公園のこと

(関連記事:■ウッチ・ゲットー探訪)(ここ)
(関連記事:■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと)(ここ)

何気なく市の中心に出る気になり、途中ふっと思いついて前々回の投稿「■日々つれづれ(2018-03-01)ーウトゥカ川のことなど」(ここ)で触れた救出記念公園まで足を伸ばすことにした。同公園はウトゥカ川沿いに立地していて「川の形」を目にすることが出来るからである。着いた時には既に午後6時を回っていてエーデルマン記念対話(ダイアログ)・センター(ここ)は閉館していたが、二年前に初めて訪問した時にはできなかった公園内の散歩ができた。その際に翌日の5月1日にセンターのポドルスカ館長の案内で公園内を「散歩する」催しがあることを知り、翌日改めて出向いて催しに参加することにした。公園の全体図は同センターのホームページでも掲載されているが、Googleの地図を流用しており、リンクを貼るのは気が引けるので、ホームページから辿ってほしい。同サイトは英語版(メインページ上のメニューから「Suvivors’park->see on the map」を選択してクリック)も閲覧出来るようになっているので、容易く辿れると思う。

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(写真)ウトゥカ川

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(写真)対話センターの建物

救出記念公園の「救出」という言葉は、ウッチ・ゲットーからの救出の謂であり、救出というよりは「生還者」という言葉の方が相応しいかもしれない。悲惨を極めたウッチ・ゲットーを生き抜いて救出された人々を記念する公園ということである。ウッチ・ゲットーについては2016年8月に当ブログにもレポートの形で投稿している(冒頭の関連記事)。ウッチ・ゲットーそのものに関心を持たれる方はそちらの投稿をチェックして欲しい。その当時既に当該公園と対話センターを訪れていたが、その時は公園内をゆっくり見て回る機会がなかったので今回はいわば敗者復活戦である。センター館長のポドルスカさんは著名なジャーナリストで、同女史の履歴などはウィキペディアにもポーランド語ながら記事がある(ここ)。同女史とは今回が初対面になるが、100人近く集まった参加者の中で筆者が唯一のポーランド人以外の参加者ということで、幸い親しく話をする機会を得た。今回の「散歩の会」のような文化的な催しでは、ただのアジア系というだけでなく、さらに日本人であることが肯定的に評価されることが多い。スーパーで買い物をしたりする時はただの「黄色人種」にされてしまうのが常なのであるが。

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(写真)公園の銘板

さて当日5月1日の午後4時少し前に集合場所の対話センターの入口前に着くと、大半の参加者は既に集まってきていて、ガイド役のポドルスカ館長が館内から出てくるのを待っていた。まもなく、ポドルスカ館長が館内から出てきて参加者に対して歓迎の意を込めた挨拶を始めたが、思っていた以上の参加者数にやや嬉しい誤算という印象だった。ポーランドでも5月1日(レイバー・デイ)と同月3日(1791年5月3日憲法記念日)が国民の祝日で、狭間の2日も国旗の日と制定されており、現状公式には国民の祝日ではない労働日ではあるものの、いずれ3連休となって日本のゴールデン・ウィークのような大型連休になっていく可能性を秘めている。現在でも職場の都合で有給休暇が取れれば一週間以上の連休になる。従い、ポドルスカ館長がこの時期には遠出をする人が多く、ローカルのイベントに人は集まらないだろうと考えていたとしてもさほど不思議ではない。

ここから先は前述のサイトの公園全体図(地図)を見ながら読んで頂くと分かりやすいと思う。この日はセンターの建物の真下にあたる展望台からスタート。事前に順路が計画されている訳ではなく、「ガイドさん」のその時の気分で順路を決めて歩いていく気楽な散歩の会である。公園全体図の右下の方に見える渦巻き形をした場所にお気づきであろうか。文字通り渦巻状の小道を辿って上にあがるようになっている人工の「丘」で、その「頂上」がちょっとした展望台になっている。以下の写真2葉を見て頂くと分かるが、展望台にはヤン・カールスキの像を伴ったベンチが置かれている。もう一方の写真は、地図で言うと左方向に遠望したものである。ヤン・カールスキの名はテレビやラジオで耳にしたことがある程度で、本格的な事績は催しの後にウィキペディア(ここ)などで改めて勉強させて頂いた。ポーランド語ではあるが、ウィキペディア以外にも対話センターのサイトに様々な関連記事がある。そうした記事を拾い読みしているなかで、「人生の目的が自分のためだけではなく他者をも包含・転化した時点でそれはミッションと呼ばれる」という趣旨のコメントが目につき思わず共感した。カールスキの事績は、「ミッション」という表現が一番相応しいようである。

