■「私のドストエフスキー」スケッチ(1)

前回の投稿(■自分にとっての同時代史と現代史)では、生まれた時には過去にあったことで、かつ自分が生きていく過程で関与していく歴史、つまり同時代史と直接的に結びついている「現代史」ということについて考えてみた。過去にあった事柄の中で、今の自分がどのように関わっているのかということを意識しながら、自分の生を見直すという営みのいわば第一章である。

正直に言うと、「現代史」とそれ以前の「歴史」などという面倒くさい区分はせずに、過去にあったことはすべて「過去」でくくってしまうということも、もちろん可能である。むしろ、過去か非過去(瞬間としての現在と未来)だけで考える、生きていくことの方が普通なのだろう。それに、こんなことは言葉を弄んでいるだけという気もする。要は、自分のような人間は言葉の遊戯が好きな、ただの変わり者ということになるのかもしれない。まあ、他の人々に迷惑をかけさえしなければ、変わり者がいても構わないとは思うが。。。

つまらぬ前置きはこの辺にして。

前投稿で自分にとっての現代史はどのようなものだったのかというイメージが出来あがったので、そのイメージを自分が辿ってきた人生とのつながりで探っていく、というのが次の作業になる。いわば第二章である。今回は「私のドストエフスキー」、つまりドストエフスキーを自分が辿ってきた人生を通して見直していく。ただし、歴史を意識しながらということは、改めて強調しておく必要があるだろう。

初めて読んだ作品は、言うまでもなく『罪と罰』だった。誰の訳であったかは、もう覚えていない。二十歳になる前の頃だったと思う。最初の大学を中退し、改めて受験勉強をしながら大学再入学を目指していた頃である。その後アルバイト先の書店で、割引で買えることに惹かれて、ドストエフスキー全集を買い揃えたのであった。

前投稿の「準則」で計算すると、現代史100年プラス同時代史70年弱。つまり、今から170年程前まで遡る必要があるが、ここでは作家の生誕年等を考慮して、大胆に下駄を履かせることにする。今回参考にするのは、前述全集別巻に付された年表。この年表の末尾には「近田友一編」と書かれている。近田先生は、前にも書いた通り、自分がロシア語の手ほどきを受けた恩師である。先生には、件の全集を購入して数年後に出会ったことになる。

ドストエフスキーのことに触れる前に、どうしても記しておきたいことがある。今回改めて気付いたことであるが、年表の記述によると、作家の父の生家は、ウクライナのポドーリスク県にあったそうである。1789年生まれの作家の父ミハイルは、カーメネツ=ポドーリスキイの神学校に在籍していた。

同市は、現在のウクライナ西部の主要な都市の一つである。1793年の帝政ロシアによるポーランド第2次分割まではポーランド領だった。つまり、作家の父は、当時のポーランド領で生まれたことになる。著名な古城があり、自分も2009年に観光で訪れたことがある。

ただ、米川正夫さんの研究によると、ドストエフスキー家の祖先はポーランド人ではなくリトアニア人であったそうである。作家の娘のエーメ(リュボフィ)の回想がその根拠になっている。ちなみに、1569年のいわゆるルブリンの合同で、ポーランドとリトアニアは同君連合国家となっていた。

さて、ドストエフスキーの生年は1821年、兄のミハイルはその前年1820年に生まれている。つまり、来年2021年はドストエフスキー生誕200周年ということになる。これも今回気付いたことの一つ。生まれた場所は、モスクワのマリンスキ病院右の傍屋となっている。

自分は1978年に、博物館となっていた当該生家を訪れている。旧ソ連ブレジネフ時代の末期だった。観光といっても、独り歩きがままならない時代で、旅程に入っていないこの博物館まで、一人で地下鉄を利用して訪問した。うろ覚えの「夢想家」というロシア語の単語をひけらかして悦に入っていたことが、懐かしく思い出される。

