■言葉との関わりについて

自分が勝手に命名している、自分の人生の「20年周期説」によれば、20歳までが人格形成期、40歳までが若年期、その後60歳までが壮年期である。

ポーランドに移住してきたのは、ちょうど40歳のときだから生活の場所という観点で確かに区切りになっているし、また60歳で企業人生にピリオドを打ったので、生きることに必要な糧を得る職業という観点で、60歳が区切りになっている。日本から出てしまっているので「定年」という縛りはなかったのであるが、あえて自分で区切りを付けた。後に家族から、「もう少し企業で頑張ってもらいたかった」という嘆きもどきも出たのであるが。。。

こう書くと、数字遊びに走り過ぎているというコメントがすぐにも出てきそうである。確かにその通りで、かつ数字遊びは文字通り「遊び」である。しかし、数字で区切ることで少なくとも自分の人生を相対化、対象化するという効用はある。人生の転機を決断する時に、どれだけそうした意志が働いていたのか、今は知る手立てとてないが、それまでの人生をそれと気づかず振り返っていたのではないかと思う。

対象化といえば、若年期と壮年期を合わせた40年間、つまり職業人生を送った期間を通して一貫していたのは、外国語を駆使して禄を食むということであった。

統計によると、高校に入学した頃の大学進学率は20%弱。当時は、職業高校という選択肢はそれほど奇異な選択肢ではなかった。一方で、高校を卒業した年の大学進学率は約30%。結局、自分も大学進学をめざすことになった。周りにも、高校卒業後直ぐに職業生活に入らず大学入学をめざした学友が約40人のクラスで5人ほどいた。

そういう時代であったのだが、進学校からではなく職業高校から大学に進んだことで、英語に苦手感を持ってしまったようだ。改めて受験勉強をして入学した二度目の大学で、必修語学の英語とは別にロシア語に惹かれたのも、英語への苦手感の裏返しだったのかもしれない。とにかく、その後特殊語学遍歴が始まることになる。特殊語学といっても、要は英語以外の言語の学習ということである。そして、これがその後の人生の方向を決めてしまう結果になった。

移住後は様々な理由で随分と職場を変えたが、それだけ履歴書もたくさん書いてきた。履歴書の語学欄には、通常多少下駄を履かせて書くものだが、ロシア語、ポーランド語については、レベルの差は別にして概ね記載してきた。そして英語もひっそりと。その後プラハで勤務することになり、チェコ語もかじり、また顧客としてオランダ人、イタリア人とお付き合いすることになり、挨拶くらいは出来るようにということで、オランダ語とイタリア語に手を染めたりした。ただ、どうしても先に進まない言語もあった。それは西隣の国の言語であるドイツ語。また、東スラブ、西スラブときて、次は南スラブということで始めたクロアチア語も、成果はなかった。

今思えば、一応習得したと思える言語も、ポーランド語ですら、基本は仕事のための語学であり、自分のための語学ではなかったように思う。特に英語は、相変わらず苦手で、社内会議では分かっている振りしながら凌いでいた。とにかく、語彙が決定的に不足していた。語彙だけは自然に習得するという訳にはいかないらしい。そして、意識的な暗記作業が出来るのは、やはり学生時代のようである。そんなこともあって、企業時代を抜け出してまず感じたのは、自分以外の話者の思いを伝える「通訳」という仕事から解放されたという思いであった。

しかし、語学が好きという気持ちには変わりなく、習得した言語を使って、企業「卒業」後に自分がやれることとして浮かび出てきたのが、ウッチの歴史を翻訳する作業であり、その言語を使って日本語を教えるという仕事である。こうした視点に至るにはさらに数年必要であったのだが、これはまた次のステージの話になる。

さて、仮にこの短文を目にする若い方がいるとして、ここで結論めいたことを付け加えておくなら、多少自分の時間を犠牲にしても、語学を修める価値があるということ、習得した後の使い道も各人各様であるということの2点だろう。もちろん、習得過程での3キ、暗記、根気、年季は、どんな場合でも重要であることは言うまでもない。

(了)

