■旧ソ連とロシア語のことなど

人の手が加わったものなのかどうかの詮索はさておき、世界中に広まったウイルスの影響で、それまでとは全く異なる「世界」に住まざるを得なくなって半年強が経過した。第二次世界大戦後のいわゆる冷戦が、自滅とも言える旧ソ連の崩壊で終結し、全面核戦争のリスクもほぼなくなったと思っていた自分を取り巻く世界が、再び絶えざるリスクに覆われてしまった。どちらのリスクがより深刻かなどという比較はあまり意味がないが、強いて違いを挙げれば、今回のリスクの方が「日常性」を奪う度合いは大きいと言えるかも知れない。

自分が住んでいる地域の人達に日本語を教えるというリタイア後の仕事も、在宅のテレワークに変わってしまったし、バスやトラムなどの公共交通機関は原則利用しないと決めたので、付近を散歩したり、ちょっとした買い物をする時以外は自宅を出ることもなくなってしまった。こうした新しい「日常」の中で生活を始めて3ヶ月ほど経った頃、自分に残された時間はあまりない、ということにふと思い至った。それやこれやもあり、2年間店晒しにしておいたブログのコンセプトを全面的に見直して「新装開店」にした。

新装後のブログでは、プライベートな回想を公開している。公開するということは、読者を想定するということである。しかし、あくまで回想であるから、何かを主張するという意図はないし、度を越えた「告白」をする積りもない。それからさらに4ヶ月経った。その間、6月中に2回、7月に9回投稿している。1ヶ月半程の間に11回の投稿は、2年間ほったらかしにしていたことを考えれば、随分集中して綴ったものだと我ながら思う。その後また中断してしまうのであるが、今回の投稿はその期間中に起こったことに関連している。

新装直後の勢いでアップした投稿を読み返してみて改めて気付かされるのは、自分の人生には「言葉」との関わりという基調音が流れているということである。テレビや映画が、文章を読むという楽しみに取って代わることはなかったし、今でもそれは変わらない。高校時代も、大学の文学部に在籍していた当時も、決して優等生ではなかったが、「読む」という行為だけは途切れることがなかった。

書かれた言葉が、話される言葉に変わっていくのは、ロシア語と出会ってからである。きっかけは19世紀のロシア文学だったが、結局ロシア語が生活の糧を得るツールになった。この辺りのことについては、既に何度も書いているが、ロシア語というテーマでここで再び触れるのは、ベラルーシで起こった抗議行動と、ナゴルノ・カラバフを巡るアゼルバイジャンとアルメニアとの間で勃発した地域戦争という2つの出来事に触発されたからである。

といっても、研究者やメディアに登場するコメンテーターがするような論評を行うことがこの小文の目的ではない。前述したように、あくまでも自分の人生という横糸にキーワードとしてロシア語という「言葉」を据えた回想である。何故ロシア語か。それは、どちらの出来事も、現地に関する新鮮な情報を、ロシア語を介して、いながらにして入手することが出来るからである。現地語での情報もあるが、自分が理解できないニュースは当然「情報」にはならないので、こちらは参照程度である。

旧ソ連崩壊後に生まれた世代にはなかなかピンとこないかもしれないが、自分がロシア語を学んだ当時(ほぼ半世紀前のことになる)は、ロシア語話者は日本の隣国旧ソ連全域におり、旧東欧でもそれなりに通用した。ユーラシア大陸の大部分で利用価値があった言語だったのである。一方で、旧東欧圏の言語はロシア語を介して学ぶというのが当時は普通のプロセスで、自分もポーランド語はロシア語を介して習得した。その観点でも、ロシア語は重要な言語だったのである。

話しがやや横道に逸れるが、ここで「ソ連邦」という国について少しおさらいをしておこう。ごく大雑把に言えば、18世紀から20世紀初頭にかけての、現在中東欧と呼ばれるエリア(仮に、ドイツ、ポーランドの中欧、ウクライナ、ベラルーシ、それにバルト3国を含めた東欧としておく)は、いわゆるポーランド三国分割(1772-1795、主権回復は1918)に典型的に示されているように、プロイセン王国を前史かつ主体とする「ドイツ帝国(1701-1918)」とエカチェリーナII世後の「ロシア帝国(1762-1917)」の新興2帝国がその支配者であった。

共産主義思想はこの時期、このエリアで生まれる。そして、西ではなく東に版図を拡張していたロシア帝国で、ソ連という国家共産主義の国家が生まれていく。死滅するはずであった「国家」が、それも共産主義の衣をまとったソ連邦という国家が誕生する筋道を付けたのはレーニンであるが、その路線を具現化したのは言うまでもなくスターリンであった。国家共産主義の東進は、この時から始まる。

