■ウッチ・グダンスク通りの刑務所博物館

公式サイトの紹介文が非常に良く出来ているので、本投稿はそれを翻訳して紹介する。

<翻訳>
19世紀後半のウッチは、ポーランド立憲王国における工業の中心地であったが、また労働者がその経済状況の改善を求める様々な運動の場所であり、憎むべきツァーリ体制との闘争の場所でもあった。こうした事件の参加者の多くは政治犯として逮捕され、現在Plac Wolnoszci(自由広場)と呼ばれているNowy Rynek (ノーヴィー・ルイネク)にある市庁舎に未決囚として収監された。まもなく市庁舎では手狭となり、当時の市当局は新たな未決囚収容施設の建設に着手する旨の決定を1881年に行う。1884年、ツァーリ政府の許可が出るとすぐ、Konstantynowska(コンスタンティノフスカ、現Legionowレギオーヌフ)通りとDluga(ドゥーガ、現Gdanskaグダンスカ)通りとが交差する場所に、著名な建築家Hilari Majewskaの設計による刑務所の建設が着手された。刑務所は1885年10月9日に稼働を開始した。続く数カ月間に、ツァーリ政府によって国事罪に問われたプロレタリアート党の党員達がドゥーガ通りにできた刑務所に送られてきた。まもなくウッチ刑務所は政治犯として逮捕された囚人のすべてを収容することができなくなる。1892年のウッチの反乱の際にはドゥーガ通りの刑務所は囚人で溢れるほどになり、当局は別棟の設置を余儀なくされた。1905−1907年の革命当時も似たような状況であった。刑務所は革命運動に加わった人々で溢れた。そこから多くの囚人が引き出されて近くにあるKonstantynowska通り沿いの森に連れてゆかれ、そこで銃殺された。また別の囚人はロシア奥地の流刑地に送られた。

刑務所の歩みの中で最も悲劇的な時期の一つは革命運動後の弾圧の時代であった。

1908年2月、刑務所の中庭に絞首台が立てられ、1909年4月までに104回絞首刑が執行された。

第一次世界大戦時(1914−1918)には刑務所の建物はドイツ占領軍の指揮下に置かれた。

第二共和国時代にはGdansk(グダンスク)通りには刑事捜査拘置所が置かれた。当初は占領軍当局もこれを利用した。20年代からは主として左翼運動に関連する囚人が収容された。

ナチスドイツによる占領下の時代にはGdansk(グダンスク、Danziger Strasse)通りの建物には、中継監獄の機能を果たす女性専用の警察刑務所が置かれていた。公式には、当該刑務所はウッチ市(Litzmannstadt)警察幹部会に属したが、実際はゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)が直接管理していた。女性囚人の殆どは政治犯の宣告を受けた女性達で、武装闘争同盟や国内軍、または秘密左翼組織に関与したもの、罪状はサボタージュ、武器の所持、独への敵対、外国ラジオの違法聴取、ユダヤ人への援助などであった。そして、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ラベンスブルックといった収容所に送られていった。そこは、労働もしくは矯正のための収容所であり、その他の強制隔離のための場所であった。事情聴取がある場合にはAnstadta通り7/9にあるゲシュタポ本部に移送された。

1945年、Gdansk通りの建物は引き続き女性刑務所であった。監督は公共治安庁の県職員が行っていた。1953年2月までこの刑務所には1939ー1945年の間に地下活動、主として国内軍の活動や独立運動組織に関与した女性が収容されていた。刑務所にはまた、1945年以降のポーランドの新たな現実を容認できず政治的に野に下った人々も収容された。

以上

以下は、昨年秋に訳者が撮影したスナップ

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グダンスク通りから見た刑務所博物館

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刑務所博物館への入口

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博物館の中の廊下部分

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廊下に沿って配置されている房の扉の一つ

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房の内部を模した展示

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
ウッチ独立の伝統博物館の別館の一つ、グダンスク通りの刑務所博物館公式サイトから
(ここ)
(参考資料)
1.『東欧史(新版)』( 「世界各国史シリーズ」第13巻、山川出版社刊、1977年)
2.『ポーランド現代史』(世界現代史シリーズ第27巻、 山川出版社刊、1992年 )

