■ロシア語からポーランド語へ

自分の人生で、ロシア(当時はソ連)から、ポーランド、ウッチにキーワードが移っていく直接のきっかけは、自分が選んだ伴侶が、ゆかりの人であったからである。この辺りの経緯は、半生記の前編(私家版)で触れられているが、出会いのもとにはロシア語というキーワードがあった。

前回の投稿(■言葉との関わりについて)で触れたように、自分なりに考えて入学した二度目の大学では、必修語学は英語を履修したものの(入学前に決めておかねばならなかった)、入学後まもなくの頃にロシア語に興味を持った。しかし、必修語学は既に英語と決めていて変更は出来ない。それでも、やるなら本格的に勉強したいと思い、必修語学のロシア語の授業を聴講させて頂いた。

担当の教官に無理をお願いしご快諾頂いたのだが、毎回授業に出ること、正規の学生と同じように試験を受けて及第することという条件付きであった。我ながら、よく続いたなと思うのであるが、ここでロシア語の基礎の手ほどきを受けた。担当教官がドストエフスキー研究者の近田友一先生で、授業の合間にドストエフスキーの作品にまつわるお話しを聞くことができたことも、続いた理由の一つだったように思う。

その頃は、ドストエフスキーの作品をオリジナルで読むことが夢で、ナウカ版の全集を買い揃えたりしたが、オリジナルで読むという夢は果たせずに終わった。ただし、日本語での評伝や作品論のたぐいは濫読した。作品は河出書房新社版の全集で間に合わせていた。この全集はポーランドに移住する際にも、無理をして持ってきている。

最初のソ連観光旅行で、モスクワのドストエフスキー博物館を訪れたり、レニングラード(当時)の『罪と罰』の舞台になったと言われる場所を散策したり、常にドストエフスキーの周辺をさまよっていたように思う。しかし、青年時代の夢はあくまでも夢。まもなく「現実路線」を取らざるを得なくなる。

せめてロシア語で生活の糧を得ようということで、文学ではなく語学としてロシア語の学習を続け、「生」のロシア語をということで遊学したモスクワで、今度はポーランドに出会う。当時日本でも、「連帯」運動の興亡を通してポーランドの知名度は高まっていた。ポーランド人そのものからくる魅力はもちろんであるが、自分の関心がロシア(当時はソ連)からポーランドに移っていくことに、さほど違和感はなかった。この時に一緒だったポーランド人達とは、その後当地ウッチで再会し、今でも交流がある。

こうして、人生の方向を決めたロシア語との出会いは、更に発展してポーランドとポーランド語に移っていった。それでも、まだ日本で生活していた頃はロシア語で生活の糧を得ていた。しかし、移住してからはポーランド語を使わざるを得なくなる。全くの独学で、ちょっとかじった程度のポーランド語のレベルで移住を決心したため、最初の一年目は苦しかった。そのレベルで、無理やり通訳などをしていたのだから、我ながら心臓が強かったなと思う。

それから、既に四半世紀が経過した。その間、職場はいろいろ変遷があったが、居住地は変わらず、仕事上の赴任地から帰る場所は常にウッチであった。結婚したあとは別にして、日本にいた頃は毎年のように住所を変えていた生活が、ポーランドに移住して初めて定住地を得たことになる。様々な思い出が頭に浮かんでくるが、これはまた別の機会にしよう。

現在、ポーランド語は生活言語である。家族との意思疎通はポーランド語を介している。もちろん、移住後も概ね日系企業で禄を食んでいたおかげで、日本語を忘れてしまったわけではない。ただ、ロシア語がポーランド語を超えて再び人生のキーワードに戻るということだけはなさそうだ。

(了)