現在、ベラルーシやナゴルノ・カラバフで起きていることを理解するには、旧ソ連が成立する歴史的、思想的背景について知っておくことが肝要なので、簡単なスケッチを試みたが、柄でもない長講はこの位にして、話題を再び自分の経験に戻すことにしよう。

文学のロシア語ではなく、当時のソ連で実際に使われている実用的なロシア語を学ぶ決心をしたのは、大学を卒業して少し経った頃だった。そのために進んだ語学学校で最初に覚えさせられたのは、ソ連邦を構成する15の連邦構成共和国の名前とその首都名である。東・西シベリアと極東はロシア連邦に含まれていたが、それ以外は民族共和国に分かれていた。ソ連で制作された動画を見ながらナレーションを聞き取り、かつその内容を丸暗記するという作業であった。

スラブ系のウクライナとベロルシア、そしてモルダビア。中央アジアのウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、そしてやや別格のカザフスタン。コーカサスのグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン。そして沿バルトのエストニア、ラトビア、リトアニアである。因みに、政体としてのソ連邦の崩壊後に独立国となった各連邦構成共和国では名称が変更された国が複数あるが、ここでは当時のまま挙げておく。 

すでに述べたように、全ての連邦構成共和国で公用語はロシア語だった。ソ連邦では、公用語のロシア語の他に民族語が存在するということを自分が体験したのは、まだ二十代の頃に観光旅行で訪れたエストニア共和国が最初である。今から思えば、北方とはいえ欧州の一角に位置し、様々な歴史的経験を有する沿バルトの国で、民族意識、民族語への意識が高いのは、当然といえば当然であった。その後、商社で旧ソ連貿易に携わるようになり、様々な共和国や都市を訪れることになる。

ポーランドに移住する前、日本で商社勤めをしていた8年間、都合20回、旧ソ連もしくはCIS(独立国家共同体)に出張した。ソ連時代は、駐在員事務所があるモスクワが拠点となっていたので、20回のうちの大半は中継地となるモスクワにも滞在した。政体としてのソ連邦が1991年に崩壊し、バルト3国を除く12の旧連邦構成共和国によるCISとなった後は、モスクワを経由せずに直接地方都市に入ることが出来るようになり、極東の地方都市に何度も出張した。因みに、1991年は4回出張している。それまで閉鎖都市であったウラジオストックにも出張したが、当時は完全には開放されておらず、今思えば微妙な出張であった。

ロシア語と民族語ということを改めて意識することになったのは、ポーランド移住後に輸送会社の駐在員としてウズベキスタンのタシケントに駐在していた時である。当時、ウズベキスタンでは、ソ連邦崩壊後の民族化政策が既に進行しており、ロシア語を解さぬウズベク人の税務署員とやり取りをするという経験もした。法律の条文なども完全には民族語化されておらず、そういうメチャクチャな環境で仕事をした。

このように限られたささやかな経験であるが、それでも、エストニアとウズベキスタンでの2つの経験を通して、旧ソ連における民族問題の一端を垣間見たと言えるのではないかと思っている。そして、再び大風呂敷を広げ、「知識」としてあえて言うならば、実は旧ソ連の民族問題は15の連邦構成共和国の枠内で収まる訳ではなく、広大なロシア共和国内の少数民族群は言うに及ばず、中央アジアやコーカサスの各共和国内でも少数民族が住み、民族問題が存在している。

特に、中央アジアとコーカサスの旧連邦構成共和国の国境問題はスターリンによって人工的に作られたフシがあり、根が深い。まさに現在進行中のナゴルノ・カラバフ問題は、そうした複雑な国境問題の一つである。基本的には、アルメニアとアゼルバイジャンとの間の問題であるが、コーカサスのみならず中央アジアにも利権を持つトルコがこれに絡んできているので、更に複雑になっているようだ。ただ、正直言えば、この問題については、自分はうんぬん出来るような知識をあまり持ち合わせていない。とにかく、戦争が中央アジア地域に広がらないことを祈るだけである。

一方、ベラルーシの抗議行動については、居住国ポーランドの隣国ということもあり、直接的な関心を抱いて見守っている。通常、ベラルーシのみならずウクライナは、ロシアと同系統の民族とされている。言語的にも東スラブ語群というくくりで扱われているし、旧ソ連の連邦構成共和国であったために、当時は、表向きは別にして、これら3民族は政治的にも一つのグループとして扱われてきた。実は、ここにコーカサスや中央アジアとは異なる民族問題の根が潜んでいる。ここでは領土が問題なのではなく、微妙な潜在意識が問題である。そして、それは、ウクライナとベラルーシの側というよりは、むしろロシアの側にある。いや、ロシアと言うよりは、ロシア人と言ったほうがより正確だろう。