■バウータ市場

今から約30年前のウッチと、現在のウッチとでは、ずいぶん趣が異なる。その30年は脱社会主義のポーランドが辿ってきた30年でもある。

ポーランドだけでなく、旧ソ連・東欧体制が崩れた象徴的な年となったのは1989年だった。普通は、冷戦終結の年という言い方をするのかもしれない。ポーランドでは、円卓会議そして自由選挙という流れがあった年だ。自分が移住した1994年当時は、新しい体制がまだ始まったばかりで、本格的に国の様相が変わるのは、2004年にポーランドなど10カ国が新たに欧州連合に加盟してからである。

身の回りのことを思い起こしてみると、税法など直接生活に関わる法律がずいぶん変わり、デノミもあった。通貨のゼロが4つも切り取られ、しばらくは頭の中で換算が必要だった。欧州連合加盟までの間は、仕事に関わる分野でも法律の変更にずいぶん悩まされた。もっとも、そのおかげで日系企業で仕事をさせてもらえたという側面もあるのであるが。今は、現地の言葉であるポーランド語が出来る日本人というだけでは、なかなか仕事が見つからないようだ。

話しをウッチに戻すと、ウッチの「顔」になっているショッピングセンターのマヌファクトゥーラ(Manufaktura)がオープンしたのは2006年(*)、地元の人々の生活に今でも欠かせないバウータ市場に、露店ではないパサージュが出来たのは2009年だった(*)。いずれも欧州連合加盟後のことである。二つともウッチの歴史に深く関わっているが、今日のテーマはバウータ市場。(*:公式HPによる)

郷土史に関するポーランド人向けの啓蒙的な動画はたくさんあるが、日本語で紹介しても良いかなと思える動画があったので、まずこの動画を紹介する。オリジナルの作者は、音楽家のトマシュ・ゴウェンビェフスキさん。作者にお願いして、日本語の字幕が表示されるようにして頂いた。翻訳はおおよその意味が通じればよいというレベルでやっつけてあるので悪しからずご了承をお願いする。

冒頭に、「19世紀中葉のウッチ市郊外。バウータ地区はこの頃に飛躍的に発展した。  」とある。19世紀中葉、つまり1850年前後ということである。ポーランドは、1830年の11月蜂起(-1831年)の失敗後、ロシアの属国に成り下がっていた。動画の冒頭はそうした背景があって述べられている。

時代は1915年に飛ぶ。第一次世界大戦(1914年ー1918年)のさなかの時代だ。ポーランドは、ドイツとロシアとの間の「戦闘地」になっていた。戦史の詳細は、専門の研究者の研究に任せるとして、とにかく1915年のウッチはドイツ人の手中にあったようである。

時代はさらに飛んで、第二次世界大戦中のドイツによる占領下の時代に移る。このブログでも、ウッチ・ゲットーについては過去に複数記事にしているが(■ウッチ・ゲットー探訪■ウッチ・ゲットー解体72周年のこと■ウッチ・ゲットー救出記念公園のこと)、この時期のことを扱う際には、どうしても避けて通れないテーマである。今日のテーマであるバウータ市場はその中心的な場所であった。ゴウェンビェフスキさんのこの動画でも、当然ゲットーのことが触れられている。

概して、18世紀末の「第3次分割」から、19世紀を通して、20世紀初頭の主権回復に至るポーランドの歴史は、実に波乱に満ちている。通常、この時期の歴史は、主役であるドイツやロシアの側から記述されることが多いが、視点を変えてポーランドからみたドイツやロシアを研究したら面白いかもしれない。当ブログでも、ウッチ郷土史という視点で、こうした時期の歴史の一端を翻訳・紹介している(■ウッチ歴史百科第3巻私訳版(未完))。

さて、この動画を紹介しようと思ったのは、ウッチの歴史の概略が辿れることが一つの理由であった。が、実はそれにも増して、作者の結語とも言える最後の部分に共感したというのが本音の理由である。今は我が家でも、買い物の大半はハイパーマーケットで処理するが、野菜や果物は出来るだけバウータ市場に出かけて調達する。バウータ市場といってももっぱら露店の方。それは、新鮮だからである。パサージュが出来た今でも、これは変わらない。バウータ市場の歴史的な意味はもちろん重要であるが、それは同時に自分の生活に直接結びついた場所でもある。歴史好きは、現在そこに住み生活している人々のことを忘れがちであるが、自戒をこめてこのことを思い起こしておきたい。