■言葉との関わりについて

自分が勝手に命名している、自分の人生の「20年周期説」によれば、20歳までが人格形成期、40歳までが若年期、その後60歳までが壮年期である。

ポーランドに移住してきたのは、ちょうど40歳のときだから生活の場所という観点で確かに区切りになっているし、また60歳で企業人生にピリオドを打ったので、生きることに必要な糧を得る職業という観点で、60歳が区切りになっている。日本から出てしまっているので「定年」という縛りはなかったのであるが、あえて自分で区切りを付けた。後に家族から、「もう少し企業で頑張ってもらいたかった」という嘆きもどきも出たのであるが。。。

こう書くと、数字遊びに走り過ぎているというコメントがすぐにも出てきそうである。確かにその通りで、かつ数字遊びは文字通り「遊び」である。しかし、数字で区切ることで少なくとも自分の人生を相対化、対象化するという効用はある。人生の転機を決断する時に、どれだけそうした意志が働いていたのか、今は知る手立てとてないが、それまでの人生をそれと気づかず振り返っていたのではないかと思う。

対象化といえば、若年期と壮年期を合わせた40年間、つまり職業人生を送った期間を通して一貫していたのは、外国語を駆使して禄を食むということであった。

統計によると、高校に入学した頃の大学進学率は20%弱。当時は、職業高校という選択肢はそれほど奇異な選択肢ではなかった。一方で、高校を卒業した年の大学進学率は約30%。結局、自分も大学進学をめざすことになった。周りにも、高校卒業後直ぐに職業生活に入らず大学入学をめざした学友が約40人のクラスで5人ほどいた。

そういう時代であったのだが、進学校からではなく職業高校から大学に進んだことで、英語に苦手感を持ってしまったようだ。改めて受験勉強をして入学した二度目の大学で、必修語学の英語とは別にロシア語に惹かれたのも、英語への苦手感の裏返しだったのかもしれない。とにかく、その後特殊語学遍歴が始まることになる。特殊語学といっても、要は英語以外の言語の学習ということである。そして、これがその後の人生の方向を決めてしまう結果になった。

移住後は様々な理由で随分と職場を変えたが、それだけ履歴書もたくさん書いてきた。履歴書の語学欄には、通常多少下駄を履かせて書くものだが、ロシア語、ポーランド語については、レベルの差は別にして概ね記載してきた。そして英語もひっそりと。その後プラハで勤務することになり、チェコ語もかじり、また顧客としてオランダ人、イタリア人とお付き合いすることになり、挨拶くらいは出来るようにということで、オランダ語とイタリア語に手を染めたりした。ただ、どうしても先に進まない言語もあった。それは西隣の国の言語であるドイツ語。また、東スラブ、西スラブときて、次は南スラブということで始めたクロアチア語も、成果はなかった。

今思えば、一応習得したと思える言語も、ポーランド語ですら、基本は仕事のための語学であり、自分のための語学ではなかったように思う。特に英語は、相変わらず苦手で、社内会議では分かっている振りしながら凌いでいた。とにかく、語彙が決定的に不足していた。語彙だけは自然に習得するという訳にはいかないらしい。そして、意識的な暗記作業が出来るのは、やはり学生時代のようである。そんなこともあって、企業時代を抜け出してまず感じたのは、自分以外の話者の思いを伝える「通訳」という仕事から解放されたという思いであった。

しかし、語学が好きという気持ちには変わりなく、習得した言語を使って、企業「卒業」後に自分がやれることとして浮かび出てきたのが、ウッチの歴史を翻訳する作業であり、その言語を使って日本語を教えるという仕事である。こうした視点に至るにはさらに数年必要であったのだが、これはまた次のステージの話になる。

さて、仮にこの短文を目にする若い方がいるとして、ここで結論めいたことを付け加えておくなら、多少自分の時間を犠牲にしても、語学を修める価値があるということ、習得した後の使い道も各人各様であるということの2点だろう。もちろん、習得過程での3キ、暗記、根気、年季は、どんな場合でも重要であることは言うまでもない。

(了)