前述したように、18世紀から20世紀初頭にかけて、中東欧エリアの支配者はドイツ帝国とロシア帝国であった。ソ連邦を「国家」として完成させたスターリンは、ロシア帝国の「後継者」というカードを有効に使った。特に、ベラルーシとウクライナは、民族国家としての経験がないか、あっても浅かったため、スターリンはこれらの2民族をロシアの「後継者」であるソ連邦内に取り込むことに成功した。勢い、ベラルーシ人とウクライナ人は、ロシア人の下にある下級民族の地位にとどめ置かれた。1991年に政体としてのソ連邦が崩壊したあとも、この構図は基本的に不変であったようだ。今度はロシアが、ロシアはソ連邦の「後継者」というカードを有効に使ったのである。

ウクライナは、6年前にユーロマイダン革命を成し遂げ、民族意識を覚醒させた。その後、宗教的にもロシアによる従属からの解放を実現させた。キエフ・ルーシの継承者という「意識」を事実上奪われてしまったロシア人にとって、精神的なショックは相当なものであったろうと想像される。それにも増して大きかったのは、ロシア人にとっても、ウクライナ人にとっても、潜在意識下にあった「ウクライナ人は下級民」が意識の表面に出てきてしまったことだ。良心的なロシア人にとって、このことは大きな棘になったはずである。

そして、今度はベラルーシである。今回の抗議行動の起点がいつなのかについては複数の捉え方が出来るだろうが、自分に引きつけて言えば、8月の9日と10日の擾乱ではなかったかと思う。ちょうど、バルト海沿岸の保養地に8月1日から2週間の予定で出掛けており、普段自宅ではほとんど見ないTVニュースを毎日のように見ていて、このニュースを目にすることになった。その後の様子については、twitterにレポートしているので、関心があればリンクで過去のツイートを参照していただければと思う。6年前のユーロマイダンとの違いを指摘するなら、現地からの動画を含む生の情報は、Facebookではなく主としてTelegram-kanalのチャンネル(複数)から入ってきたこと。インターネットTVでは、ロシア系のtvrainが活躍していた。ポーランド系のBelsatも、その他のメディアも、基本的にはベラルーシ語(?)での報道で、自分としてはtvrainの情報が一番役に立った。

自分にとっての、今回のベラルーシにおける抗議行動の意味は、折々twitterでつぶやいているが、まず触れておかねばならないのは、6年前のウクライナのケースとの違いである。8月11日に以下のようなツイートをアップしている。「ウクライナとベラルーシとの一番の違いは、6年前のこの歌の歌詞に端的に示されているように思う。良い悪いではなく、超えることが出来ぬ「歴史」の違い。一方で、若い世代の未知の可能性ということもある。自分が生きている間にその成果を目にすることが出来るか。」

その後、8月16日の時点で、こうツイートした。「民族国家としてのベラルーシが生まれつつある。同時に、一党独裁国家であった旧ソ連の一角がまた一つ崩れることになる。結局最後に残るのはどこか。中央アジアか、コーカサスか。少なくともスラブ系に関してはこれで確定する。」

翌日には続けて、「文字通りスターリン後の時代を生き、政体としてのソ連邦崩壊を経験し、宗教的な独立ウクライナを目の当たりにし、そして昨日は、民族国家ベラルーシの現実的な可能性を見た。今朝は、これまでの自分の人生をまとめておきたい気持ちで一杯。」と、個人的な感興を込めたツイートをアップしている。

その後の事態の推移について言えば、ルカシェンコが大統領宣誓式を強行した9月23日辺りから流れが変わったように思う。その頃から、チハノーフスカヤの動きがにわかに活発になったし、全国調整会議委員のコヴァリコヴァやラティシコもメディアに頻繁に登場するようになった。チハノーフスカヤは、恐らく、リトアニアとポーランドを行ったり来たりしていると思われる。一方、直近ではまず英国が政権側に対する個人制裁を決め、カナダや米国、そしてようやく欧州連合も制裁措置を決めている。制裁リストにルカシェンコを含めているのはトップを切った英国だけであるが、効果が期待できることに大きな変わりはないだろう。

最後に、視点をもう一度欧州からユーラシア大陸の中央に戻しておこう。ナゴルノ・カラバフ紛争が勃発したのは、ルカシェンコが、大統領宣誓式を強行した9月23日の直ぐ後の9月27日だった。ロシアは今でも、このエリアにおけるトルコ以上の利害関係者である。そのロシアでは、反体制派と目される、アレクセイ・ナヴァーリヌイの「暗殺未遂」事件があり、統一地方選挙があり、極東ハバロフスクでの抗議行動が続いており、ニージェニー・ノブゴロドでは内務省の横暴に抗議する焼身自殺事件が起きている。短期間のこれだけの動きで、ロシアも変革に向けて動き出すと判断するのは、あまりにも近視眼的、短絡的過ぎるだろうが、何かが動き始めている予感がする。