(了)

■6年ぶり、「子どもたちへ」

〈子どもたちへ〉

最後に君たちに宛てて便りを送ったのは、ポーランドと国境を接するウクライナに、ロシアが歴史的な侵攻を敢行した2014年。6年ぶりの通信になります。

最初の便りは、こんな感じで書き出されていました。

。。。ポーランドで成長したとはいえ、日本人のパパとポーランド人のママとの間に生まれた君たちは、平均的なポーランド人とは少し違った経験をしてきたはずです。学校などでも、少なくとも最初の頃は、日本人としての扱いだったでしょう。日本での異邦人(エトランジェ)ほどではないにしても、周囲に違和感を感じたことも多々あったであろうと想像します。パパも、平均的日本人とは少しばかり違った人生を歩んできました。いや、ポーランド人として育った君たちから見ると、平均的ポーランド人とは違うパパということになるのかもしれませんね。。。

この時、パパは君たちが記憶していないパパの前半生を回想していたのでした。ポーランドに移住して以降の時期については、君たちの記憶にも残っているはずですから、それ以前の時期のパパを君たちに知ってもらおう、というのが趣旨でした。以降の時期については後半生というわけです。日本での生活とポーランドでの生活という区切りだけでなく、君たちのことを考慮した区切りでした。

先に引用した最初の通信では、移住に伴う3つの「不足」を挙げて、ポーランドに移ったばかりの当時の生活を回想していました。日本食材、日本語の書籍、そして日本語環境のPCライフ、これがその3つの不足でした。いずれもそれから30年近く経った現在とは全く違った環境にありました。現在では、想像もつかない話しでしょう。インターネットとスマートフォンの時代になっていくのは、更にその後のことです。

前置きが長くなりました。実は、君たちへの通信を再開したのは、君たちと共有してきた時間を回想するためではなく、進行中である後半生についてのパパなりの回想を、少しづつでも書き留めておきたくなったからです。

前半生における主要なキーワードはロシア語でした。今考えれば、このキーワードも一里程に過ぎず、ポーランドそして何よりウッチが、最終的なキーワードであることに全く疑問の余地はなくなっています。このことを君たちに伝えたくて、この新たな便りをしたためています。

コンパスは、ウッチというキーワードだけです。このキーワードが、どれだけの奥深さを秘めているのか、正直今でもよく分かっていません。ウッチというキーワードで回想されたパパの後半生。どんな内容になるのか。とにかく、出来るだけいろいろな切り口で回想してみようと思っています。ではまた。

■ブログ新装開店のこと

5年前にこのブログを始めた時の基本的なアイデアは、終の住み処と決めている地元ウッチの諸々を、日本語で紹介するということであった。ただ一方で、第二の人生におけるもう一つの仕事として、日本のことをウッチの人達に紹介するということも企図していた。実際まもなく、にわか日本語教師として日本語を教えることになり、現在に至っている。

こうして、「二足のわらじ」で動き始めた第二の人生であったが、そのうちこの2つ目の仕事が主な活動になり、ブログは「開店休業」というジレンマに陥ってしまう。折々、この状況を解消して本来の姿に戻そうと試みてはきた。しかし、状況は改善せず、結局ブログの方は最後の投稿から2年近く経ってしまった。

一時は、この日本語教師としての仕事が、企業時代と同じような「仕事」として流れていくかに見えた。しかし、昨今の環境激変で仕事そのものの根本的な変更を迫られ、その対応に追われることになった。そして、このことが前述のジレンマ解消という課題に、再び取り組む契機になった。皮肉と言えば皮肉なことではある。

まず気付いたことは、ウッチの「諸々」を紹介するというのは、自分が目指すようなブログのテーマとしては、風呂敷を広げ過ぎということだった。もちろん、そうした日々の思いをつづることが主体のブログはネットに溢れている。当ブログも一時期似たような流れに傾いていたことがあった。しかし、今回の環境激変で、自分に与えられた時間には限りがあるということに改めて気付かされる。