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(写真)カールスキのベンチ

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(写真)展望台からの遠望

ポドルスカ館長による興味深い説明を聞いた後展望台を降り、ちょうど上の2枚目の写真にあるようにウトゥカ川に向かって歩いていくと、途中に「生還者たちの記念樹」が広がっているのが分かる。ちょっと見た限りでは木そのものに番号札が付いているようでもなく、どの木が誰に属するものなのかよく分からない。筆者がポドルスカ館長の説明を聞き落としたのかも分からないが。ただ、植樹した生還者の名が番号と共に石版に記されて側道に敷き詰められており、少なくとも植樹した生還者の名前だけは確認できるようだ。進行方向からと逆方向からと2葉写真を掲げるので雰囲気は掴んでいただけると思う。

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(写真)植樹者の銘板

さらに歩いていくとウトゥカ川に至り、川の向こう側に「正義の人々の石碑」(訳は仮訳、筆者の解釈は「ゲットーという現実に対して何らかの形で「正義」を貫いた人々」と理解する)が川に沿って建てられている。石碑には様々な人々の名前が銘板の形で嵌め込まれている。この石碑の配置は、いわゆるダビデの星の形を取っており、それは前述の公園全体図(航空写真版)でみるとはっきりする。石碑の前を流れる?ウトゥカ川の方に気を取られていたせいか、前日に公園をざっと見て回った時には気づかなかったことで、「散歩の会」の一番の成果かもしれないと思った。前日と頃合いもほとんど同じであったせいか、同じ男性が釣り糸を垂れていたのが面白かった。

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(写真)石碑の前で説明するポドルスカ館長

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(写真)釣りをするおじさん

来た時とは反対側の橋を渡ると、ジェゴタの碑が目に入る。「ジェゴタ」も催しの後にウィキペディア(ここ)などで改めて勉強させて頂いたことの一つである。

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(写真)ジェゴダの碑の前に立つポドルスカ館長

ジェゴダの碑に向かって左に進路を取りさらに歩くと分かれ道にぶつかる。これを右に折れて対話センターの建物に向かって歩いていくと「救出記念公園創設の碑」がある。

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(写真)碑の前で説明するポドルスカ館長

これでこの日の散歩の会は終了して解散。一部の参加者はさらにセンターの中に入って展示物などを見学した。

(了)

■ウトゥカ川のことなど

当地ウッチの人達に日本語を教えること、一方でウッチの歴史を日本語で紹介することの二つを自分の「仕事」と決めて日々を送っているが、今年はそのバランスを取ることを年始に目標として掲げた。昨年は、日本語を教えるという仕事に自分が何処まで対応できるか分からないまま見切り発車でいろいろな方面に手を伸ばし過ぎ、こちらの活動に偏り過ぎたからである。まだ十分に整理がついたわけではないが、ここにきて少しバランスを取り戻してきた。その分、ニつ目の活動であるウッチの歴史の翻訳紹介に時間が割けるようになり、第五章「旧市街の制定」の仮訳をようやく終えることができた。現在仮訳が済んでいる分のテキストはメニューの「ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完)」から参照出来る。

目次だけで振り返ると、「第一章 ポーランド第一共和国末期のウッチ周辺、第二章 プロイセン領時代のウッチ、第三章 ワルシャワ公国時代のウッチ、第四章 ダイナミックな発展の端緒、第五章 旧市街の制定」までの仮訳が終わったことになる。残っているのは、「第六章 ダイナミックな発展、第七章 新市街の建設、第八章 最初の産業ブーム 1823-1824、第九章 新たな産業植民、第十章 三番目の市庁舎、第十一章 ピョートルコフスカ通りの誕生、付録 「ピョートルコフスカの乙女」伝説」である。このブログでも、「ピョートルコフスカ通り」を切り口にした投稿を時々アップしているが、歴史(の翻訳)に関してはその「誕生」にも至っていない。この第三巻の翻訳が曲がりなりにも目処がついたら、Rynkowskaさんの『ピョートルコフスカ通り』の紹介もおいおいしていきたいと思っているがまだまだ道半ば。