自分は、旧ソ連とロシア語に同伴する形で人生を送ってきた。そして、その過程で様々なサプライズを経験してきた。であれば、生きている間にさらなるサプライズを目にすることもひょっとしたらあるかも知れない。自分の個人的な関心に限定するのであれば、こうした予感も許されるのではないだろうか。

(了)

■私の読書ノート(1)

今回の投稿は、「私のドストエフスキー」という大きなタイトルで綴った三回の投稿についての反省(■「子どもたちへ」(7月21日))を踏まえた第一回目の投稿。三回の投稿については、その後タイトルに「スケッチ」という言葉を付して表現を少しソフトにし、加えて続編があるという意味で、末尾を「続」と変更した。とはいえ、続編となる今回の投稿が、オリジナルのタイトルを引きずっていては実態が変わらない(世界的大作家をテーマにした「作家論」と取られてしまう恐れもあながち無いとは言えない)ので、掲題のようなタイトルにした。

二年近く続いたブランクの後で、コンセプトを新たに新装版として再開したささやかな私的なブログ。オリジナル版では、ウッチを日本語で紹介するというのが主な目的であったが、新装版では、現在地ウッチという地点から、自分の人生、特に移住後の後半生を回想することに主眼を置くことに変更した。オリジナル版では、観光案内的な投稿も随分アップして、その中には捨て難い投稿もあったが(特に「ピョートルコフスカ通り」シリーズ)、思い切って削除した。不特定多数の方に読んで頂くのがこのブログの目的ではないと気付いたことが一応の理由であるが、何よりこの半年で「世界」が大きく変わってしまい、自分に残された時間ということを真剣に考えたことが大きく影響している。

新装版にしてから、前述の三回のシリーズの他にも、複数の投稿をアップしているが、その過程で一つ気付いたことがある。生まれてから移住前までの時期を前半生として区切っているのだが、後半生を書き継ぐ時にその時期だけ切り取って叙述するということはできない、必ず前半生で経験したことが絡んでくるということである。ちょっと考えれば分かることなのであるが、いくつか小文をアップしてみてやっとそのことに気付いた。自分のように形式にこだわる者が陥りやすい弊ということなのだろう。

さてさて、悪癖の長ったらしい前置きはこの辺にしておこう。書き出しだが、小説を書く訳でもなし、この小文のような回想記まがいであれば、あれこれ悩む事もないと思うので、まず小学校時代に遡って回想してみる。

小学生の頃は、毎年のように「転校生」になっていたので、すぐには仲の良い友達もできず、勢い図書室で一人で本を読む時間が多かった。年少児向けの翻案ながら、ホームズ、ルパンのシリーズものを読んだ記憶がある。その後、日本と世界の偉人シリーズを読んだようだが、自分の好みの「偏向?」に気付いた先生に言われてだったのか、自発的にだったのか、もうよく分からない。

その次に記憶に残っているのは、工業高校時代の読書経験。この時も中心は、いわゆる洋ものの推理小説だった。アガサ・クリスティーやエラリー・クイーンの作品を中心に、本格推理小説と呼ばれる小説を文庫本で読み漁った。ただし、1970年前後のことであるから、その時点で文庫化されていた作品である。日本の小説でそのころ読んだ記憶があるのは、夏目漱石の『坊っちゃん』と『三四郎』、それに石川啄木の『一握の砂』くらいだったか。

高校生時代、特に国語や古典の授業が好きだったわけではなかった。そもそも、どの高校に進むかを決めた際も父親の意向が強かったし、自分は中学では高校受験のための勉強をしていたに過ぎなかった。将来どんな職業に就きたいというような明確なイメージは恐らくなかったし、そうして進んだ工業高校でも当然のように授業にも熱が入らなかった。ただ、今振り返って一つだけそうかなと思うのは、周りの大半がサンデー、マガジンといった週間漫画雑誌に夢中になっていたのに対し、自分は活字の本の方に関心が強かったということである。ここまでが、いわば自分の読書体験の前史である。

自分の大学生時代は長い。1970年代をほぼ通して学生生活を送った。自分自身は一貫して政治的にはいわゆるノンポリであったが、1970年の安保条約改定に係る一連の政治的な動きが、自分の周辺を飛び交っていた。いわゆる学生運動が高校にまで飛び火してきていた時代であった。そして、1970年には三島由紀夫による割腹自殺事件が起こる。しかし、自分にはどちらの動きもただ縁遠いという感覚しかなかった。そうした時代背景の中で自分は、高校卒業後直ぐに仕事につくのではなく、大学進学を考えていた。ただ「なんとなく」である。

工業高校からの推薦で、逗子の近くの工科系の大学に入学した。この大学はいわゆる学生運動の拠点校の一つで、キャンパスには70年安保闘争の余波が色濃く残っていた。バリケードが張られていて構内に入れないこともしばしばあった。機動隊の姿もよく見かけた。理由はそれだけではなかったが、結局この最初の大学は半年しか続かず、受験浪人になった。この辺りから本格的な読書遍歴が始まる。