(了)

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■イラスト付ウッチ歴史百科第3巻私訳版(002-2)

第二章 プロイセン領時代のウッチ(承前)

5.ドイツ人入植者たち
1793年の第二次ポーランド分割後、プロイセンの支配者たちはウッチ周辺の人口が過疎であり、この地域への大掛かりな植民が可能であることに着目した。そして、ウッチ周辺にいくつかのドイツ人居留地をおく計画が立てられた。Dabrowa(ドンブローヴァ)、Zabieniec(ジャビェーニェッツ)、Janow(ヤーヌフ)などすでに創設されていたいわゆる「オランダ人」居留地は数に入っていなかった。最初の居留地はEkonomiaLaznow(エコノミヤ・ワズヌフ)の周辺に作られた。森林を開墾してBruzyca(ブルジッツァ)またはLaznowskaWola(ワザノフスカ・ヴォーラ)といった村々が作られ、プロテスタント教会、郵便局、店屋など、植民者たちに必要な施設も供給されていた。そこにはポーランド語を解さない、とりわけバンベルク近辺出身の生粋のドイツ人が入植した(土地の農民たちはバンベルグ人達と呼んだ)。入植の権利を付与された植民者たちは、6年間地代の支払いが免除された。耕作に適した広大な土地がうまれた。建設された村は多くの場合レンガ造りであったが、市が開かれる中央広場から走る道沿いに小屋が点在しただけの小規模な村もあった。 ウッチ周辺のStoki(ストーキ)、Mileszki(ミレーシキ)、Bedon(ベドン)、Chojny(ホイヌィ)といった私有地の所有者たちが、自己の森林地を進んで廉価で売り渡したことは興味深い。人の住まぬ、文字通りの狩猟地であったウッチ周辺は、1799-1816にはすでに整備された賃貸借地の村落に変わっていた。計画的に作られたな六角十字路の村落Nowosolna(ノヴォソルナ)はこうして生まれ、周辺の Konstantynow(コンスタンティヌフ)は発展し、またドイツ人植民者や、主として機織り工からなる手工業者が、Zgierz(ズギェーシ)やOzorkow(オゾルクフ)に入植していった。

6.ノヴォソルナ
新たな植民の主要な地点になったのは、将来市制権を持つ都市となる計画であった SulzfeldもしくはSalzfeldという名の広大な居留地であった。この居留地は後にNowosolna(ノヴォソルナ)という名を与えられる。それまで森林地帯であった未入植の土地に、非常に特徴的な配置を持つ入植地が作られた。この配置は今に至るまでその形を留めている。中央広場から8つの道路が放射線状に広がり、これらの道路に沿ってドイツから来た入植者達が住む家が建てられた。Nowosolnaは早いテンポで発展し、プロイセン時代の末期には戸数及び人口でおそらくウッチを追い越していたと思われる。いずれにせよ、この居留地は1823年までには、市制権は持たないものの、ウッチ市の近郊にある諸都市よりも大きな都市になっていた。

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プロイセン植民者が設計したノヴォソルナの特徴のある放射線上の道路配置

7.最初の学校
ウッチには長い間学校がなかった。プロイセン時代の末期、ウッチ市民あるいは同時に占領行政府の発案により、学校立ち上げを前向きに検討することが決定された。1806年、この目的による募金がウッチ市で行われ、教師志望者達との交渉が開始された。1806-1807年の戦争で関連するすべての活動が中断されたものの、1808年10月中旬には学校開設にこぎつけた。しかし、開設の当初から様々な困難が積み重なった。というのも、市民達は教師達に種々要求を出して彼らの維持に必要な資金を供出することに積極的ではなかったからである。一方教師達は行政府の支持を模索した。紛争は激化した。最終的にウッチ市民達は資金供出を拒否し、子弟を学校に送ることを止めてしまった。こうして、最初の学校は機能を停止してしまう。