■6年ぶり、「子どもたちへ」

〈子どもたちへ〉

最後に君たちに宛てて便りを送ったのは、ポーランドと国境を接するウクライナに、ロシアが歴史的な侵攻を敢行した2014年。6年ぶりの通信になります。

最初の便りは、こんな感じで書き出されていました。

。。。ポーランドで成長したとはいえ、日本人のパパとポーランド人のママとの間に生まれた君たちは、平均的なポーランド人とは少し違った経験をしてきたはずです。学校などでも、少なくとも最初の頃は、日本人としての扱いだったでしょう。日本での異邦人(エトランジェ)ほどではないにしても、周囲に違和感を感じたことも多々あったであろうと想像します。パパも、平均的日本人とは少しばかり違った人生を歩んできました。いや、ポーランド人として育った君たちから見ると、平均的ポーランド人とは違うパパということになるのかもしれませんね。。。

この時、パパは君たちが記憶していないパパの前半生を回想していたのでした。ポーランドに移住して以降の時期については、君たちの記憶にも残っているはずですから、それ以前の時期のパパを君たちに知ってもらおう、というのが趣旨でした。以降の時期については後半生というわけです。日本での生活とポーランドでの生活という区切りだけでなく、君たちのことを考慮した区切りでした。

先に引用した最初の通信では、移住に伴う3つの「不足」を挙げて、ポーランドに移ったばかりの当時の生活を回想していました。日本食材、日本語の書籍、そして日本語環境のPCライフ、これがその3つの不足でした。いずれもそれから30年近く経った現在とは全く違った環境にありました。現在では、想像もつかない話しでしょう。インターネットとスマートフォンの時代になっていくのは、更にその後のことです。

前置きが長くなりました。実は、君たちへの通信を再開したのは、君たちと共有してきた時間を回想するためではなく、進行中である後半生についてのパパなりの回想を、少しづつでも書き留めておきたくなったからです。

前半生における主要なキーワードはロシア語でした。今考えれば、このキーワードも一里程に過ぎず、ポーランドそして何よりウッチが、最終的なキーワードであることに全く疑問の余地はなくなっています。このことを君たちに伝えたくて、この新たな便りをしたためています。

コンパスは、ウッチというキーワードだけです。このキーワードが、どれだけの奥深さを秘めているのか、正直今でもよく分かっていません。ウッチというキーワードで回想されたパパの後半生。どんな内容になるのか。とにかく、出来るだけいろいろな切り口で回想してみようと思っています。ではまた。

■ブログ新装開店のこと

5年前にこのブログを始めた時の基本的なアイデアは、終の住み処と決めている地元ウッチの諸々を、日本語で紹介するということであった。ただ一方で、第二の人生におけるもう一つの仕事として、日本のことをウッチの人達に紹介するということも企図していた。実際まもなく、にわか日本語教師として日本語を教えることになり、現在に至っている。

こうして、「二足のわらじ」で動き始めた第二の人生であったが、そのうちこの2つ目の仕事が主な活動になり、ブログは「開店休業」というジレンマに陥ってしまう。折々、この状況を解消して本来の姿に戻そうと試みてはきた。しかし、状況は改善せず、結局ブログの方は最後の投稿から2年近く経ってしまった。

一時は、この日本語教師としての仕事が、企業時代と同じような「仕事」として流れていくかに見えた。しかし、昨今の環境激変で仕事そのものの根本的な変更を迫られ、その対応に追われることになった。そして、このことが前述のジレンマ解消という課題に、再び取り組む契機になった。皮肉と言えば皮肉なことではある。

まず気付いたことは、ウッチの「諸々」を紹介するというのは、自分が目指すようなブログのテーマとしては、風呂敷を広げ過ぎということだった。もちろん、そうした日々の思いをつづることが主体のブログはネットに溢れている。当ブログも一時期似たような流れに傾いていたことがあった。しかし、今回の環境激変で、自分に与えられた時間には限りがあるということに改めて気付かされる。