ここで、『罪と罰』が登場する。読書体験前史を振り返れば直ぐに分かるが、推理小説ないし犯罪小説として読んだであろうことは想像に難くない。この頃はまだドストエフスキーをそれほど意識していたわけではなかった。むしろ、その後の人生にまで影響が残るのは、カミュの『シーシュポスの神話』だった。この時にサルトルを先に読んでいたら、違った人生になったかもしれないと思うこともあるが、今は、カミュが、少なくとも当時の、自分の考えや思いに適っていたということなのだと考えている。

この頃の読書ということで忘れてならないのは、参考書とは言え、共産主義とは何かを知ろうとしていくつかの本を読んでいたことである。中でも想い出深いのは、猪木正道さんの『共産主義の系譜』。ただし、共産主義の原典に進むほどではなく、主な著作の書名と概要を理解した程度で、共産主義思想そのものに沈潜することはなかった。

日本の文学では、当時どこの書店にもあった、大江健三郎と安部公房の作品を読んでいたくらいで、その頃もまだ関心は薄かった。転機が来るのは、アルバイト先として書店を選んでからである。アルバイトでも、店員は書籍を二割引きで買えることになり、バイト代のかなりの部分を本に費やすという生活が始まった。とりわけ、最初の書店での生活については、読書以外にも様々な思い出があるが、ここは読書遍歴に集中しよう。

前述の書店でアルバイトを始めた頃から、今も交流がある当時の仲間の影響で、文芸雑誌を読むようになった。『文學界』『群像』『文芸』といった雑誌である。単行本の形で刊行される前にいち早く新しい作品を読む、というか目を通す、ということに興味を持ち始めたのである。今から振り返れば、青年時代の淡い思い出の一齣である。ただし、どんな作品を読んだのか、今はもう殆ど覚えていない。

特筆して置かなければいけないのは、以前にも書いたように、この時に河出書房新社版の米川正夫個人訳『ドストエフスキー全集』を買い揃えたことである。ちょうどその頃出始めた、新潮社版の『カミュ全集』も揃え始めたのであるが、途中までで挫折し、かつ早い時期に売り払ってしまったので、もうあまりよく覚えていない。他に、河出書房新社の『新鋭作家叢書』、漱石、鴎外の全集、さらに鈴木大拙の選集なども一時期手元にあったが、みな売り払ってしまった。

二度目の大学に入学する迄の受験浪人時代に、もう一度別の書店でアルバイトをした。二回の書店でのアルバイト時代に読んだ本といえば、まず、キェルケゴールの『反復』と『死に至る病』がある。ただ、正直ほとんど理解できなかった。概して、欧州の哲学書、岩波文庫の青版を中心に読んでいたように思う。文学書では、ヘッセの『荒野の狼』ははっきりと読んだ記憶がある。日本の文学では、前述の仲間の影響もあって、秋山駿の批評文をよく読んでいた。なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に出てくる「イッポリートの告白」と題された一文は何度も読み返したはずである。

その後、二度目の大学入って、日本の小説とロシアの小説、特に19世紀の小説の翻訳を本格的に読むようになる。しかし、長くなるので今回の投稿はこの辺りで切り上げておこう。あとから思い出すことでもあれば、適宜追記していくつもりである。

(続)

■「子どもたちへ」(7月21日)

「子どもたちへ」

6月22日に、6年ぶりに君たちに宛てて送ったメーッセージから、一ヶ月が過ぎました。パパの回想録の後半を、前半の回想記とは少し違った形で、ブログというパブリックな媒体に綴ることを決めた後に送った、最初のメーッセージでした。パブリックと言っても、想定している読み手はもちろん君たちです。

そのメッセージの最後に、君たちへの約束として、「ウッチというキーワードで回想されたパパの後半生。どんな内容になるのか。とにかく、出来るだけいろいろな切り口で回想してみようと思っています。」と記しました。言い方を変えれば、自分の人生、特に後半生をポーランド=ウッチという今の視点に立って振り返ってみるということでした。

以後、パパがキーワード「ウッチ」に到達するまでの流れをざっと見た上で(■言葉との関わりについて■ロシア語からポーランド語へ■自分にとっての同時代史と現代史)、次の切り口としてドストエフスキーとの関わりというテーマを据えて三回に亘り小文を投稿しました。その出来栄えは?正直言って、あまりにも大き過ぎるテーマをいきなり据えてしまったようです。ウッチに至るまでのことについては、私家版の回想記前半にも書かれているので、省略が許されとしても、本筋の作家と自分との関わりについての記述があまりにも貧弱でした。