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1808年開校のウッチ最初の学校、現在シテルリング通りにあるミツケヴィチ記念第1小学校としてその伝統を今も維持している

8. アントニェフ、オレフフ、アウグストゥフ
プロイセンの占領行政府はさらにいくつかの居留地を設置した。おそらく1790年台に既にKarkoszki(カルコシキ)、Antoniew(アントニェフ)そしてOlechow(オレフフ)といった地域に居留地が設置された。これらのうち一番目のKarkoszki居留地は、従前からカルコシキと呼ばれていた森を開墾して作られた。建物といってはわずか数戸で、現在のDworzec Fabryczny(ファブリチナ駅)とul. S. Jaracza(ヤラチ通り)、ul. G. Piramowicza(ピラモヴィチ通り)に挟まれたエリアにあった。一方、アントニェフ居留地ははるかに規模が大きく、場所は現在のul. Wojska Polskiego(ヴォイスコ・ポルスキェ通り)、ul. Strykowska(ストゥリコフ通り)そしてul. Telefoniczna(テレホニチヌィ通り)に挟まれたエリアにあった。かつて17世紀には無人のLipinki(リピンキ村)と呼ばれていたところである。プロイセンの資料によると、この居留地の1799年の人口は257人(1820年台前半には800人を超え、ウッチもしくはノヴォソルナに次ぐ規模となる)であった。 アントニェフの住民の大半は手工業、とりわけ織物工業に従事していた。現在のウッチ市の領域にある最初の手工業「村」の一つもこのエリアにあった。三番目のオレフフ居留地は中規模の居留地で、現在のOlechow(オレフフ)とOlechow Maly(小オレフフ)のエリアにあった。やや遅れた 1798-1802年には、当初 Friedrichshagenと呼ばれた居留地が生まれた。この居留地はワルシャワ公国時代にAugustow(アウグストゥフ)に改称される。当初十数戸の小規模な村であったが、現在地名もそのままの郊外が広がっている。プロイセンの占領行政府の指示で、新たに設置された村々にはドイツ人限定で入植が行われるはずであったが、実際はこのプロイセン色が出ていたのは、ノヴォソルナとオレフフだけであった。アウグストゥフ、 アントニェフ、特にカルコシキでは住民の民族構成は雑多であった。

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かつてのカルコシキ居留地があったエリア、同名の森の一部は鉄道駅の脇にあるモニューシコ記念公園として残っている

(訳者注記)
(オリジナル・テキスト)
“Ilustrowana Encyklopedia Historii Łodzi” nr3, Urząd Miasta Łodzi, Łódź 2009?
(参考資料)
1.『東欧史(新版)』( 「世界各国史シリーズ」第13巻、山川出版社刊、1977年)
2.Historia szkoły w Łaznowie (ここ)

(了)

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■新米日本語教師奮闘記(2017-01-18)

ポーランド人に日本語を教えるようになり、「外国人に教える日本語文法」に関心を持ち始めるようになった。

日本語の授業を実践する前にこのテーマで読んでいた参考書籍は、
1. 江副隆秀著『日本語を外国人に教える日本人の本』(創拓社、1985年刊)
2. 荒川洋平著『もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』(スリーエーネットワーク刊、電子書籍版)
3. 荒川洋平著『続・もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』(同上)
の三冊。
1. は、いつかポーランドで日本語を教える機会もあろうかと思い日本で買い移住時に持ってきた本で、2. と3. は教える可能性が出てきた昨年、電子版で購入したものである。この三冊については限りなくお世話になっており、メニューの参考文献にもあげてある。

曲がりなりにも大学で日本文学を修め、国語学関連の科目を履修して単位も取ったことがあるが、既に40年近い昔の話で正直皆忘れてしまった。従って、ゼロから日本語文法の知識を蓄えて行かねばならない。幸い今はネット時代で、地球の裏側にいても簡単に情報が得られるようになり、様々な参考文献を利用させて頂いている。本ブログでは特に出所を明示しないので悪しからずご了承頂きたい。