ということで、「諸々」という看板は取り下げて、ブログの本来の目的である、ウッチの歴史を日本語で読めるようにすることに注力することにした。過去の投稿も観光案内的な内容の投稿は新装バージョンから外した。とはいえ、翻訳だけではブログにならないので、ウッチと自分との関わりということに限定して、思うことなどをこれからもつづっていこうと思う。

(了)

■ブズーラ川

日本語の個人レッスンを授けていた中学生の男の子が、この9月から高校に上がり、学校の授業に集中したいということで日本語のレッスンを中断すると伝えてきた。9月はこの授業だけを予定していたので、いきおい今月も夏季休暇の続きをすることになった。

若干拍子抜けの感もあるが、ポジティブに考えれば自分が使える時間がまたできた訳で、早速前回の投稿で宿題になっていた、ズギェシを流れるブズーラ(Bzura)川の探索をしてきた。地図を眺めることを厭わない方は、以下では前回の投稿にある地図かグーグルマップを参照して頂ければと思う。

いつものように6番のバスに乗る。定期券はウッチ市の境界を超えると無効なので、ズギェシに入る時に別途切符を買わなければならない。筆者はスマートフォンで処理するが、紙の切符を利用している人もまだ多く、境界があるバスストップで検札する人々をよく見かける。

前回はズギェシのバスターミナル迄乗ったが、今回は途中で下車して、先ずコンスタンティヌフカ通りに掛かる川の「名残り」を見届けることにする。地図を見ると分かるが、ズギェシの街を走る主要道路である国道91号線(旧1号線)を境にして西側にブズーラ川の一部が走っている(流れている)。

以前ウッチを流れるヤーシェン川を探索した際と同様、地図を頼りにコンスタンティヌフカ通りのそれらしい場所まで進むと、確かに小川が流れているのが確認できる。但しささやかな流れは叢の陰に隠れ、普通に歩いていては恐らく見落としてしまうであろう。注意深い人なら、橋が掛かっているのでその下に流れがあるであろうくらいは想像するかもしれないが。ということで、第一の目的は達成。上述の小川を何枚か写真に収め、そのままコンスタンティヌフカ通りを進んで、カトリック教会を横目に見ながら街の中心に出る。

話題は少し脇道にそれるが、ウッチは、西のドイツと東のベラルーシとを結ぶ鉄道の幹線から少し南に外れており、西から鉄道で移動してくる際は、このズギェシを通って更にその先にあるクトゥノという駅が最寄り駅になる。ベルリンなどからウッチに来る場合、クトゥノで乗り換えて鉄道で来ることも可能だが、地元の人達は乗用車かクトゥノ・ウッチ間を走るミニバスで移動することが多い。その場合通常はこのズギェシの市内を通り抜ける。目印は上述のカトリック教会と国道91号線を挟んで反対側にあるマック。特定の商業施設の宣伝まがいは好ましくないが、ここはご容赦願うことにしたい。ということで、今回はマックでコーヒーブレイク。

コーヒーを飲んで一休みしたあと、今度は川の途切れた先の部分の探索に移る。マックを出て裏通りを少し行くとそれらしい場所がある。その先の市営(恐らく)の貯水池に繋がっているせいか、前述の小川よりは若干整備されている。流石に舗装はされていないが、両岸は散歩道になっていて、バギーを押す幼児を連れた母親が散歩していた。貯水池はポーランドの英雄タデウシ・コシチューシコの名が冠されている。

この貯水池に至る前述の短い水流が川と名付けられるとして、実はこの川は貯水池を経て更に先につながっている。地図を少し拡大してウッチ市域を含めた上で改めて眺めると分かるが、最終的にはウッチ・ワゲヴニキ地区のアルトゥルーヴェク公園に至っている。当ブログのメインテーマはウッチの歴史を探っていくことであるが、川という視点で見ていくとウッチの外に出ていかざるを得ない。前回と今回の投稿はその最初の試みということになるであろうか。

(了)