タイトルからして、少しばかり大げさなタイトルになっていましたね。「私のドストエフスキー」であれば、まさに自分と作家との関わりについてこそ綴るの本筋でしょうが、この部分が少なく、まさに「羊頭を掲げて狗肉を売る」をそのまま地で行く投稿にになってしまいました。ウッチとパパの人生という二つの点に大作家という点を加えたものの、その関連を表現しきれていなかったということだろうと思います。

ということで、その後タイトルは『「私のドストエフスキー」スケッチ』と変えて、続編につながるように訂正しました。これまでの三回の投稿で、現在自分が立っている位置からテーマとなっている作家やその作品を見るという作業は、内容の充実度に濃い薄いはあるにせよ、一応終えたと考えていますが、今の位置に至るまでの作家と自分との関わりについては、もう少し深めないといけないだろうと思っています。当初は、このテーマでの投稿は三回で終わりにしようと思っていたのですが、やはり続編を書かないといけないようです。

予定されるその内容は、いうまでもなく、作家と自分との関わりを今の視点だけではなく、二十代の出会いから今に至る迄の期間を通してもう少し詳しく回想することです。もちろん、キーワードは「ウッチ」ですから、これに触れないわけにはいきません。しかし、点としてのウッチは、このブログの本来のテーマであるウッチの歴史の翻訳で紹介されていきますし、メインはあくまでも作家と自分との関わりということになります。

もう一点。「ウッチ」は「ポーランド」というテーマに発展するように、「自分」は「日本」というテーマに発展します。正直言うと、企業をリタイアしたあと、ウッチで日本語を教えるようになって、日本や日本の歴史について考えることが多くなっています。君たちとの会話でも話題にすることが多いので、気付いていることでしょう。三回の投稿の最後でも、唐突ながら少し触れました。ですが、これについては、次の大きなテーマ、もしかしたら人生最後のテーマに残しておきたいと思います。

ではまた。

(了)

■「私のドストエフスキー」スケッチ(3)

前々回投稿(■「私のドストエフスキー」(1))と前回の投稿(■「私のドストエフスキー」(2))では、現在ポーランドで生活している自分という視点で、青年時代に耽読したドストエフスキーを見直すという作業を試みた。必然的に、ドストエフスキーとポーランド人というテーマに傾いていき、長年感じていたことをひとまず確認することができた。ドストエフスキーは、ポーランド人に対して明白な「特別な」感情を抱いていたようである。

そして、過去2回の投稿の続きとして、「次回からは作品に即して感想を書いていく」と予告した。といっても、学術的な論文を考えていた訳ではなく、個人的な読書ノートのようなものにしようと思っていた。しかし、作品に当たるとなれば、一応「作品論」のような体裁を取る必要があると思い、手元資料とネットで入手できる範囲で、少しばかり研究者の方々の論考をチェックしてみた。具体的な出典はあえて示さないが、いくつかの発見があった。その最大のものは、自分が考えていたような結論をその中に見い出してしまったことである。当たり前過ぎる成り行きで、自分でも呆れてしまった(笑)。

そのうちのある論考によれば、ドストエフスキーの外国人に対する態度は、ポーランド人に対してだけでなく、フランス人などに対してもかなり偏った見方をしていたそうである。要は、作家の個性に基づく外国人に対する偏見があり、加えて、東西のキリスト教の歴史的な対立がその背景にあるということであった。ということで、予定を変更して、以下では自分なりの補足を試みることにする。

ペトラシェフスキー事件に連座してシベリアに流刑となり、そこで経験した4年間の流刑囚としての生活(最終的な判決は、懲役4年、刑期満了後一兵卒として4年間勤務)が、様々な意味でドストエフスキーの人生を大きく変えたことは間違いない。実際に刑期が満了したのは1854年2月であったが、概ね1850年年初から1853年末迄の丸4年間を流刑囚としてシベリアで過ごし、その時の経験をもとにして『死の家の記録』が書かれた。この作品には、ポーランド人Mがしばしば顔を出す。

つい最近読んだ光文社版の『死の家の記録』(古典新訳文庫、望月哲男訳)の注には、「(Mの)モデルはアレクサンデル・ミレツキAleksand(e)r Mirecki」とある。新潮文庫版の工藤精一郎訳でも、同様と思われる人物が挙げられている。このM氏について、ポーランド語で何か資料をと思って少しばかり歴史書やネット情報を当たってみたが、詳しいことはよく分からなかった。

ただ、先に触れたある研究者の方の解説から、同じ時期にシモン・トカジェフスキというポーランド人流刑囚がいたことを知り、その流れで「The Central and Eastern European Online Library」というデータベースに至った。英訳ながら、トカジェフスキが服役していた当時の監獄の様子が回想されていて興味深い資料である。先のミレツキも登場する。また、モラヴィアの作曲家ヤナーチェクが、『死の家の記録』を題材にして、『死者の家から』というオペラを書いていたことも、今回初めて知った。