前述の三文献を含めてこれまでに活用させて頂いた情報をテーマ別に整理すると、
1 品詞分類:「名詞G、動詞G、接着剤」という分類で
2. 語結合の基本構造:「名詞または形容詞+助詞、動詞+助動詞」という形式で
3. 文の基本構造:「主題+出来事+法」という形式で
の三テーマ。
1. については言うまでもなく江副さんの本から頂いたものである。2. と3. についてはネット上の色々な情報を元に自分で整理し直したものだ。よって、後々「例外」が沢山出てきて見直しということも十分あり得るが、今はこの整理に基づいて教えていこうと思っている。

(了)

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■ピョートルコフスカ通り217番地/日本食レストランKuroneko

ピョートルコフスカ通り217番地で営業している日本食レストランKuronekoについては以前紹介したが(ここ)、しばらく時間も経過したので近況をお届けする。

レストランが開店したのは昨年(2016年)6月。早いものでもう半年以上経ったことになる。正直自分自身はあまりお店を訪れる機会に恵まれなかったが、店主吉田さんは、ご夫君のサポートもありFacebookなどで絶えずお店や新しいメニューの紹介を行っているので、順調に進んでいることは陰ながら承知していた。別途投稿のように、昨年暮れから複数の場所でポーランド人に日本語を教えることを始めたが、そのうちの一つである語学学校PerfektOKがミツケーヴィチ通りとピョートルコフスカ通りとのほぼ角に当たっていてレストランまで徒歩で行けるようになったので、今回久しぶりに訪れてみた次第である。

第一印象は、店内の装飾が開店当初に比べると大分日本食レストランらしくなっており、BGMも流れていて雰囲気が出ているということだった。筆者がウッチに移住してから四半世紀近くになるが、その間ウッチではポーランド人の経営による日本食レストランが現れては消えの繰り返し。最近はSUSHIがポーランド人にも大分浸透してきて、ウッチでもあちこちにSUSHIバーが増えてきたが、日本人による本格的な日本食レストランはKuronekoが唯一。ウッチ在住日本人としては嬉しい限りである。

近くに住んでいて旧交を温めると言うのもおかしいが、今回店主の吉田さんとも久しぶりに歓談できた。レストランとして、歳末のクリスマス休暇と新年を迎えるセレモニー(シルベスター・パーティー)の期間を今回初めて経験した訳だが、勝手が分からず結果的に働き詰めだったそうである。恒例のウッチ在住日本人が集まる新年会も今年はパスしたほどだ。それでも、レストランは週末は満席になるほど盛況とのことで、お顔はいつもの爽やかな吉田さんだった。語学学校の仕事が安定して続けられるという前提ではあるが、足が向けやすくなったこともありこれから時々顔を出すつもりでいる。

img_20170114_142507429_hdr Kuroneko味噌ラーメン

img_20170114_142704645_hdr カウンターの様子

img_20170114_142716656 店内の様子

(了)

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■日々つれづれ(2017-01-13)

今日はピョートルコフスカ通りを散歩するつもりはなかったのだが、事の流れで冬のピョートルコフスカ通りを写真に収める結果になった。

元々の予定ではまず理髪店に行って散髪し、その足である役所に行くことにしていたのだが、無事散髪は済ませたものの、その後トラムの路線が変更になっていたことを知らずに正しい14番線のトラムから衝動的に降りてしまったことが事の発端。まあ、あちこちで工事をしているので路線変更は頻繁にあり、事前に変更を良くチェックしていなかったこちらに非があると言えばある。

それやこれやで、当初改札したチケットでは時間的に目的地まで行けなくなり、ピョートルコフスカ通りで一休みすることにした。ちょうどお腹も空いてきたところだったので結果的に正しい展開になったのかもしれない。衝動降りした地点でバスに乗り継いでザメンホーハで降りる。そして、社会保険庁(ZUS)の建物を右に見ながらピョートルコフスカ通りに至る。本格的な散歩をするつもりはなく、直ぐに近くの喫茶店(Cukiernia)に入り久々のコーヒーとドーナツ(pączek)。そこからトラムのストップまで徒歩で移動したのだが、その途中で撮ったのがこの写真という次第。