それでも、今回アップしたウッチ歴史百科第3巻の第五章にはこんな記述があり、多少は目標に近づいているのかなと思い少しホッとしている。「ポーランド立憲王国時代における産業の発展は、政府当局の助成と通商の規模拡大によるところが大きかったが、特に通商の発展は道路網の拡張と工場集落の都市計画刷新をもたらした。。。。近隣都市間をつなぐ、可能な限り直線の舗装道路を建設するという事業が開始された。そうした新たな投資事業の一つに、ウェンチッツァとピョートルクフを結ぶ街道の建設があった。ウッチでの建設は1818年に着手され1821年に終了したが、当該街道とウッチ地域とが結ばれた地点は、技術的観点で設置されたいわゆるピョートルクフ湾曲街道の2箇所だけであった。一つはウトゥカ川流域のグロブラの水車があった所に掛けられた橋、もう一つはヤーシェン川流域でヴゥカ村の集落の外れにあったカルチマに隣接した所に掛けられた橋であった。この2地点が後述するように現在のピョートルコフスカ通りの成立に繋がっていく。」

ウッチの普通名詞としての意味は、白水社刊「ポーランド語辞典」によると「ボート、小船」である。一方、川の名前になっている、そしておそらく集落の名前にもなっているウトゥカはその指小形だが、先の白水社刊「ポーランド語辞典」によると意味は「ボート、小舟」となっている。辞書編纂者の隠れた思いが推察される訳語であるが、日本語ではほとんど同意義ということである。ひとまず、ウッチという市名の文字通りの意味は「小ふね」としておいて間違いはなさそうである。ただし、市名の由来となるとウッチ=小舟と単純に規定はできないようだ。ウッチ郷土史の基本文献の一つである『ウッチ ー 市史 第一巻』を繙くと市名の由来についての記述がある(57-60ページ)。要旨をつかむだけの目的で辞書を引かずにさっらと斜め読みしただけであるが、様々なテーゼはあるものの歴史的にこうという結論は出せないと記述されている。まあ、無理のないところでまとめると、当時は中小の河川がたくさん市中を流れていたようであるし、少なくとも河川に関連した名称として定着していったと考えてよいのではないかと思う。

(参考)かつてウッチに存在した、または現在も一部を目にすることが出来る河川の地図は以下のサイト”Dawne rzeki Lodzi” (ここ)に詳しい。リンクがうまく開かない場合もあると思うので、ダウンロードした地図を以下提示しておく。

ウッチを流れていた多くの河川は「かつての」もしくは部分的に残っている河川になってしまっている。こうした河川の跡を順に辿っていくというテーマは非常に興味をそそられるが、ひとまずこれからの投稿用に残しておくとして、前述の「ウトゥカ川流域のグロブラの水車があった」場所のあたりを少し探索してきたので、最後に紹介しておく。現在の教会広場から北向きにあるバウタ市場まではズギェルスカ通りの一部になっているが、逆に南向きにある旧市場を経て現在の自由広場まではノヴォミェイスカ(新市)通りとなっている。このノヴォミェイスカ通りを挟むようにして立地されているのがスタロミェイスキ(旧市)公園である。その西側部分の更に西端はザホードニャ(西)通りに面していて、通りを渡るとショッピング・センターのマヌファクトゥーラがある。さて、ウトゥカ川であるが、前述のサイトの地図で見るとちょうどマヌファクトゥーラがあるあたりを流れていたようである。そして、スタロミェイスキ(旧市)公園を通って今の救出記念公園(ウッチ・ゲットーからの「救出」の意)の方に流れていっている。ただし、マヌファクトゥーラからスタロミェイスキ公園のあたりでは川の流れは地下に入ってしまっている。写真で雰囲気がつかめるかどうか分からないが、いくつかスナップを撮ってきたので参照頂きたい。


(写真1)スタロミェイスキ公園の中に立っている表示版


(写真2)同公園内から臨んだザホードニャ通りとその先のショッピング・センターのマヌファクトゥーラ


(写真3)同公園内の様子


(写真4)地下を流れるウトゥカ川の流れ、実際に地下を流れている!