ここでもう一度、ドストエフスキーが生きた時代(1821年-1881年)のポーランドに思いを馳せてみたい。1772年から3回に亘って行われた、ポーランド三国分割が最終的に確定するのは、1815年のウィーン会議以後である。因みに、現在のウッチに当たる地域は、この時から帝政ロシア領となり、以後飛躍的な発展を遂げる。ウッチよりも東のワルシャワは、既に帝政ロシア領となっていた。その後、1919年にポーランドが主権を回復するまで、二度の大きな「蜂起」が起こる。1830年-1831年の11月蜂起と1863年-1864年の1月蜂起がそれである。

1830年の11月蜂起は、同じ年にフランスで起こった7月革命に触発されたと言われている。フランスは、1789年に始まる大革命後の紆余曲折を経て、この7月革命で最終的に立憲君主国となった。また、この時代は、ショパンが生きた時代(1810年-1849年)でもあった。この時期のポーランドでは、フランスなどへ亡命する者や、シベリア送りとなった流刑囚がたくさんいた。ドストエフスキーがシベリアで実際に出会い、そして『死の家の記録』で描写されているポーランド人が、主に政治犯であった理由には、こうした時代背景があったのである。

ドストエフスキーは文句なしの偉大な作家である。多くの人と同様に、自分もドストエフスキーから多くのことを学んだ。学んだことの内容はそれぞれ異なるとしてもである。こんなことを、プライベートなブログとは言え、改めて書きつけるのは恥ずかしいくらいである。しかし、自分のための覚えという意味も込めて、印象に残ったエピソードを一つだけ記しておきたい。『カラマーゾフの兄弟』の一節である。

第二編第四章に「信仰の薄い貴婦人」という章がある。この章では、主人公たちの引き立て役の一人であるリザベータという娘の母親ホフラーコヴァ婦人と、ロシア正教会のゾシマ長老との対話が描かれている。実はかなり長いこと、この対話は、信仰にまつわるエピソードであると解釈していた。ドストエフスキーはロシア正教に深く帰依した人という理解を持っていたからである。

しかし、何度か読み直すうちに、別の解釈が出来ることに気付いた。米川正夫訳と原卓也訳とで訳文が異なることも理由の一つだったのかもしれない。以下、該当する部分を紹介する。ゾシマ長老が、ある医者から聞いた話しとして、くだんの母親に紹介する場面である。ここでは、米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社版)から引用する。

「その人が言うには、『私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を、ひとりひとり別なものとしてそれぞれに愛することが少のうなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、熱烈な考えに到達し、もし何かの機会で必要が生じたならば、まったく人類のため十字架をも背負いかねないほどの勢いであるが、そのくせだれとでも一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができぬ。それは経験で承知しておる。だれかちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者すら憎みおおせることができる。(中略)個々の人間にたいする憎悪が深くなるにつれて、人類全体にたいする愛はいよいよ熱烈になってくる』と」。

ここでは、信じるか信じないかという信仰の問題ではなく、理想主義=人類一般と現実=個々の人間ということが問題にされている。ここで作家が言おうとしたのは、理想と現実とは別のものであって、重なることはない、理想はあくまで目標であって現実そのものではない、そして人間はあくまで現実の側に立っている、そういうことではなかったかと自分は理解している。ドストエフスキーが著した膨大な作品群の中には、こうした深遠な思想を秘めた箇所がたくさんある。自分は、たまたまこの箇所に「引っ掛かった」ということであろうか。

しかし、その大作家も、一人の人としては、その時代の同時代人であって、それ以上ではなかった。ドストエフスキーが生きた時代は、フランス7月革命の根底に置かれていた様々な理想主義的思潮が、共産主義に追い越されつつあった時代であった。そして、欧州とアジアにまたがったロシアは、西欧の当時の最新の思想であった共産主義を移植しながら1917年の革命に向かって進んでいくことになる。それは、作家が考えた、或いは望んでいた方向ではなかった。作家の事実上の絶筆となった『作家の日記』1881年1月号に、作家の考え、思いを読み取ることが出来る。

同じ頃、アジアに位置する日本も、欧州文明の主体であった西欧の思想を受容する。但し、キリスト教の伝統がなかった日本では、まずキリスト教との格闘から始めなければならなかった。そして、余りにも雑な素描との謗りを敢えて覚悟して表現するなら、特急列車並みに、様々な思想のバリエーションを次々と受容していった。戦争に敗れたあとは、共産主義思想も急速に浸透した。ただし、その背景となる事情についてはここでは触れないでおく。