ここで目をウッチに移そう。1815年のウィーン会議の結果として、ポーランドはポーランド立憲王国となり、ウッチはプロイセン領から、短期間のワルシャワ公国時代を経て、帝政ロシア領となっていた。1820年、産業都市ウッチ市の始祖とも言えるレンビェリンスキが、ウッチ周辺地域の視察を行う。作家は、この頃に生まれている。ドストエフスキーの生誕と、産業都市ウッチ誕生の礎となった事績とが、殆ど重なっているという事実は、自分にとって事実以上の重みがある。

5年後の1825年には、産業都市ウッチの基礎が出来ていた。現在翻訳中の、ウッチ歴史百科第3巻第8章にこの辺りの詳しい事情が記述されている。1825年といえば、ロシアではデカブリストの乱が起こった年である。デカブリストの乱は、ドストエフスキーの活動においても、縁浅からぬ事件の一つであった。

しかし、ここで一休みとしよう。一つの投稿があまり長くなると読みにくくなるので、以後の年々については、また次回ということにさせて頂く。このテーマの最初の投稿ということで、冒頭にグダグダと前置きを付したために、本題の分量が見劣りする投稿になった。悪しからずご容赦頂きたい。

(続)

■ロシア語からポーランド語へ

自分の人生で、ロシア(当時はソ連)から、ポーランド、ウッチにキーワードが移っていく直接のきっかけは、自分が選んだ伴侶が、ゆかりの人であったからである。この辺りの経緯は、半生記の前編(私家版)で触れられているが、出会いのもとにはロシア語というキーワードがあった。

前回の投稿(■言葉との関わりについて)で触れたように、自分なりに考えて入学した二度目の大学では、必修語学は英語を履修したものの(入学前に決めておかねばならなかった)、入学後まもなくの頃にロシア語に興味を持った。しかし、必修語学は既に英語と決めていて変更は出来ない。それでも、やるなら本格的に勉強したいと思い、必修語学のロシア語の授業を聴講させて頂いた。

担当の教官に無理をお願いしご快諾頂いたのだが、毎回授業に出ること、正規の学生と同じように試験を受けて及第することという条件付きであった。我ながら、よく続いたなと思うのであるが、ここでロシア語の基礎の手ほどきを受けた。担当教官がドストエフスキー研究者の近田友一先生で、授業の合間にドストエフスキーの作品にまつわるお話しを聞くことができたことも、続いた理由の一つだったように思う。

その頃は、ドストエフスキーの作品をオリジナルで読むことが夢で、ナウカ版の全集を買い揃えたりしたが、オリジナルで読むという夢は果たせずに終わった。ただし、日本語での評伝や作品論のたぐいは濫読した。作品は河出書房新社版の全集で間に合わせていた。この全集はポーランドに移住する際にも、無理をして持ってきている。

最初のソ連観光旅行で、モスクワのドストエフスキー博物館を訪れたり、レニングラード(当時)の『罪と罰』の舞台になったと言われる場所を散策したり、常にドストエフスキーの周辺をさまよっていたように思う。しかし、青年時代の夢はあくまでも夢。まもなく「現実路線」を取らざるを得なくなる。

せめてロシア語で生活の糧を得ようということで、文学ではなく語学としてロシア語の学習を続け、「生」のロシア語をということで遊学したモスクワで、今度はポーランドに出会う。当時日本でも、「連帯」運動の興亡を通してポーランドの知名度は高まっていた。ポーランド人そのものからくる魅力はもちろんであるが、自分の関心がロシア(当時はソ連)からポーランドに移っていくことに、さほど違和感はなかった。この時に一緒だったポーランド人達とは、その後当地ウッチで再会し、今でも交流がある。

こうして、人生の方向を決めたロシア語との出会いは、更に発展してポーランドとポーランド語に移っていった。それでも、まだ日本で生活していた頃はロシア語で生活の糧を得ていた。しかし、移住してからはポーランド語を使わざるを得なくなる。全くの独学で、ちょっとかじった程度のポーランド語のレベルで移住を決心したため、最初の一年目は苦しかった。そのレベルで、無理やり通訳などをしていたのだから、我ながら心臓が強かったなと思う。