(写真5)その場所を示す案内板

(了)

■ウッチ・グダンスク通りの刑務所博物館

公式サイトの紹介文が非常に良く出来ているので、本投稿はそれを翻訳して紹介する。

<翻訳>
19世紀後半のウッチは、ポーランド立憲王国における工業の中心地であったが、また労働者がその経済状況の改善を求める様々な運動の場所であり、憎むべきツァーリ体制との闘争の場所でもあった。こうした事件の参加者の多くは政治犯として逮捕され、現在Plac Wolnoszci(自由広場)と呼ばれているNowy Rynek (ノーヴィー・ルイネク)にある市庁舎に未決囚として収監された。まもなく市庁舎では手狭となり、当時の市当局は新たな未決囚収容施設の建設に着手する旨の決定を1881年に行う。1884年、ツァーリ政府の許可が出るとすぐ、Konstantynowska(コンスタンティノフスカ、現Legionowレギオーヌフ)通りとDluga(ドゥーガ、現Gdanskaグダンスカ)通りとが交差する場所に、著名な建築家Hilari Majewskaの設計による刑務所の建設が着手された。刑務所は1885年10月9日に稼働を開始した。続く数カ月間に、ツァーリ政府によって国事罪に問われたプロレタリアート党の党員達がドゥーガ通りにできた刑務所に送られてきた。まもなくウッチ刑務所は政治犯として逮捕された囚人のすべてを収容することができなくなる。1892年のウッチの反乱の際にはドゥーガ通りの刑務所は囚人で溢れるほどになり、当局は別棟の設置を余儀なくされた。1905−1907年の革命当時も似たような状況であった。刑務所は革命運動に加わった人々で溢れた。そこから多くの囚人が引き出されて近くにあるKonstantynowska通り沿いの森に連れてゆかれ、そこで銃殺された。また別の囚人はロシア奥地の流刑地に送られた。

刑務所の歩みの中で最も悲劇的な時期の一つは革命運動後の弾圧の時代であった。

1908年2月、刑務所の中庭に絞首台が立てられ、1909年4月までに104回絞首刑が執行された。

第一次世界大戦時(1914−1918)には刑務所の建物はドイツ占領軍の指揮下に置かれた。

第二共和国時代にはGdansk(グダンスク)通りには刑事捜査拘置所が置かれた。当初は占領軍当局もこれを利用した。20年代からは主として左翼運動に関連する囚人が収容された。

ナチスドイツによる占領下の時代にはGdansk(グダンスク、Danziger Strasse)通りの建物には、中継監獄の機能を果たす女性専用の警察刑務所が置かれていた。公式には、当該刑務所はウッチ市(Litzmannstadt)警察幹部会に属したが、実際はゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)が直接管理していた。女性囚人の殆どは政治犯の宣告を受けた女性達で、武装闘争同盟や国内軍、または秘密左翼組織に関与したもの、罪状はサボタージュ、武器の所持、独への敵対、外国ラジオの違法聴取、ユダヤ人への援助などであった。そして、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ラベンスブルックといった収容所に送られていった。そこは、労働もしくは矯正のための収容所であり、その他の強制隔離のための場所であった。事情聴取がある場合にはAnstadta通り7/9にあるゲシュタポ本部に移送された。

1945年、Gdansk通りの建物は引き続き女性刑務所であった。監督は公共治安庁の県職員が行っていた。1953年2月までこの刑務所には1939ー1945年の間に地下活動、主として国内軍の活動や独立運動組織に関与した女性が収容されていた。刑務所にはまた、1945年以降のポーランドの新たな現実を容認できず政治的に野に下った人々も収容された。

以上

以下は、昨年秋に訳者が撮影したスナップ

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グダンスク通りから見た刑務所博物館

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刑務所博物館への入口

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博物館の中の廊下部分

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廊下に沿って配置されている房の扉の一つ

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房の内部を模した展示

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
ウッチ独立の伝統博物館の別館の一つ、グダンスク通りの刑務所博物館公式サイトから
(ここ)
(参考資料)
1.『東欧史(新版)』( 「世界各国史シリーズ」第13巻、山川出版社刊、1977年)
2.『ポーランド現代史』(世界現代史シリーズ第27巻、 山川出版社刊、1992年 )

(了)