その恩恵に日本がどっぷりと浸かってきた欧州文明も、ここにきて機能不全に陥っていることが明らかになってきている。共産主義も、自由・平等・友愛で端的に示される理想主義も、そして進化理論も、この文脈で言えば、すべて欧州が発祥である。現代の日本の足元にはそうした欧州文明がある。このことを先ず謙虚に認めた上で、改めてこれと対決する時期に来ているのではないかと最近よく思う。そして、こうした考えに自分を導いてくれたのが、ドストエフスキーだったのかも知れないと。。。

(続)

■「私のドストエフスキー」スケッチ(2)

前回の投稿(■「私のドストエフスキー」(1))では、自分が辿ってきた人生をドストエフスキーを通して見直していくという作業に着手し、1825年のデカブリストの乱で稿を終えていた。今回はその続編である。今回も、米川正夫訳ドストエフスキー全集別巻「ドストエフスキー研究」(河出書房新社刊)と、巻末の近田先生編の年表を主な資料として使わせて頂く。特に断りがなければ、この年表からの引用である。

さて、1825年。この時作家は4歳であった。この年齢で明白な記憶が残っているという人は少ないだろうと思う。もちろん、断片的なイメージとして残るということはある。例として、作家の作品から引用させてもらえば、アリョーシャがおぼろげに覚えている母の面影を描写するくだりがある。

「彼の覚えているのは、静かな夏のある夕方だった。開け放された窓、沈みかけた太陽の斜光(この斜光が一番強く心に残っていた)、部屋の一隅の聖像、その前にともっている燈明、そして聖像の前にひざまずいた母が、ヒステリーを起こしたように金切り声や叫び声をあげながら泣きわめき、彼を両手にかかえて、痛いほどぎゅっと抱きしめ、彼のために聖母マリヤに祈っては、さながら聖母の庇護を求めるかのように、両手に抱きしめた彼を聖像の方にさしのべている。。。。」(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫35ページ)。

ただ、デカブリストの乱という事件が、4歳の作家に、あるイメージを残すほど、強い印象を与えたとは思えないので、作家にとっての「事件」の意味はやはり、1849年(28歳)12月に流刑地シベリアに向け出発、年明け1月にデカブリストの妻たちから、紙幣が隠された聖書を贈られたことに求められると思う。

前回の投稿ではもう一つ、ロシア人として生まれた作家の家系について触れておいた。作家の父はポーランド領で生まれ、その地は間もなくロシア領ウクライナとなった。一方、作家の次女エーメによれば、生まれはポーランド領であったが、民族的にはリトアニア人であったとされている。

ドストエフスキーが結婚したのは1867年で、作家が46歳の時であった。配偶者となったアンナ・スニートキナとは、『罪と罰』の草稿速記者として知り合っている。そして、短命に終わる長女ソフィヤの後に生まれた次女のエーメが生まれたのは、2年後の1869年で、作家はこの時48歳だった。前年に『白痴』を完結させ、後の『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』に発展する新たな小説の構想も、その頃既に芽生えていたようである。

ドストエフスキーは、1881年60歳で永眠する。14年間の結婚生活であった。作家の次女エーメが父である作家と時を共にしたのは、彼女が12歳の時までであったということは記憶しておいて良い事実である。また、作家の作品に即していえば、『白痴』より後の時期であった。言い換えれば、エーメが生まれる以前に、『死の家の記録』から『白痴』までの作品が既に書かれていたということである。

ここで、エーメの回想に戻る。米川正夫さんのドストエフスキー研究によれば、エーメはこう回想している。「祖父ミハイルは、絶えず子供たちに、自分の素性を説明していたらしい。なぜなら、わたしはたびたび父の口から、後には叔父たちの口から、こういうことを聞いたからである。『われわれドストエフスキー家のものはリスアニヤ人であって、ポーランド人ではない。リスアニヤとポーランドはまったく別の国だ』」(「ドストエフスキー研究」9ページ)。

このくだりを読む限りでは、作家、そして作家の弟たちは、祖先がリトアニア人であることを強調するというより、「ポーランド人ではない!」ということを強調していたのではないだろうかという気がしないでもない。もちろん、あくまで想像である。仮に、想像が当たっているとして、「なぜか?」という問いが自然に浮かんでくる。その手がかりは、やはり作品にしか求められないであろう。

膨大なドストエフスキー論を展開するつもりは毛頭ないが、拾い読みになるにせよ、少しばかり、作品に描写されたポーランド人像から、作家の思いを探ってみようと思う。その前に、シベリア流刑という経験を境にした、作家のいわゆる後期の作品群の流れを整理しておく。『死の家の記録(1860年-1862年)』『地下生活者(室)の手記(1864年)』『罪と罰(1866年)』『白痴(1868年-1869年?)』『悪霊(1871年-1872年)』『未成年(1875年)』『カラマーゾフの兄弟(1879年-1890年)』。

今回はここまでにしておく。次回は『死の家の記録』から関連する箇所を抜書して、思うところを綴ってみたい。

(続)