それから、既に四半世紀が経過した。その間、職場はいろいろ変遷があったが、居住地は変わらず、仕事上の赴任地から帰る場所は常にウッチであった。結婚したあとは別にして、日本にいた頃は毎年のように住所を変えていた生活が、ポーランドに移住して初めて定住地を得たことになる。様々な思い出が頭に浮かんでくるが、これはまた別の機会にしよう。

現在、ポーランド語は生活言語である。家族との意思疎通はポーランド語を介している。もちろん、移住後も概ね日系企業で禄を食んでいたおかげで、日本語を忘れてしまったわけではない。ただ、ロシア語がポーランド語を超えて再び人生のキーワードに戻るということだけはなさそうだ。

(了)

■ウッチ歴史百科第3巻私訳版ー第7章の翻訳終了ー

新装版では固定ページに置いてある「ウッチ歴史百科第3巻私訳版」の第7章の翻訳が終了した。続く第8章のタイトルは「最初の産業ブームー1823-1824」。その当時ポーランドは、立憲ポーランド王国としてロシア帝国の傘下にあったが、そのロシア帝国で一つの転機となる1825年、「デカブリストの乱」が起こる年の直前の2年間が対象である。

(了)

■バウータ市場

今から約30年前のウッチと、現在のウッチとでは、ずいぶん趣が異なる。その30年は脱社会主義のポーランドが辿ってきた30年でもある。

ポーランドだけでなく、旧ソ連・東欧体制が崩れた象徴的な年となったのは1989年だった。普通は、冷戦終結の年という言い方をするのかもしれない。ポーランドでは、円卓会議そして自由選挙という流れがあった年だ。自分が移住した1994年当時は、新しい体制がまだ始まったばかりで、本格的に国の様相が変わるのは、2004年にポーランドなど10カ国が新たに欧州連合に加盟してからである。

身の回りのことを思い起こしてみると、税法など直接生活に関わる法律がずいぶん変わり、デノミもあった。通貨のゼロが4つも切り取られ、しばらくは頭の中で換算が必要だった。欧州連合加盟までの間は、仕事に関わる分野でも法律の変更にずいぶん悩まされた。もっとも、そのおかげで日系企業で仕事をさせてもらえたという側面もあるのであるが。今は、現地の言葉であるポーランド語が出来る日本人というだけでは、なかなか仕事が見つからないようだ。

話しをウッチに戻すと、ウッチの「顔」になっているショッピングセンターのマヌファクトゥーラ(Manufaktura)がオープンしたのは2006年(*)、地元の人々の生活に今でも欠かせないバウータ市場に、露店ではないパサージュが出来たのは2009年だった(*)。いずれも欧州連合加盟後のことである。二つともウッチの歴史に深く関わっているが、今日のテーマはバウータ市場。(*:公式HPによる)

郷土史に関するポーランド人向けの啓蒙的な動画はたくさんあるが、日本語で紹介しても良いかなと思える動画があったので、まずこの動画を紹介する。オリジナルの作者は、音楽家のトマシュ・ゴウェンビェフスキさん。作者にお願いして、日本語の字幕が表示されるようにして頂いた。翻訳はおおよその意味が通じればよいというレベルでやっつけてあるので悪しからずご了承をお願いする。

冒頭に、「19世紀中葉のウッチ市郊外。バウータ地区はこの頃に飛躍的に発展した。  」とある。19世紀中葉、つまり1850年前後ということである。ポーランドは、1830年の11月蜂起(-1831年)の失敗後、ロシアの属国に成り下がっていた。動画の冒頭はそうした背景があって述べられている。

時代は1915年に飛ぶ。第一次世界大戦(1914年ー1918年)のさなかの時代だ。ポーランドは、ドイツとロシアとの間の「戦闘地」になっていた。戦史の詳細は、専門の研究者の研究に任せるとして、とにかく1915年のウッチはドイツ人の手中にあったようである。