今頃の季節は散歩には不向きだし、実際殆ど出歩かないのだが、記憶に残る写真が撮れたし、結果的に悪くない一日となった。

img_20170113_120533056

(了)

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■日々つれづれ事始め

羊頭狗肉。中学校で習ったこんな四字熟語が最近頭をもたげてきて悩ましく思っている。それと言うのも、ブログのタイトルを「ウッチ郷土史つれづれ」としたものの、このテーマでの最後の投稿からすでに四ヶ月のブランクができてしまっているからである。

ブランクの原因は、年金受給の手続きで複数の役所との対応に追われたり、日本語をポーランド人に教えるという第二のテーマを本格的に始動させたりということで、郷土史の方に力が割けなかったということに尽きる。時間は、やり繰りしようと思えば出来たはずであるが、気力が足りずこのテーマに集中出来なかった。

この間に、前述の第二のテーマでの投稿も始めた。そして本稿のように、また多くの他のブログのように、時々の想いを自由に綴ることへの誘惑も益々大きくなってきている。そういう状況で、思い切ってブログのタイトルを変えることも考えたのであるが、メインのウッチ郷土史というテーマは矢張りこのブログの核としておきたいという気持ちも強く、結局そのままにすることにした。ただ、今後は本稿のような投稿を適宜していくことになるので、これまで「管理人覚書」というタイトルで固定ページ扱いにしていた記事は以下再掲して、当該固定ページは廃することにする。

(過去に記した「管理人覚書」から)

2016年8月9日(火)
私的、公的含めてイヴェントが続いたが、ほぼ通常の生活に戻る。今日からまたブログへの投稿を再開しよう。
2016年12月21日(水)
11月のコンフェレンスの直前くらいに引いた風邪をこじらせて一進一退を繰り返しながら今日まで完治しない状態が続いている。ただしこの間に大きな動きもあった。当ブログのテーマである「ウッチ郷土史の研究」と「日本語教えること」の2つを第2の人生の目標として設定しているが、ようやくこの2つめの目標を実現させる目処がついたこと。民間の外国語学校で数人のポーランド人に日本語を教えるだけだが、報酬を度外視して楽しくやっている。このブログでも歴史研究だけでなく「新米日本語教師つれづれ」のテーマでの投稿もしていきたい。
2016年12月29日(木)
例年この時期には一年分のデータを整理してアーカイブする作業を行っているが、ついでにワードプレスの複数のブログにも「手」を入れて、別ブログで集めていたロシア語資料の一部を当ブログに移動させることにした。パスワード付きに制限公開にしようと思ったが、うまく機能していないようなので、当面非公開扱い、つまり自分専用の資料とする。

(了)

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■新米日本語教師奮闘記(2017-01-02)

個人教授の希望者がいて、新年から日本語を教えることになった。

今度の生徒はゼロから始める学習者ながら文字に関心があるという。漢字は別にしても、ひらがなとカタカナが読めて書けないと初級より先には進めないし、ネット上に数多ある教材も使えないのでどうしてもある時点で進歩が止まってしまう。その意味で有望な生徒になってくれるかもしれない。

当該言語が使われていない国で外国語を学ぶことは生易しいことではない。とはいえ、大半の学習者はそうした条件で学習していることも確かだ。かつて自分が外国語を教わったある先生によると、語学は三キだという。暗記、根気そして年季だそうだ。このうち、暗記と根気は生徒側の資質によるものが大きいが、「年季」については教師側の教え方が貢献もすれば、逆に意欲を削いでしまう結果をもたらす可能性もある。

言い換えれば、生徒の学習意欲を維持させていくことが語学教師の重要な機能の一つだということだ。教わる側から教える側に立った今、改めてこの「三キ」の金言を噛み締めているところである。

(次回に続く)

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