ということで、「諸々」という看板は取り下げて、ブログの本来の目的である、ウッチの歴史を日本語で読めるようにすることに注力することにした。過去の投稿も観光案内的な内容の投稿は新装バージョンから外した。とはいえ、翻訳だけではブログにならないので、ウッチと自分との関わりということに限定して、思うことなどをこれからもつづっていこうと思う。

(了)

■ブズーラ川

日本語の個人レッスンを授けていた中学生の男の子が、この9月から高校に上がり、学校の授業に集中したいということで日本語のレッスンを中断すると伝えてきた。9月はこの授業だけを予定していたので、いきおい今月も夏季休暇の続きをすることになった。

若干拍子抜けの感もあるが、ポジティブに考えれば自分が使える時間がまたできた訳で、早速前回の投稿で宿題になっていた、ズギェシを流れるブズーラ(Bzura)川の探索をしてきた。地図を眺めることを厭わない方は、以下では前回の投稿にある地図かグーグルマップを参照して頂ければと思う。

いつものように6番のバスに乗る。定期券はウッチ市の境界を超えると無効なので、ズギェシに入る時に別途切符を買わなければならない。筆者はスマートフォンで処理するが、紙の切符を利用している人もまだ多く、境界があるバスストップで検札する人々をよく見かける。

前回はズギェシのバスターミナル迄乗ったが、今回は途中で下車して、先ずコンスタンティヌフカ通りに掛かる川の「名残り」を見届けることにする。地図を見ると分かるが、ズギェシの街を走る主要道路である国道91号線(旧1号線)を境にして西側にブズーラ川の一部が走っている(流れている)。

以前ウッチを流れるヤーシェン川を探索した際と同様、地図を頼りにコンスタンティヌフカ通りのそれらしい場所まで進むと、確かに小川が流れているのが確認できる。但しささやかな流れは叢の陰に隠れ、普通に歩いていては恐らく見落としてしまうであろう。注意深い人なら、橋が掛かっているのでその下に流れがあるであろうくらいは想像するかもしれないが。ということで、第一の目的は達成。上述の小川を何枚か写真に収め、そのままコンスタンティヌフカ通りを進んで、カトリック教会を横目に見ながら街の中心に出る。

話題は少し脇道にそれるが、ウッチは、西のドイツと東のベラルーシとを結ぶ鉄道の幹線から少し南に外れており、西から鉄道で移動してくる際は、このズギェシを通って更にその先にあるクトゥノという駅が最寄り駅になる。ベルリンなどからウッチに来る場合、クトゥノで乗り換えて鉄道で来ることも可能だが、地元の人達は乗用車かクトゥノ・ウッチ間を走るミニバスで移動することが多い。その場合通常はこのズギェシの市内を通り抜ける。目印は上述のカトリック教会と国道91号線を挟んで反対側にあるマック。特定の商業施設の宣伝まがいは好ましくないが、ここはご容赦願うことにしたい。ということで、今回はマックでコーヒーブレイク。

コーヒーを飲んで一休みしたあと、今度は川の途切れた先の部分の探索に移る。マックを出て裏通りを少し行くとそれらしい場所がある。その先の市営(恐らく)の貯水池に繋がっているせいか、前述の小川よりは若干整備されている。流石に舗装はされていないが、両岸は散歩道になっていて、バギーを押す幼児を連れた母親が散歩していた。貯水池はポーランドの英雄タデウシ・コシチューシコの名が冠されている。

この貯水池に至る前述の短い水流が川と名付けられるとして、実はこの川は貯水池を経て更に先につながっている。地図を少し拡大してウッチ市域を含めた上で改めて眺めると分かるが、最終的にはウッチ・ワゲヴニキ地区のアルトゥルーヴェク公園に至っている。当ブログのメインテーマはウッチの歴史を探っていくことであるが、川という視点で見ていくとウッチの外に出ていかざるを得ない。前回と今回の投稿はその最初の試みということになるであろうか。

(了)