時代はさらに飛んで、第二次世界大戦中のドイツによる占領下の時代に移る。このブログでも、ウッチ・ゲットーについては過去に複数記事にしているが(■ウッチ・ゲットー探訪■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと■ウッチ・ゲットー救出記念公園のこと)、この時期のことを扱う際には、どうしても避けて通れないテーマである。今日のテーマであるバウータ市場はその中心的な場所であった。ゴウェンビェフスキさんのこの動画でも、当然ゲットーのことが触れられている。

概して、18世紀末の「第3次分割」から、19世紀を通して、20世紀初頭の主権回復に至るポーランドの歴史は、実に波乱に満ちている。通常、この時期の歴史は、主役であるドイツやロシアの側から記述されることが多いが、視点を変えてポーランドからみたドイツやロシアを研究したら面白いかもしれない。当ブログでも、ウッチ郷土史という視点で、こうした時期の歴史の一端を翻訳・紹介している(■ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完))。

さて、この動画を紹介しようと思ったのは、ウッチの歴史の概略が辿れることが一つの理由であった。が、実はそれにも増して、作者の結語とも言える最後の部分に共感したというのが本音の理由である。今は我が家でも、買い物の大半はハイパーマーケットで処理するが、野菜や果物は出来るだけバウータ市場に出かけて調達する。バウータ市場といってももっぱら露店の方。それは、新鮮だからである。パサージュが出来た今でも、これは変わらない。バウータ市場の歴史的な意味はもちろん重要であるが、それは同時に自分の生活に直接結びついた場所でもある。歴史好きは、現在そこに住み生活している人々のことを忘れがちであるが、自戒をこめてこのことを思い起こしておきたい。

(了)

■6年ぶり、「子どもたちへ」

〈子どもたちへ〉

最後に君たちに宛てて便りを送ったのは、ポーランドと国境を接するウクライナに、ロシアが歴史的な侵攻を敢行した2014年。6年ぶりの通信になります。

最初の便りは、こんな感じで書き出されていました。

。。。ポーランドで成長したとはいえ、日本人のパパとポーランド人のママとの間に生まれた君たちは、平均的なポーランド人とは少し違った経験をしてきたはずです。学校などでも、少なくとも最初の頃は、日本人としての扱いだったでしょう。日本での異邦人(エトランジェ)ほどではないにしても、周囲に違和感を感じたことも多々あったであろうと想像します。パパも、平均的日本人とは少しばかり違った人生を歩んできました。いや、ポーランド人として育った君たちから見ると、平均的ポーランド人とは違うパパということになるのかもしれませんね。。。

この時、パパは君たちが記憶していないパパの前半生を回想していたのでした。ポーランドに移住して以降の時期については、君たちの記憶にも残っているはずですから、それ以前の時期のパパを君たちに知ってもらおう、というのが趣旨でした。以降の時期については後半生というわけです。日本での生活とポーランドでの生活という区切りだけでなく、君たちのことを考慮した区切りでした。

先に引用した最初の通信では、移住に伴う3つの「不足」を挙げて、ポーランドに移ったばかりの当時の生活を回想していました。日本食材、日本語の書籍、そして日本語環境のPCライフ、これがその3つの不足でした。いずれもそれから30年近く経った現在とは全く違った環境にありました。現在では、想像もつかない話しでしょう。インターネットとスマートフォンの時代になっていくのは、更にその後のことです。

前置きが長くなりました。実は、君たちへの通信を再開したのは、君たちと共有してきた時間を回想するためではなく、進行中である後半生についてのパパなりの回想を、少しづつでも書き留めておきたくなったからです。

前半生における主要なキーワードはロシア語でした。今考えれば、このキーワードも一里程に過ぎず、ポーランドそして何よりウッチが、最終的なキーワードであることに全く疑問の余地はなくなっています。このことを君たちに伝えたくて、この新たな便りをしたためています。

コンパスは、ウッチというキーワードだけです。このキーワードが、どれだけの奥深さを秘めているのか、正直今でもよく分かっていません。ウッチというキーワードで回想されたパパの後半生。どんな内容になるのか。とにかく、出来るだけいろいろな切り口で回想してみようと思っています。ではまた。